ぶらぶら人生

心の呟き

大暑 土用の丑の日

2006-07-23 | 身辺雑記
 今日は、暦の上では、「大暑」「土用の丑の日」
 歳時記によると、土用の入りの今日は「土用太郎」、明日は「土用次郎」あさっては「土用三郎」というのだそうだ。古来、土用三郎の日のお天気の如何で、その年の豊作の善し悪しを占ったのだとか。

 午前中は曇り、午後は小雨が降ったり止んだりの一日で、一向に大暑らしくない。
 九州地方では、18日以来の総雨量が1200ミリを超えるところがあるという。川の氾濫や土砂崩れなどの被害が相次ぎ、相変わらず不安な状況が続いている。テレビで濁流や浸水被害の光景を見るたびに、心が落ち着かない。
 暑い夏は好きではないが、そろそろすかっと晴れて欲しい。
 現在のところ、私の周辺は、危険な状況にはない。
 家では、今日、庭木の剪定をしてもらった。雨で作業ができないような大降りにはならず、無事に終了した。庭師の夫妻が一緒に仕事をしてくださるので、能率がいい。
 だが、家の周辺に人がいて、絶えず電気音や鋏の音がしていると、ひとりでいる時とは勝手が違い、自分の居場所を失ったような気分になる。
 時には外に出て、こちらの希望を伝え、思い切り木を切ってもらったり、はびこりすぎた草花を抜き取ってもらったりする。
 木の下には、落ち葉もあり、草も伸びている。日ごろ、細やかに草取りや掃除をしないので、庭師さんが、ついでにきれいにしてくださる。ありがたい。
 電気の器械で、落ち葉や剪定の葉っぱなどを上手にかき集めて。
 「それはお庭の掃除機ですか」と尋ねると、「これは送風機です」と、教えてくださる。確かに掃除機のように吸い込むわけではない。単に強風で、不要物をかき集めるための道具なのだ。だが、便利なものがあるものだと、妙に感心する。
 掃除の嫌いな私は、ボタン一つで、掃除完了、というわけにはいかないだろうかと、しばしば思うことがある。必要なものと不必要なものとを識別して、塵だけを吸収する機械が発明されたら、どんなにいいか知れない。
 掃除機だって、洗濯機だって、子どもの時にはなかった道具だ。あんなものを考え出した人は実に偉い! そのうち、ひとりの偉大な発明家か、共同研究の成果か、いずれかにより、私の夢のかなえられる日が来るかもしれない。が、それは私の死後のことになるだろうけれど。

 家にいても、なんだか落ち着かないので、画集を開く。
 「原色日本の美術」小学館)の18巻<南画と写生画>に、伊藤若冲の「群鶏図襖絵」や「池辺群虫図」など数点が載っていたので、画集鑑賞に時間を費やした。
 実は今朝、新日曜美術館で、「若冲と江戸絵画」をやっていて、伊藤若冲の絵画のすばらしさに改めて感動した。先日、萩美術館でも、「薔薇に鸚鵡」という一枚の絵を観て心を惹かれたので、今日も熱心に観たのだった。

 若冲の絵にも感動したのだが、いまひとつ、ジョー・プライスという美術収集家にも感心した。若くして、若冲の絵に惹かれ、ヨットで来日したという。
 プライスの目の確かさに驚く。今回の「プライス・コレクション展」に際しても、絵画鑑賞のあり方として、ガラスケースのない、露出展示を試みたり、照明の当て方を工夫するなど、常識にこだわらず、あるべき鑑賞の方法を取り入れているのだという。いまだ直接絵画を見ることのできる展覧会に巡り合ったことがない。貴重な作品だから、美術館側からすれば、ガラスケース入りやロープを張って見せるやり方は当然のことだが、コレクター自身があえて、露出展示を主張するというのだから、姿勢が違う。美術鑑賞以外のところでも、今日は感動した。
 また、プライスの、若冲をはじめ江戸絵画への開眼には、石油関係で財を成した父親の知人で、建築家のフランク・ライトとの出会いが関係するという。帝国ホテルの設計者でもあるライトは、浮世絵を愛した人らしい。ライトと古美術を観て歩くうちに、プライス自身が、若冲、更には江戸絵画に惹かれて、収集することになったという。
 人間の出会いが、人間の運命と関わる、不思議な縁を思った。

 伊藤若冲は、「具眼の士を千年待つ」と言ったそうだ。自分の絵の本当の理解者を、後の世に期待した言葉だろう。1800年の死から200年後の今、若冲の魅力は、改めて見直されているようだ。

 大暑の今日、私は剪定師に付き合いながら、一方で画集など眺めて、あれこれ考える一日となった。
コメント
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