ついこの間、桐生の新里東小学校で、六年生の女子児童がいじめを苦にして自殺した。
当初学校側はいじめの事実はなかったと言い、数日後にいじめの事実があったことを認めた。それでも、自殺との因果関係は分からないと言い張っている。
インタビューに答える校長の不誠実さに、顔を背けたくなった。今回だけでなく、以前から疑問に思っているが、亡くなった生徒への学校の対応には、釈然としないものがある。新里東小学校ばかりでなく、亡くなった生徒に対する粗末な対応は、同様の事件を起こした学校に驚くほど共通している。
その曖昧さと無責任さには、これが教育界の風土かと失望を覚えさせられる。いったい校長たちは何を守ろうとし、何を隠そうとしているのか。疑問が変じて怒りとなる。
問題を大きくしたくない、なるべく平穏に納めたいと、学校に見られる事なかれ主義の隠蔽体質は、いったい何なのだろう。四角四面なことを言いたくはないが、教育者とは、現実の世界がどうであっても、人の道や社会の正義、人間の誠というものを、生徒たちに教える立場にあるのではないだろうか。
学校の醜態を目にしながら、いったい生徒たちは、何を学びとるのだろう。
いじめが一筋縄でいかない問題と、分かってはいるものの、それにしても先生方の積極性の無さは寂しい限りでないか。校長を筆頭とする、こうした教師たちの鈍感さが、いじめられている子の希望を砕いているのだと、なぜ思い至らないのだろう。
いじめは陰湿で、凶暴で、他人に相談すれば倍返しになる辛いもので、口先だけの注意では無くならないのだと、生徒たちは知っている。死んだ子が哀れまれ、何分かの黙祷でお仕舞いになり、一般的な注意だけで明日からの対策がないのなら、いったいどの子が教師や親に相談をするだろうか。
頼りない大人に周りを囲まれていれば、結局は、孤独の内に死を選ぶしかないという生徒が、これからも出てくるはずだ。こんな単純な理屈が、なぜ分からないのだろうか。
人は腕力で傷つけられるだけでなく、言葉の暴力によっても傷つくと言うこと。言葉の暴力で人が死ぬと言うことを、学校はもっと真剣に教えるべきなのだ。
他人をいじめて死に至らせるのは、悪事であり犯罪であると、シッカリ説明しなくてならない。いじめる子はもちろんのこと、見て見ぬ振りをする子も悪事に加担していることになると、ハッキリと教えるのが真の教育ではないのか。
事件があるたび学校は全体集会とやらを開催し、生徒を集合させ、もっともらしく何かをやる。同時に親たちも子供とは別に集められ、時間潰しの会議をしている。
新聞やテレビが、そそくさと会場に消える生徒や親たちの姿を遠慮がちに映し出すが、そこで何が議題となっていたのか、なぜ報道しないのか。クラスでのいじめが、社会正義に反するものだと、そんな意見が議題にならないのだとしたら、全体集会に何の意味があるだろう。
教育界の組織については良く知らないが、新聞の報道で知る限りでは、学校の上に市や県の教育委員会があり、更にその上に文部省があるのだと思っている。
それぞれの組織に学識経験者と呼ばれる立派な人たちがいて、学校だけで手に負えない、問題への助言や手助けをしているはずなのに、一向にその動きが見えないのは何故なのだろう。
教育の現場だけに限らず、いったいにわが国では、死んでしまった、あるいは殺されてしまった被害者より、生きている加害者の権利の方が大事に扱われる傾向がある気がするが、私だけの偏った思い込みなのだろうか。
事件の当事者が未成年同士である場合など、特にその感が強く、犯罪者である加害者の将来への配慮が先に立ち、被害者の家族への気配りは無視されてきた。
不断は歯切れよく社会正義を語るマスコミでさえ、この不公正さと不公平さについて、なんのコメントも発しない。世の識者と言われる人々からの指摘もなく、世間 ( もちろん私も含まれる ) の、誰も声を上げない。
最近になり、遺族の裁判への参加と加害者への質問が、やっと許されるようになったが、こうした被害者 ( 死者 ) 軽視の風潮が、そのままいじめ事件に投影しているのではないだろうか。
校長や学校関係者が、説明のためにと自殺した生徒の家を訪ねる場面が、テレビで報道されたが、もし自分が当事者だったら人格円満でない私は、責任逃ればかりする校長や関係者など、塩を撒いて門前払いにすると思う。
「これでは死んだ娘が浮かばれません」「残念だし、悔しいです」
顔を映されない父親が怒りを殺して語るのを聞いていたら、やり切れない悲しみが伝わって来た。
学校は普段から、いじめが悪であると言う教育を、授業で行う。家庭では親が子供たちに、弱い者いじめをする人間は最低だと常に教え、分からない息子や娘にはゲンコツをしてでも説教をする。
授業参観や父兄会ではいじめについて、意見交換が率直にできるような仕組みづくりを学校と親が努力する・・。いとも簡単なことではないか。
即実行に移せるほど、単純な案だ。だが、簡単で単純なことほど、この世での実行が難しい。
言っている私が一番よく分かっているのだから、今日はもうこれで止めにしよう。