ぶらぶら人生

心の呟き

西瓜

2006-07-31 | 身辺雑記
 七月最後の今日、ブログはお休みにしようかと考えていた。
 珍しく働く気になって、先日来取りかかっている書斎の片付けに興が乗ってきたからである。今までも、作業に備えて身支度はするものの、さてと、意を決して取りかかるのが大変で、書斎に入っても、能率が上がらない。
 捨てるべきか、残すべきかに迷って、久しく手にすることのなかった書籍のページをくっているうちに、座板に座り込んで、読みふけってしまったり、これは神田の古本屋で求めた本だと、遠い日を懐かしんだり、アンダーラインを眺めて、こんな厄介な本をよく読んだものだと、若き日の自分に感心したり、献呈本には、関わりのある人の思い出を絡ませたり、片付けるのは簡単そうで、容易なことではない。

 今日は少しばかり、作業がはかどり、昨日は残す本として山積みしていたものも、とにかく身辺身軽になることを優先し、思い切って<お別れする本>の部類として、紐でくくった。愛着には眼をつぶることにして。
 そこへ電話がかかってきた。
 「西瓜を召し上がりますか」と。
 お隣からの、うれしいプレゼントだ。今年は出来がよかったとのこと。西瓜に、長雨のたたりはなかったらしい。
 私にとっては、初物。冷蔵庫に入れる前に、写真を撮った。
 そして、ブログにひとこと西瓜のことを書いておこうと、パソコンを開けた。
 折角今月は、昨日まで、一日も休まずに投稿し続けたので、七月最後の今日も、ひとこと書き止めておくことにしよう。
 一日も休まず、ひと月書き続けるなど、今後そんなにあることとは思えないので。 

 冷蔵庫に西瓜を入れようとして、ふと子どもの頃を思い出した。
 冷蔵庫などなかった代わりに、天然の、趣のある井戸や冷水場のあったことを。
 祖父母の家の裏背戸の光景が、眼に浮かんだ。
 筧から流れくる水の涼しそうな音。柄杓に汲んで飲んだ水の清涼感。屋根のある井戸の傍に佇んで、外界を見たとき、日向と陰とが、鮮明な明と暗に区切られて、いかにも夏らしい風情だったこと。そして、筧の水の溢れる水槽には、西瓜やトマトなどが、常に冷されていたことなど。
 お盆の墓参で、祖父母の家に行くことが多かったので、思い出は、すべて夏の色を帯びている。
 「ツクツクホーシ」の声も蘇る。声をふり絞るように鳴く法師蝉の声が、子供心にも、もの悲しかった。
 海辺の町から、山深い祖父母の家に行くと、同じ井戸でも特別な仕掛けがあるように思えたものだ。筧の水を柄杓で飲めるという、そんな些細なことさえも、妙に楽しかった。

 戦前と戦後を生きた私たちは、現代の便利さの前にあった、貧しいながら、自然で素朴な、今では失われたよさを懐かしめる、世代ということらしい……。
 そういえば、涼み台、蚊帳、団扇なども、日常の生活から消えてしまったが、みな夏の風情として懐かしい。考えてみると、涼み台の周りには、人々が集まり、蚊帳の中にも、幾人かが一緒だった。
 そこには、絶えず人と人との交わりがあった。
 今ほど、個の時代ではなかったようだ。

 歳時記から、西瓜を詠んだ句を、一句。 

 刃を入れて鬱を払はむ冷し瓜   清水基吉

 
 

 
コメント
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