奥行きについて

2010-10-09 14:47:38 | 旅行記

101009

子供のころ京都の街に住んでいたとき、道の両脇には高い塀が立ち並んでいました。土壁のように記憶していますが、その上から桜や梅や紅葉などの高木が顔を覗かせ、その壁の向こう側はどうなっているんだろう、という好奇心をかきたてられたものでした。その壁の切れ目から、すっと奥に伸びていく路地。その先に見える、屋根の下の陰り、闇。そんな秘めやかな、謎めいた雰囲気が、とても好きでした。

101009_2

以前、ポルトガルを旅行したときのこと。リスボンの古い街並みのなかには数多くの教会がありました。敬虔なカトリックの国。大きなカテドラルというよりは、どれもがこじんまりとして慎ましやかな雰囲気でした。住宅地のなかに、あるいはバス通りに面して、それらの教会は奥に引っ込むことなく、街の中に顔を覗かせています。街と隔てているのは、ドア一枚。そのドアをぎぃーっと開けると、すぐに祭壇のある身廊部になっているのでした。

最初は、そのあまりの奥行きのなさというか、あっけなさというものに、少し戸惑いました。街とドア一枚で接し、街の気配や騒音がそのまま堂内に入り込んでくる様が、少し残念なようにも思ったのです。祈るための、もっと内省的な場所として、しかるべき奥行きのあるアプローチと内向的な空間を望みたいような気持ちにもなりました。かつて京都で感じた魅惑を、別のかたちで再現されることを望みたかったのかもしれません。

ですが、しばらく教会のなかに身を置いていると、それは思い違いであるように思えてきました。スーパーの買い物袋を下げたまま、帰りのバスを待つ人、学校帰り、そんな折に教会に立ち寄っていく地元の人々の姿がちらほらと見受けられました。若い人も、老いた人も。

街との身近な距離。他人と会話する必要もない適度な大きさ。神と向き合うことが日常であること。それに適したあり方が、その場所にあるように感じられてきたのです。

リスボンの、とある教会。

堂内の窓辺には花が活けられ、心地よい居場所になっていました。まさしくそこは、生きた場所でした。街から奥行きを持たず、いつでも気軽に入れる開かれた場所。でもそこは神に向き合う、静かで内省的な場所でもある。そんなところに、心の内面にむけての「奥行き」があるように思います。

101009_3

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする