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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

君は尊くましませど ( 陛下の「お言葉」 )

2017-05-18 17:50:26 | 徒然の記

  暑からず寒からず、程よく晴れた五月の朝でした。

 アイスバーグ、ロココ、ドルトムントと、庭のバラが綺麗な花を咲かせています。うすいピンクのエゴの花も、満開です。花に群れ飛ぶミツバチの羽音が、耳に優しく響きます。

 昨日の展覧会を思い出し感激の余韻に浸っておりますと、次第にそれが自分の中で、悲しみと怒りに変じてしまうのに驚かされます。昭和天皇の録音盤をめぐり、近衛師団司令部庁舎で森中将の銃殺された、その場所を自分が訪ねたという感慨が、一晩眠りますと、すっかり違ったものになったようです。

 それは、このところいつも心から離れない今上陛下の「お言葉」騒動です。

 忍びがたきを忍び、耐えがたきを耐えと、昭和天皇は戦争終結に「お言葉」を述べられました。悲壮とも言える陛下のご決断と、今上陛下のお心持ちを、どうしても比べずにおれない自分がいます。

 詔勅の録音盤を守ろうと森中将が命を失った場所に立った私に、NHKのニュースで語られた今上陛下の「お言葉」の軽さが、ひしと迫って参ります。

 天皇陛下の国事行為には、内閣の助言と補弼が必要とされます。これがいつも陛下が遵守せよと言われる、「日本国憲法」の規定です。陛下は個人的な思いだと断られ、NHKを使って意見を述べられましたが、国政を混乱させるような「お言葉」が、果たして「個人的な思い」と言えるのでしょうか。

 あの日以来、陛下のご譲位をめぐる国会での政争が、一日として報道されない日がありません。テレビや新聞を見て、国民が一喜一憂しております。

 かくも重大な国政に関し、政府にも宮内庁にも相談されない陛下だというのに、元ご学友の明石元紹 ( もとつぐ  ) 氏や床屋の主人には思いを打ち明けられました。その彼らがまた、新聞やテレビで、陛下の代弁をするというのですから、日本の民主主義と立憲君主制が吹き飛んでしまいました。

 いくら人の良い床屋の主人だとしても、大切なお客の私事につき、たとえ直接聞かされたお話だとしましても、ご本人の了解なしに喋れる訳がありません。

 紳士協定という高尚な話でなく、これは商売人の常識で、庶民の常識です。彼らは、陛下になり代わり代弁している気になり、許された範囲でお喋りをしているのだろうと、そんなことが分からないほど国民は愚かでありません。このような見え透いた小細工を、国民の敬愛の中心におられる陛下が為されて良いものでしょうか。

 聞くところによりますとご学友の明石氏とは、有名な明石元二郎大佐の孫だと言います。元二郎大佐は、明治38年の日露戦争時に、日本と戦っている帝政ロシアを内部崩壊させるため工作活動を行い、ロシア革命を支援しました。

 現在の金額にすれば、50億円になると言われる資金を反ロシア勢力に渡し、帝政ロシアの崩壊に手を貸しました。内政の騒乱がなければロシアは「日露戦争」で、日本との停戦を決断しなかっただろうという話もあります。

 「20万の兵に匹敵する、成果を上げた。」と、氏は当時賞賛されました。

 その孫である元紹氏が今上陛下に協力し、今度は日本の根幹を揺るがせているというのですから信じられない話になります。祖父は祖国のため敵国の崩壊に力を尽くしたのに、孫は日本の崩壊に手を染めるというのですから、いかにも敗戦後の日本らしい情けない話です。

 体力が衰えたから皇太子に譲位したいと、個人のお気持ちを優先させた陛下なのに、私的外出を控えられる様子はありません。それほど外出される元気がおありなら、皇居の中にある近衛師団司令部の建物へ足を運ばれたらいかがなのでしょう。美智子様にお手を引かれずとも、そこならお一人で訪ねられます。

 司令部の建物の前に立たれ、敗戦直前の日本と昭和天皇のご決断の尊さを、お一人で噛み締められてはいかかでしょう。昭和天皇は、ご先祖と国民のために決断をされました。今上陛下はご先祖と国民を考慮されず、ご自分とご家族のことだけを語られました。しかも、憲法の手順を省略されたままの、違法行為です。

 今の日本では、政府も反日野党も本音の話ができません。それをしますと「お花畑」の住民が大騒ぎしますし、頑迷保守も騒ぎ出し、国論を二分する騒擾となります。ですから、名もない庶民である私が、政府と憂国の議員の思いを代弁し、意見を述べさせて頂きました。

 いつもの私は、「ねこ庭」のあるじですが、今回だけは、あの忌々しい床屋の主人の役目をいたします。つまり、「代弁者」です。床屋のオヤジとの違いは、彼は言わされて喋っていますが、私は自分の意思で述べているところです。彼らと異なり、私には得意な気持がどこにもなく、しんどくなるばかりです。

  そしてやはり、北畠親房の言葉に戻ります。

 「君は尊くましませど、民を苦しめれば、天これを許さず。」

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「楽家一子相伝」の芸術

2017-05-18 01:12:14 | 徒然の記

 「茶碗の中の宇宙」と題して、国立近代美術館で、楽家の抹茶茶碗の展覧会が催されています。」

 私は無粋なので、茶や花など、高尚な芸道に興味がありません。絵画の展覧会にしましても、行けば何点か惹かされる作品に出会いますが、わざわざ足を運ぶ気になりません。

 要するに私は、あまり言いたくないのですが、美を鑑賞する心や眼力がなく、かなり狭い世界で生きている人間です。「牛に引かれて善光寺参り」という言葉がありますが、今回も、牛に引かれて美術館詣でをいたしました。( 牛は、もちろん家内です。)

  楽家の初代は「長次郎」ですが、二代以降現在の十五代に到るまで、「吉左衛門」という名前が受け継がれていきます。

 館内には、代々の当主の作品が並べられており、圧倒される品数でした。照明を落とした展示室の台に、ほのかに照らされる無数の抹茶茶碗を眺め、どれも同じものにしか見えない私は、退屈を友として時を費やしました。

 一方家内は、何がそんなに面白いのか、近づいたり離れたり、ためつすがめつ作品を眺めていました。所在ない私は、茶碗と一緒に、不思議な家内の姿を眺めて過ごしました。

 「もうひとつ、工藝品館で、動物の作品展がある。」

 そう言ってわが牛君 ( うしくん ) は、歩いて20分離れた会場へと私を引きつれました。黒田辰秋、荒井照太郎、喜多川平朗氏などなど、およそ聞いたこともない芸術家たちの作品が、第一室から第六室まで、うんざりするほど展示されていました。

 しかし私は、今度は退屈しませんでした。なんとこの建物は、旧近衛師団の司令部庁舎でした。

 玄関脇の石碑に、明治43年の建造と刻まれていました。最後の御前会議で昭和天皇が終戦の決意を述べられ、お言葉が全国放送のため録音されました。この時陛下の放送を阻止しようと、戦争継続派の近衛師団兵の一部がクーデターを起こし、反対した近衛師団長の森中将が、一人の将校に拳銃で射殺されました。

 その歴史を刻む場所が、この工藝品館だったのです。心を強く動かされ、私は退屈する余裕を失いました。

  「師団長室は、どこにあったのですか。」

  「近衛師団の反乱を知っていますか。」

 私は、館内のあちこちにいる職員に質問しました。若い女性ばかりでしたが、答えはみな同じでした。

  「そういう事件については、聞いております。「質問される方も、時々おられます。」

  「しかし現在、当時のまま残っておりますのは、建物の外観と、内部の階段だけです。」

  「工藝品館になる前には、別の用途で使われておりましたので、内部は何度も改装されています。」

  「当時のことは、もう誰も知りません。」

 残念でしたが、気持ちの高ぶりの抑えられない私は、持参したカメラで、建物の外観や内部の階段など、これでもかと思うほど写しました。

 「お父さんと私は、感動するものが違うのね。」

 帰る道すがら、憐れみとも感心したともつかない顔で、家内が呟きました。

 歴史を知る作業に心を傾けている今の私には、何を言われても気にならない寛容さがあるのです。今日は、有意義な一日でしたし、元気も出てきました。だから、大きな声で言いました。

 「牛君 ( うしくん  ) 、ありがとう。」

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