カーテンの向こうに、梅雨があけたかと思うような青い空があって、強烈過ぎる日差しが、物憂げに庭面に注いでいる。
午前中は、聞くともなく音楽をきいた。
意欲のわかない日は、音楽に限る。
2006年6月9日N響演奏会の、再放送。
指揮者 準・メルクル
曲 目 シューマン 交響曲第4番ニ短調作品120
クララ・シューマン ピアノ協奏曲イ短調作品7 (ピアノ 伊藤恵)
シューマン 交響曲第1番変ロ長調作品38 「春」
指揮者 準・メルクルは、1959・2・11生まれ。父親がドイツ人のヴァイオリニスト、母親は日本人のピアニストの由。名前に「準」の字があるから、日本にゆかりのある人だろうとは想像したが、調べてみて間違いないことが分かった。
バーンスタインと小澤征爾に師事。私が知らなかっただけで、いまや一流の指揮者らしい。
指揮者のかもす雰囲気がよく、表情が豊かで、演奏を楽しんできくことができた。
シューマンの交響曲4番の、どこか幻想的な味わいや、1番に漂う春の気分を、快くきいた。
http://homepage2.nifty.com/junmarkl/
クララ・シューマンのピアノ協奏曲もよかった。ピアニスト伊藤恵(いとうけい)の演奏をきくのも、初めてだった。
午後のひと時は、井上靖の詩集を拾い読みした。
(今日のような、鬱陶しい日は、まとまった読書をする気にもなれない。)
詩集には、気に入った詩がたくさんある。
一篇を引用しておこう。
ふるさと
“ふるさと”という言葉は好きだ。古里、故里、故郷、
どれもいい。外国でも“ふるさと”という言葉は例外な
く美しいと聞いている。そう言えば、ドイツ語のハイマ
ートなどは、何となくドイツ的なものをいっぱい着けて
いる言葉のような気がする。漢字の辞典の援けを借
りると、故園、故丘、故山、故里、郷邑、郷関、郷園、
郷井、郷陌、郷閭、郷里、たくさん出てくる。故園は
軽やかで、颯々と風が渡り、郷関は重く、憂愁の薄
暮が垂れこめているが、どちらもいい。しかし、私の
最も好きなのは、論語にある”父母国”という呼び方
で、わが日本に於ても、これに勝るものはなさそうだ。
”ふるさと”はまことに”ちちははの国”なのである。
ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国よ、風よ、陽よ。
(第五詩集「遠征路」より)
先日、長田弘の散文詩を読んだ後、散文詩という共通項を持つ井上靖の詩集を書棚から探し出した。文庫本二冊が出てきた。一冊は、第一詩集「北国」という薄い文庫本で、もう一冊の「井上靖全詩集」(新潮文庫)には、同詩集も含まれている。
<ふるさと>という詩は、きれいさっぱり忘れていた。が、論語にある<父母国>を引き、<ふるさと>とは、<ちちははの国>だというあたり、言いえて妙、だと感心した。私も、「ふるさと」という言葉は好きだ。
が、上記に、指揮者、準・メルクルのことを書いたばかりなので、父と母の国が異なる人たちにとって、<ふるさと>とは? と、つい考えてしまった。最近は、準・メルクルに限らず、父と母の国(ふるさと)が、異なる人は多いはずだ。そんな人たちに、井上靖の、この詩は、どんなふうに映るのだろう?
世界的な視野で考えれば、私のふるさとは、紛れもなく<ちちははの国>なのだが、日本の国の中で、<私のふるさとは?>と、自らに問えば、私自身も、どこがふるさととも、言い難い気がしてくる。根無し草の思い! しかし、この思いは、「ふるさと」という言葉が好きなことと、矛盾はしない。
井上靖の、「ふるさと」詩は、詩集「遠征路」中の作品であることを考えると、異郷の地にあっての心境が、発想源になって書かれているのかもしれない。
最後の、<ああ、……>に始まる一行の、やや感傷的とも取れる表現からも、そんな感じがする。
今日は、ぼんやり音楽を聞いたり、気ままな読書をしたりの、怠惰な一日だった。
午前中は、聞くともなく音楽をきいた。
意欲のわかない日は、音楽に限る。
2006年6月9日N響演奏会の、再放送。
指揮者 準・メルクル
曲 目 シューマン 交響曲第4番ニ短調作品120
クララ・シューマン ピアノ協奏曲イ短調作品7 (ピアノ 伊藤恵)
シューマン 交響曲第1番変ロ長調作品38 「春」
指揮者 準・メルクルは、1959・2・11生まれ。父親がドイツ人のヴァイオリニスト、母親は日本人のピアニストの由。名前に「準」の字があるから、日本にゆかりのある人だろうとは想像したが、調べてみて間違いないことが分かった。
バーンスタインと小澤征爾に師事。私が知らなかっただけで、いまや一流の指揮者らしい。
指揮者のかもす雰囲気がよく、表情が豊かで、演奏を楽しんできくことができた。
シューマンの交響曲4番の、どこか幻想的な味わいや、1番に漂う春の気分を、快くきいた。
http://homepage2.nifty.com/junmarkl/
クララ・シューマンのピアノ協奏曲もよかった。ピアニスト伊藤恵(いとうけい)の演奏をきくのも、初めてだった。
午後のひと時は、井上靖の詩集を拾い読みした。
(今日のような、鬱陶しい日は、まとまった読書をする気にもなれない。)
詩集には、気に入った詩がたくさんある。
一篇を引用しておこう。
ふるさと
“ふるさと”という言葉は好きだ。古里、故里、故郷、
どれもいい。外国でも“ふるさと”という言葉は例外な
く美しいと聞いている。そう言えば、ドイツ語のハイマ
ートなどは、何となくドイツ的なものをいっぱい着けて
いる言葉のような気がする。漢字の辞典の援けを借
りると、故園、故丘、故山、故里、郷邑、郷関、郷園、
郷井、郷陌、郷閭、郷里、たくさん出てくる。故園は
軽やかで、颯々と風が渡り、郷関は重く、憂愁の薄
暮が垂れこめているが、どちらもいい。しかし、私の
最も好きなのは、論語にある”父母国”という呼び方
で、わが日本に於ても、これに勝るものはなさそうだ。
”ふるさと”はまことに”ちちははの国”なのである。
ああ、ふるさとの山河よ、ちちははの国よ、風よ、陽よ。
(第五詩集「遠征路」より)
先日、長田弘の散文詩を読んだ後、散文詩という共通項を持つ井上靖の詩集を書棚から探し出した。文庫本二冊が出てきた。一冊は、第一詩集「北国」という薄い文庫本で、もう一冊の「井上靖全詩集」(新潮文庫)には、同詩集も含まれている。
<ふるさと>という詩は、きれいさっぱり忘れていた。が、論語にある<父母国>を引き、<ふるさと>とは、<ちちははの国>だというあたり、言いえて妙、だと感心した。私も、「ふるさと」という言葉は好きだ。
が、上記に、指揮者、準・メルクルのことを書いたばかりなので、父と母の国が異なる人たちにとって、<ふるさと>とは? と、つい考えてしまった。最近は、準・メルクルに限らず、父と母の国(ふるさと)が、異なる人は多いはずだ。そんな人たちに、井上靖の、この詩は、どんなふうに映るのだろう?
世界的な視野で考えれば、私のふるさとは、紛れもなく<ちちははの国>なのだが、日本の国の中で、<私のふるさとは?>と、自らに問えば、私自身も、どこがふるさととも、言い難い気がしてくる。根無し草の思い! しかし、この思いは、「ふるさと」という言葉が好きなことと、矛盾はしない。
井上靖の、「ふるさと」詩は、詩集「遠征路」中の作品であることを考えると、異郷の地にあっての心境が、発想源になって書かれているのかもしれない。
最後の、<ああ、……>に始まる一行の、やや感傷的とも取れる表現からも、そんな感じがする。
今日は、ぼんやり音楽を聞いたり、気ままな読書をしたりの、怠惰な一日だった。