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ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

写真

2010-05-22 20:42:08 | 随筆

 残念ながら、今回はカメラを諦めた。

 味のある写真の横に、気の利いた説明を入れたら、あっと驚くブログになると小躍りしたが、捕らぬ狸の皮算用となった。携帯の写真で十分いけると思ったのに、いざパソコンに取り込んでみると、画像の不鮮明さに気がそがれてしまった。こんな写真を入れたら、あっと驚くお粗末なブログになる。

 家内がデジカメで庭の草花を写し、ブログで楽しんでいる。それを私が自分のパソコンに貰い受け、音楽など聴きながら更に楽しんでいる。「ひと粒で二度美味しいアーモンドグリコ」みたいに、家内の写真は、我が家で二度活用されている。

 こんなことを書き出すと、話が横道に逸れそうだが、家内の写真主眼にするなど、そんなヤボは間違ってもしないつもりだ。妻を大事にしないというわけでなく、彼女はなぜか時に対抗心を燃やせる、良きライバルという位置に立つ。

 自分のブログにも、写真を添えたいが、女房に写せる写真が、自分にやれないはずが無い、いやもっと趣きのある一枚が撮れるはずと、要するにこんな考えがそもそもの出発点だった。

 家内がデジカメで撮り、私が携帯のカメラだったとしても、弘法は筆を選ばずというでないかと、自信満々の計画だったが、バソコンに取り込んだ画像の鮮やかさに、これほどの差があるとは誤算だった。デジカメと携帯の歴然たる差異を見たら、もしかすると、弘法は筆を選んだのではなかろうかと、思えるほどだった。

 双方のネガを、写真屋で昔ながらの名刺や手札にしてもらうと、素人目には、いずれも綺麗に仕上がる。しかしパソコンに取り込むと違いが大きく現れるという、何か意義があるのか、それとも無意味なのか分からない発見をした。

 携帯とデジカメのレベルの差を、ハッキリさせ、金をかけずにいいものは生まれないと教えるところなど、バソコンはまさに、商業主義社会の申し子だ。それでもこれで良かったと、一方では冷静な判断をしている。

 カメラと言えば、旅行の時に「すみません。シャッター押してくれませんか」と頼まれ、渋々手にした経験しかないので、写真を撮りまくっている家内のように、うまくいくはずがない。正直なところ、携帯のカメラが使えなくて幸いだったのかも知れないが、これについては、周りの誰にも言わず、家内にも言わず口をつぐむこととする。

  天気予報によると明日は晴れだ。今日は終日雨で、庭いじりができなかったから、明日は存分に手入れをしよう。少し早いが、眠るとするか。

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携帯電話

2010-05-04 00:25:03 | 随筆

 携帯電話は、嫌いだ。

 恥じらいと謙譲の美徳を持つ、日本人を、あっという間に、傍若無人な人種に変貌させてしまったからだ。

 JR、私鉄、地下鉄、なんでもいいから乗ってみれば、10人のうち7 人は携帯を開き、眺めたり操作したりしている。メールであったり、ゲームであったり、検索画面だったりと様々だが、周りを気にかけることなく、自分の世界に浸っている。しかも年代を超え、老若男女が広く熱中している。幼子を隣に座らせたまま、携帯をにらみ、子供の呼びかけに眉をひそめる、若い母親を目にしたときは、総理大臣でもないのに、国の行く末を憂えたくなった。

 静かな夜道で、後ろから来る女性が、大声を出しているので振り返えると、なんと、携帯を片手に、友人と話をしていた。若い女性にあるまじき、乱暴な言葉で、喧嘩でもしているようなやりとりだった。

 「マー子がさあ。また妊娠したんだってよ。」「懲りねえ奴。」「五ヶ月だっつうからさあ。下ろすのも難しいだろ。」「今度は生む、なんて言ってやがんの。」「そんでてめえは、暮らせるかって言いてえな。ったく」

 この時私は、自分の幸せをしみじみと噛み締めた。

「子供が女でなくて良かった」と・・。

 男の子ばかりなので、優しい女の子がひとりくらいは欲しかったと、日頃は思うのだが、優しい女の子なんて夢のまた夢だ。こういう場合はいつも、「男か女か分からないような、娘を持った親」に、心から同情することにしている。

 これ以上述べると、差別だとか女性蔑視だとか、ややこしい話になるし、まして本題は、携帯への苦情であり、若い女性への苦言でないのだから、やめておこう。

 日本に、初めて携帯電話らしき物が現れたのは、昭和45年の大阪万博で、会場案内に使われた時だと言う。重さ600グラムというから、携帯のイメージにはほど遠い。

 9年後の昭和54年に、NTTが自動車電話を発売したが、これだって車に固定されていたので、現在の携帯のイメージではない。6年後の昭和60年に、NECがショルダーホンという名で、やっと個人が持ち運びする電話を売り出したが、なんと2500グラムという重さだった。忘れもしない、通勤のバス亭で、得意そうに喋っている男がいた。

 「ああ、今バス亭です。もうすぐバスに乗ります。」「天気は快晴。風が少し強く吹いています。」

 妻とでも話しているのか、周りに聞かれているのも気にかけず、大きな声で恥ずかしげもなく、むしろ得意そうに、肩から掛けた四角い箱につながる受話器に向かっていた。

 周りの人間たち、特にこの私の反応は、彼の思惑と違い、感心したり驚いたりせず、眉をひそめていた。まだ眠い、早朝の出勤時間帯では、静かにぼんやりしている方が楽なので、やけに元気な喋り声は、何であれ、うるさいだけだった。
 
 まさか携帯がこれほど軽量化し、高性能になるとは思いもしなかった。

 世間にあまねく普及するなど、こんな不幸は想像もしなかったが、出現のときからして、私と相性が良くなかったことだけは確かだ。大人や子供が、競って手にするようになったのは、平成4年の、携帯電話販売の自由化以後だと言うから、爆発的に携帯が普及し出したのは、ほんの16年前からなのだ。

 私が子供だった頃、長距離電話は、お金がかかるから冠婚葬祭など、よほどのことでないと掛けなかったし、市内電話だって無駄話はせず、出来るだけ簡潔に済ませるようにと、教えられて育った。

 それよりもっと以前は、電話のある家にかけさせてもらいに行ったり、呼び出ししてもらったり、どこの家にも電話がある現在では、考えられないような使い方をしていた。今にして思えば、当時は誰も慎ましく、控えめに、なるべく声も穏やかに、日本の社会は、ゆっくりと時が流れていたのかもしれない。

 携帯登録のアドレスが100を越え、毎日電話やメールのやりとりをしていないと、不安になるとか、孤独感に苦しめられるとか、若者たちが語っているが、彼らの心の構造はどうなっているのだろう。

 顔も知らない相手と携帯でつながり、友人になったり恋人になったり、親しくなったり別れたり、すべてバーチャルの世界での、人間関係でしかない出来事だ。実体のない、絵空事のような携帯に振り回され、縛られ、一日の大半の時間を奪われ、それが人生だというのなら、彼らと私は、交差することの無い、異次元に住んでいるのだろうか。

 かってルイス・ベネディクトは、著書「菊と刀」で、日本文化の底流にあるのは「恥の意識」である、と分析していたが、もはや日本の文化は、携帯のお陰で崩壊させられてしまった。

 携帯は、日本人を、恥知らずな人間へと変貌させ、自分さえよければ他人など知ったことかと、もともと身勝手な人間を、更に利己的な生き物に変えてしまった。
 
 車の運転をしているから、万一の事故に備え、連絡手段として携帯を持っているが、私はほとんど使わない。普段は電源を切り、カバンに入れたままにしているので、連絡しても通じないし、携帯の意味が無いでないかと、友人・知人からの評判は悪い。

 携帯は、私が必要とするときの連絡手段であり、他人のための用具でないと、心に決めており、日常生活に支障はない。

 大切な用事なら、自宅に電話してくれば、留守録の機能もあるのだし、それで十分でないか。便利さのために、たったそれだけのため、人間が振り回されてどうするのか、と言いたい。

 NTTやソフトバングが、いくら巧みな宣伝をしても、資本主義社会だから、それはそれでいいとして、人生は自分のものだから、携帯なんぞに、鼻面を引き回される暮らしだけは、したくないものだ。

 我が家を巣立ち、あちこちに散らばって住む息子どもよ、どうか賢く生きてくれと、時代遅れの親とは、決して思っていない父は、願うのだが、それもはたして、どうなることやら。昔から、子供は親の言うことなんか聞きはしない。

 自分もそうだったし、諦めるしかないのか。

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ハバロスクの歌

2010-04-23 00:37:09 | 随筆

  ハバロスク らら、ハバロスク

  らら、ハバロスク  

  水の流れはスンガリー

  あの山もこの山も 紅の色

  空は晴るれど 晴れぬ胸

  ペーチカの火も消えて ただひとり

  正しくは、ハバロフスクと言うのだろうが、幼い ( 五才と思う ) 頃の記憶に、従うこととする。今はもう故人となった叔父が、ソ連から持ち帰った歌だ。

 もの悲しい短調の曲は、捕虜になった兵士たちの、望郷の念を歌ったものだろうか。声量がないと歌えない、音域の広い歌だ。叔父に教えてもらった記憶はなく、叔父がいつも歌っていた、という訳でもない。復員船ハギの船の歌と同じく、意識しないまま、心に刻まれたメロディーとなっている。

 だから記憶違いもあり、最後の二行のつながり具合が悪く、歌っていると壊れたレコードみたいに、繰り返しとなり終われなくなる。

 当時を思い出そうとしても、すべてが、おぼろな影絵みたいで、ハッキリした映像は何もない。古ぼけた田舎家に住んでいたのは、祖父母と長男の父と、その妻 ( 私の母 ) と、父の兄弟たちだった。

 ハバロスクの歌の叔父が次男で、それから三男、四男、五男と、四女が一緒だったと思う。狭い家でいろりを囲み、叔父が家族にシベリアの話をし、おそらく私は、大人たちの傍らで、耳を傾けていたのだろう。

 熊が松の実を食べる様子など、何度でも聞きたい話だったが、叔父は、小さかった私を相手にしてくれず、周りに他の大人がいる時にしか、シベリアの話をしなかった。

 だからといって邪険だった訳でなく、村の知り合いの家に復員の挨拶に行くとき、いつも私の手を引いて行ってくれた。叔父に限らず、当時は、戦地から突然帰ってくる兵士たちがいて、その都度町や村の人たちが、総出で道沿いに並び出迎えていた。

 こうしてみると、それはまさに日本の戦後風景であり、貴重な歴史のひとコマだったという気がしてくる。

 いっそのこと、気の向くままに、当時のことを思い出してみよう。

 町には、平和館と享楽座という、二つの劇場があり、平和館は映画を専門に上映し、享楽座は芝居と映画をやっていた。宣伝のつもりだったのか、平和館の方は、上映している映画の台詞や歌を、そのまま拡声器 ( スピーカーとは言わなかった ) で、町中に流していた。

 今なら騒音問題として、苦情が殺到したのだろうが、当時は大らかだった。というより娯楽のない戦後のことで、そんなものでも、みんなの気晴らしになっていたのかも知れない。

 平和館の拡声器のお陰で、私は「上海帰りのリル」という大人の歌を覚えた。どうしてそういう違いがあったのか知らないが、享楽座の映画はトーキーでなく、台詞を弁士が喋り、音楽は楽団が演奏していた。

 享楽座で見た映画の題名は、私の記憶が正確なら『名刀正宗』だった。今にして思えば、2つの劇場は客席の造りが大きく違っていたから、平和館より享楽座の方が格上だったのかもしれない。

 平和館は、平和になったけれど荒れ放題の戦後をそのまま表現するような、安直な名前だし、物のない時だったとは言いながら場内は手抜きの俄作りだった。床は剥き出しの地面のままで、隙間なく並べられた木製の長椅子が客席として使われていた。

 トイレの臭いが遠慮なく漂い、すきま風が四方から吹き込んできた。それでも観客は映画のスクリーンに笑いと涙を誘われる方に忙しくて、誰も文句を言わなかった。

 一方享楽座は昔の芝居小屋そのもので、正面に緞帳のかかる舞台があり、板張りにござ敷の客席でお客は座布団に座っていた。

 座席代わりの座布団は、客が持参するのか、有料の貸し出しだったのか覚えていないが、舞台につながる花道や二階の桟敷席などは、木造ながら本格的なものだった。

 私の住んでいた村と対岸の町の間に、砂地の綺麗な川が流れていた。

 川沿いの民家の女たちが、川で洗濯をし、野菜や食器を洗っていた。洗い物を抱えた母の後ろから、私は土手の斜面を下り、賑やかなお喋りの飛び交う様子に見とれていた記憶がある。

 まんざら空想の産物ではないはずだが、上流にも人家があり、そこまでやれるほど清潔な川であったのかと、今となれば不思議な気がしてならない。

 裕福な家は、自家用の井戸を持ち、釣瓶や手押しポンプで汲み水を使っていたが、当時一般家庭には、水道がなかったので、貧しい人間は川を利用するしかなかったのだろう。

 聞いた話では、同居していた叔父や叔母たちは、幼い私を可愛がってくれ、抱いたり背負ったりしてくれていたそうだ。可愛がられた思い出の方が、ずっと大切なはずなのに、すっかり忘れてしまい、たいした意味もない、歌の方を覚えているというのが人生の面白さというのか、いい加減さというのか。切ない思いがする。

 今は五男の叔父と、八十九才になる母が離れ離れに生きているだけで、他の人はみな故人となってしまった。やがて自分もそうなるという事実が、シッカリとあるからなのか、切ない思いがする。

 この田舎町で暮らしたのは、四歳から小学校の4年生の秋までだった。当時の人は誰も住んでいないので、現在はどのように変貌しているのか詳しいことは知らない。

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回 帰

2010-04-15 17:18:21 | 随筆

 誰にも一度はそんな時期があると思うが、若い頃の私は、何でも欧米の方がずっと進んでいて、日本は遅れている国と思い込んでいた。

 映画は、洋画の方が断然面白かったし、家だって和式より洋風の方が、格段に便利でスマートに見えた。

 とりわけ嫌悪したのは、義理人情の世界だった。日本映画のメインテーマである義理と人情は、学校で教えられる人格の尊厳や、民主主義の精神と対立し、国の近代化や個人の独立を阻害する唾棄すべき観念と思えた。

 筋立ても中身も、大して違わない忠臣蔵や水戸黄門の映画が、当時は毎年作られ、沢山の大人たちが見に行った。多作される安っぽい日本映画が、多数の観客を動員するというのは、国民の知的レベルの低さの証明だと軽蔑していた。

 六十を過ぎた今、何時からそうなったのか分からないが、日本の映画や音楽や、絵画の馴染み易さにひたっている。水戸黄門などの分かりきったパターンでも、結末の見せ場になると涙が浮かんでくる。親子の絆や、兄弟の思いやりなどが演じられると、思わずハンカチで目や口を押さえてしまい、そばで家内が呆気にとれられている。

 老化による、知的レベルの低下があるのだとしても、ここまで変貌した自分に驚き、妻が目を丸くするより前に自分自身が呆れている。

 だがそれは、果たして驚くべき現象なのか。目を閉じ思いをめぐらせてみると、身の回りにいくらでも似たような人間がいる。

 特に過去の人々の中に、若い時はモダーン一本で旧弊な日本を否定し、ひたすら外国に憧れ、信奉し、身辺の一切を西洋で飾った人間が、年を取るとスッカリもとの日本人に戻ってしまったという事例がいくつもある。

 いくら否定したところで、自分の育った国で受け継いだものは、無意識のうちに体内で育ち、ひょいとしたキッカケで突然出て来ると、そういうことなのだろうか。

 蔑んだり卑下したりしても、自分の国がなかなか捨てたものでないことは、年を重ねるに従い分かってくる。

 日本は理想の国ではないが、もっと状況の悪い国 ( 具体的に云うのは憚られる ) が、世界には無数にある。

 こうして書きながら発見するのだが、自分がそうなった原因として、二つのことが思い浮かぶ。一つは、私が子供だった時代が敗戦直後だったということだ。荒廃した日本が貧しかったから、豊かな西洋諸国がどうしても子供には素晴らしい国に見えた。

 今でこそ「メイドインジャパン」は、高級品の代名詞みたいに云われるが、当時の「メイドインジャパン」は、「安かろう・悪かろう」の代名詞だった。

 今は粗悪な中国製品が、世界をかき回しているが、日本もあの頃は、中国に負けない粗悪品の輸出国だった。中国の肩を持つつもりはないが、歴史の流れとして、そのうち、「メイドインチャイナ」が、高級品の代名詞になる日が来るのだろうと思っている。

 原因の二つ目は、新聞 ( 当時テレビは、まだなかった ) に、代表されるマスコミだ。だいたい新聞の多くは、国の悪口を書くのが使命とでも思っているのか、日本の不合理、不条理、後進性を、欧米先進国との比較で毎日これでもかと報道していた。

 「英国は紳士の国で、誰もがキチンと時間を守ります。」

 「日本人は、約束の時間を守らず、いくら遅れても平気です。」

 「これでは、いつまでも世界の笑い者です。」

 英国滞在経験者の意見が権威をもって紙面を飾り、少年だった私は本気で日本人であることが情けなくなった。政治も経済も社会も、この調子で語られ、進歩主義者と呼ばれる文化人たちの最もらしいお喋りが、恥じらいもなく全国に報道された。

 軍国主義者たちが日本を無謀な戦争へ導き、愛国心を鼓舞する者はすべて右翼で間違った人間なのだと、新聞の記事はそういう論調で書かれていた。

 日の丸や君が代が声高く否定され、平和憲法が讃えられた。

 今にして思えば奇妙なことだが、大いに議論・検証すべき現実が無視されていた。「一億玉砕」から、「一億総懺悔」へと、この掌を返すような戦前戦後の風潮を、先導したのがマスコミだった。

 話を進めていくと、また別の話になりそうなので、マスコミ論はこの辺りで中止だ。

 つまり私は時代とマスコミのお陰で、国を愛する心をなくした少年として育った面があることに気づき、自分の責任も感じている。次の文章は24歳のときの私がノートに残していた、永井荷風の小説からの抜き書きだ。

 ・桜咲く三味線の国は同じく専制国でありながら、支那や土耳古のように金と力がない故、万代不易の宏大なる建築も出来ずに、荒涼たる砂漠や原野がない為に、孔子釈迦キリストなどの考えだしたような宗教も哲学もなく、

 ・又同じような暖かい海はありながら、何と云う訳か、ギリシアのような芸術も作らずにしまった。

 ・多年の厳しい制度の下に、吾等の生活は遂に因習的に、活気なく、貧乏臭くだらしなく、頼りなく、間の抜けたものになったのである。

 ・その堪え難きうら寂しさと、退屈さを紛らすせめてもの手段は、不可能なる反抗でもなく、憤怒怨嗟でもなく、ぐっとさばけて諦めてしまって、そしてその平々凡々極まる、無味単調なる生活の一寸した可笑しみ、面白みを発見して、これを頓智的な、きわめて軽い芸術にして、侮ったり笑ったりして、戯れ遊ぶことである。

 24歳の私は、これを新聞と同様の日本蔑視の考えと誤解し、日本人であることのやり切れなさを、さらに深めた。だがこれは、ひねくれ者だった荷風特有の言い回に過ぎなかった。

 荷風は彼なりに、西洋から日本へと内面で回帰し、晩年はどっぷり日本に浸かりきって生きた。同じ作品を読んでも、このように昔と今では、逆の解釈になるのだから、自分の知識の貧弱さを恥じたくなる。

 我田引水が許されるなら私の変貌は老化でなく、荷風のように「内面からの日本回帰」と、そういう風にこじつけてみたい。

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天 気

2010-04-12 11:21:19 | 随筆

 久しぶりに晴れた。朝日が差し込み、窓を開けると爽やかな空だ。

 空を眺めると気持ちが晴れやかになり、生きているのが楽しくなる。単純と言えばそれまでだが、昔からその日の天気に気分が左右されていた私は、まさに「お天気もの」だった。

 学校に行っていた頃も、天気が良いと、そんなものは何もなかったのに、楽しい気分で登校の道を歩いた。通りすがりの家の垣根越しに、季節の花が咲いていたりすると、それだけで胸がときめいた。

 生活があるからズル休みはしなかったが、会社勤めをしている時、激しい雨風の日には、出勤する気になれなかった。同じ繰り返しでしかない会社の日々だったが、晴れた日の通勤は心が軽かった。ビルの職場の机から、遠く富士の峰がみえる日には心がなごんで、空と同じように明るい気持ちになれた。

 そうしてみると当時の自分は、天気の具合で陽気や不機嫌になっていたのだろうか。自分の性格の単純さからすると、どうもそんな気がする。天気のせいで不機嫌に対応し、周りの人間たちに不愉快な思いをさせたのかもしれない。詫びようと思っても、今となってはもう遅い。

 好天のため陽気な日もあったはずだから、そんなときの対応では迷惑をかけていない訳だし、気に病むこともないか。天気次第で幸福になったり、沈んだり、私の人生は結構忙しかったのだと、ここまで書いて中断していたら、今日は何と冬へ逆戻りの寒さで、しかも雨ときている。

 気まぐれな天気のヤロウめと、むしゃくしゃするから、今回のブログはここで終わりだ。読み返して、5時脱字のチェックもしたくない。

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憧れの老人

2010-03-26 09:08:50 | 随筆

 今日は、心が沈む日だ。

 どんよりとした、曇り日のせいだけでなく、もの倦くてならない。最近時々こうなる。中学生だったか、高校生の時だったか、もう忘れてしまったが、年を重ね、老人になるに従い人は枯れ、人格円満になると本で読んだ。

 ずいぶん若い頃から、変な奴だと笑われそうだが、いつか穏やかな老人になれるという事実が、心の片隅で、希望みたいな位置を占めていた。ところが、いざ自分が年をとってみると、どうもそうでないような思いがしてきた。

 六十の半ばを過ぎたというのに、この私は、いっこうに枯れもせず、人格円満にも近づかず、年ごとに癇癪持ちになり、短気になっていくような気が・・でなく、実際にそうなっている。

 会社に行っている頃は、仕事が忙しく、顔を合わせる時間が、短かったせいもあるのだろうが、家内に声を荒げることなど、( もしかすると、思い違いだったかも知れないが )無かったのではないかと、思っている。

 愛妻家だと自分で思ってきたし、妻と子供を大切にしてきたと、自負しているだけに、現在の自分に、驚きと失望を感じる。身近にいる家族を思いやれない人間が、なんで愛とか正義とか、いっぱし語れるのか、なんで世間について、意見を言う資格があるのかと、最近そう思ってきただけに、ブログの「きまぐれ手帳」で、分かったようなことを述べている自分に、愛想が尽きてくる。

 とは言いながら、「気まぐれ手帳」をやめる気はないのだが、気分がすぐれないのだけは、いかんともしがたい。

 まったく自分は、些細なことで、家内を怒鳴ったり、へそを曲げたりしているのだ。

 例えば、
   1. 話しかけているのに、返事が即座にない場合。
     2. 話しているそばから、何度も聞き返されるとき。
   3. 軽い気持ちで尋ねたのに、それはこの前も説明したと言われるとき。

 と、まあ、こんな具合で、一日に何度か癇癪を起こしている。この頃では、家内の方が気配を察し、怒鳴り声になる前に、妥協してくれるようになったので、それがまた心の傷みとなる。自分は、何と言う度量の狭い人間になり果てたのか・・と。

 救いがあるとすれば、最近になり、突然心の狭い人間になった訳でなく、もともとずっとそういう人間だったと、自覚できたことだろうか。「雀百まで踊り忘れず」の言葉どおり、自我に目覚めて以来、学校時代はいうまでもなく、会社にいた頃だって、人格円満には生きられなかった自分だ。

 右だったか左だったか、キリスト様の教えは、片方の頬を打たれたら、もう一方も差し出せと、愛と犠牲の精神を説かれている。

 イスラム教徒でもないのに、むしろ私は、「目には目を、歯には歯を」の生き方で、日々を過ごしてきたような気がする。いじめられても、泣き寝入りや自殺なんかせず、同じ方法でお返しをする。

 体力に勝る相手だとしても、しゃにむに挑んでいく。やられたらやり返す。やられなければ何もしない。日々はまさに、生きるための闘争のように、緊張感に満ちていた。だからこそ、私は若い時から、老年の穏やかさに憧れてきたのかもしれない。

 会社を円満に定年退職したからといって、自分のような人間が、春の海のように穏やかな老人に、突然変貌できるなど、あり得るはずがないのだ。それこそが、常識というものでないか。

 テレビやを新聞など見ていても、七十代の老人たちが、近隣の人間と争い、相手を刺したり殺したり、果ては老人ホームで、恋のもつれから他人を殺傷したりと、とんでもない事件が報道されている。

 七十代になっても、人間がそんなことをするというのなら、人はいつになったら、穏やかな素晴らしい老人になれるのか。残り少なくなりつつある人生だというのに、生きる希望すら、消されてしまいそうになる。

    村の渡しの船頭さんは  今年六十のお爺さん
    年は取ってもお船をこぐときは  元気一杯櫓がしなる

 小学生の頃だったと思うが、確かにこんな歌を、学校で習った。当時は誰もが、六十代を老人だと思い、お爺さんと認めていたのだが、今ではいったい誰がそんなことを信じるというのか。

 歌はいつの間にか、教科書から消え去り、世間からも忘れられてしまった。毎日何気なく生きてきたが、この歌を思い出すと、確かに、時代が大きく変わったのだと、知らされる。

 忌々しいのは、流れに便乗した厚生省の役人どもが、目敏く、年金の受給年齢まで変えてしまったことだ。お爺さんでもない、六十才からの支給など考えられない、と言わんばかりに、六十五からに引き下げというのか、引き揚げというのか、やってくれた。

 お陰で定年退職後に、満額年金のない私は、よけいな苦労をさせられてしまった。( 腹立たしさのあまり、またしても、本論から外れつつあるので、年金について言うのは、もう止めよう )

 要するに、ここで断言できることは、何歳からを老人と言うのか、分からなくなった時代に、自分が生きているということだ。八十か、九十にならないと、老人と言われない時になっているのだろうか。

 いつになれば、憧れの老人になれるのかなど、ここまでくると、もう考えるのが面倒になってきた。書き続ける根気もなくなってきたから、結論無しで、今日は止めよう。

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民主党

2010-03-24 00:04:44 | 随筆

 本来は保守党支持なのだが、このところ民主党に投票している。

 自民党は、敗戦後の日本の再建を成し遂げた後、あまりに長く権力の座に安住し、自浄力を喪失してしまった。私が民主党に一票を投じた原因は、そこにある。長期政権が腐敗するのは、政治家個人の、資質や責任感の欠如というより、制度の必然だと考えているので、自民党だけを攻撃するのは、正しくない気がする。われわれ人間は、崇高な精神を宿している一方で、身勝手なエゴが捨てられない、やっかいな生き物だ。

 自民党政治のこれまでの腐敗や、横暴や傲慢さは、人間が本来持っているエゴから生じる産物で、誰だってその立場にあれば、ならずにおれなくなる甘い誘惑だ。天下りや収賄や、裏金などといったものは、程度の差があるだけで、人間社会につきもので、世界中いたるところに存在している。権力が長く一カ所にとどまると、必ず利益集団が発生し、仲間うちだけの、心地よい共同体が形成される。

 政界だけの話でなく、経済界、法曹界、教育界、果ては文化・芸術の世界だって似たような仕組みが動いている。大人なら誰しも、自ら苦々しい、あるいは、うまい経験をし、分かっているはずなのに、そこは見ざる・言わざる・聞かざるを決め込んでいる。このオトボケに、私は開いた口がふさがらない。

 民主党も、長期政権になれば同じことをやるのだし、何の不思議もない現象なのに、マスコミがセンセーショナルに、自民党や高級官僚だけを槍玉に挙げ、騒いでいる。社会の木鐸だなどと言い取り澄ましているが、マスコミにしても、視聴率を高め、販売部数を上げなくてならない営利企業だから、面白味のない正論では、国民が飛びつかないので、建前だけのあるべき論をふりかざしている。一方的なマスコミ批判をしているのでなく、木鐸の機能を否定しているのでもなく、事実の一面を述べているということを、強調しておきたい。

 どうすれば政権党の腐敗を少なくできるか、という観点から議論をすれば、やはり二大政党論が出てくる。政権党が交代すれば、仲間内だけの利益集団は、都度解体されることになる。長期の腐敗が、短期の腐敗に止まるのではないかと、そういう期待がある。

 議員と役人が協力し、税の無駄使いができる法律を作り、法に添う高額の事業を、企業が請け負い、発生する利益を、議員と役人が献金や裏金として受け取るというのが、いわゆる政官財の利益癒着だ。

 族議員と呼ばれる政治家は、有能であると同時に、たいてい手も汚しているが、これが単発の問題追及として終わるのは、誰もが似たような行為をしているからだ。違法献金や裏金だって、政治家個人の利益のためだけに使われず、まっとうな政治活動にも流用されているから、問題がややこしくなり、政治家の良識を曇らせている。

 まさに、「赤信号皆で渡れば怖くない」ということだ。
私が、小沢幹事長の二大政党論に心を動かされたのは、かって自民党にいて、政界の清濁を知る彼が言っているからだった。議員が、聖人君子でないことはもとより承知している、身綺麗だけでやれないのが政治だと、覚悟した上で、彼のいる民主党を応援している。日教組や企業の労組に支えられる政党であっても、保守の彼がいるから、民主党を応援しているというのが本音だ。

 もし民主党に小沢、前原、岡田、野田という保守系の議員が不在で、旧社会党のメンバーばかりだったら、いくらなんでも一票を入れたりはしない。

 どんな美しい言葉で語られるとしても、社会主義の政権が作る国は、全体主義の中央集権国家であり、国民の自由な議論を押しつぶす体制でしかない。民主主義の日本は、少なくとも三権分立の制度を維持し、貧乏人は麦飯を食えなどと、時おり本音が見え隠れしたとしても、自由や平等を大切にしようと努力している。

 政治権力も資本も、党に集中する社会主義国家の恐ろしさに比べれば、少々の違法献金や裏金など、何ほどのものかと私は思っている。

 かってのソ連や、現在の中国や北朝鮮などをみれば、少なくとも日本では、粛正という名の大量殺人や、思想犯のための強制収容所がなかったことなど、保守政権の方がベターだったと思わされる。


 それにしても、鳩山総理の頼りなさはどうしたことか。

 普天間の基地問題、子供手当の財源、官僚の操縦方法、財政再建の方向、どれをとっても不安でならない。半年や一年で、自民党政治の後始末が出来るとは期待していないが、それにしても頼りない。

 有能な人材が沢山いるのだから、彼らを取りまとめ、やる気にさせる手腕を、発揮してもらいたいものだ。亡くなった小渕さんは、ブッチホンといわれるくらいの電話魔だったが、すべて、周りの人間を取りまとめるための努力だったと聞いている。鳩山さんだって、総理になるほどの人物なら、それなりの人望や指導力があるはずだろうから、もっと見せてもらいたいものだ。

 都合の良い報道ばかりする、気まぐれな新聞やテレビを通じてしか知らないので、一方的には責められないのだろうが、もっと何とかならないのか・・、周りのブレーンは何をしているのか。

 これで参院選に負けたりしたら、二大政党が根付かないでないかと、文句の一つも言いたくなる。

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趣味

2010-03-09 23:08:40 | 随筆

 趣味は何かと聞かれると、何時も返事に窮する。

 麻雀もゴルフもやらず、野球もサッカーも知らず、仲間を作ることもなく、仲間に入れられることもなく、会社の定年までよくやれたとフト思ったりする。変人学者の中島義道氏の著作を読んでいたら、「自分はセ・パの区別も知らず、野球が何人でプレイするのかも知らない」と書いてあった。ここだけ見ると、私も立派な変人の仲間に入る、とおかしくなった。

 彼と違い、一般の会社で定年まで勤められたのだから、自分が奇人・変人であるなどと、考えたことがない。しかし、改めて思い返してみると、一度だけある。同僚からだったか、お客からだったか、「何の趣味もなくて、よく生きていられるなあ」と、そんなことを言われ、苦笑いしたことがあった。

 趣味という言葉を辞書でひくと、仕事としてでなく、個人が、楽しみとしてやることがらだ、と書いてある。周りの人間を見ていると、金もかけ時間も費やし、しかも楽しむというのが、趣味だと考えているようだから、答えられなくなるのだ。

 旅行も楽しいし、散歩も面白い。読書だって時間を忘れることがあるし、ぼんやりと物思いにふけることも、馬鹿にできない面白さがある。庭いじりだって、没頭すると時を忘れる。

 時にはへたな詩にも、短歌や俳句にも手を伸ばすし、その気になれば、拙いスケッチも試みる。金に縁がないため、懐に響くようなことは何もせず、しかもそのどれにも、毎日とか毎月とか言う継続性がないのだから、果たして趣味と呼べるのかと、疑問が生じる。

 まして他人に聞かれた時の答えにして良いものか、恥じらいを知る人間なら、こんなものが趣味ですと、口にするのもはばかられるでないか。とりたてて趣味と宣言しなくても、人は不思議と何かして生きるものだし、何にでも、喜びや楽しみを発見する生き物なのだと、そう思っている。

 軽い気持ちで、趣味は何かと聞かれているのに、懸命にややこしい説明をするというのもおかしいので、結局、「趣味は特にありません」と答えることになってしまう。

 日本人の社会でならこれで済むが、欧米となると様子が異なってくる。(こうしてまた、記述が横道にそれて行くのだが)、私は会社で、5~6年間英会話のレッスンを受けたことがある。特に必要がなくても、本人が希望さえすれば、早朝とか退社後に、会社の費用でレッスンを受けさせてくれた。今なら考えられないことだが、バブル期の良き時代だった。

 この間8人くらいの、ネイティブの先生に会話の指導を受けたが、授業には、必ず自己紹介というものがあり、「私の趣味」について発表する時間がある。外国人の教師たちは、みな、趣味は特にありませんという私の答えに、満足してくれなかった。曖昧さや多様性や、何でもありの状態では納得せず、キチンとした説明がないと安心しないのだ。

 これはきっと一神教の欧米人と、八百万の神の国に済む人間との違いでないかと、その時からひそかに思っている。

 「和をもって尊しとなす」と聖徳太子が言って以来、日本人の根底には、この思いが脈々として流れているのだと、これもひそかに、しかも不思議にも感じていることだ。他人と争わず、騒ぎを大きくせず、異を唱えず、目立たずと、幼い頃から教えられ、疑問も感じなかったが、最近は良いも悪いも、日本の特質でないかと思えてきた。

 他民族がせめぎ合う国々では、常に大声で自己主張をし、アイデンティティーを明確にしていないと、命も落としかねない、緊張感があるから、私のような曖昧さでは、誰からも相手にされないし、生きてもいけない気がする。

 これまで、さんざん日本の悪口を言ってきたが、現在では、自分は、日本でしか生きられない人間でないかと、思うようになり、時々外国旅行はするものの、その土地で暮らそうなどとは考えなくなった。

 この日本で生き、この国で死ぬのだと、愛国心とまでは行かないのだろうが、そんな気持ちになっている。さて、これが「趣味」と題する文章の結論で良いのかと、疑問だらけだが、ままよ。それでこそ、「気まぐれ手帳」ではないか。
 
 いい名前のブログにしたと、ほくそ笑みつつ、終わろう。

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希望について

2010-02-18 21:06:54 | 随筆

 将来の夢や希望について、意識して考えだしたのは、中学生になってからだ。

 手元にある古い日記に書かれた、鉛筆書きの拙い文字が、中学二年生の秋からの、始まりを記している。昭和何年と書いてあるが、数字を入れると ( 隠すほどのものでないのだが ) 、年齢が明確になるので、故意にぼかしておくこととする。

 希望については、やっかいでも、一度は書かずにおれないテーマだった。
家族にはもちろんのこと、友人にも知人にも、気軽に話したくない気持ちがあった。照れるとか、恥ずかしいとか、口にするのさえ、うんざりするとでも言えば良いのか、説明のつかない重苦しさがある。

 気になるのでグーグルで、私のブログと同じ名前の「きまぐれ手帳」を、検索してみたら、なんと35万件もある。無数の気まぐれが世間にいて、てんでにブログを更新していると知り、呆れてしまった。

 35万件もある「気まぐれ手帳」なら、とりたてて、自分のものが読まれるという、心配もない。これなら、勝手な独り言が、のんびり続けられると一方では安堵した。

 安心したところで、本題へ戻ろう。

 「神童も、二十歳過ぎればただの人」と、こんな言葉があるくらいだから、ただの人になった神童は、ゴマンと居たに違いない。星の数ほどいる神童のひとかけらに、幼い日の私がいたと、恥を忍んでそこから始めないと先へ進めない。

 つまり、何をしても周りの大人たちから、許される子供。何をやっても、甘やかされる少年。神童は、たいていそういう状況に置かれている。

 良い子だから、大人に可愛がられるのか。可愛がられるために、良い子にしていたのか。今にして思えば、どちらが先行していたのか判然としないが、おぼろになった記憶の彼方に、確かにそんな少年だった自分がいる。

 君は大きくなったら、何になりたいかと聞かれ、学校の先生になりたいとか、バスの運転手になりたいとか、具体的な職業をハッキリ言える子供がいる。口には出さなかったけれど、私はそんな子を、すべて軽蔑していた。

 赤十字を創立したアンリ・デュナンや、植林の父と呼ばれた金原明善や、アフリカで医療に従事したシュバイツアーなどの、偉人について、学校の教科書で教えられていたからだった。

 少年よ大志を抱けと、クラーク博士が言われたなどと、先生に強調されたりすれば、神童なら誰だって、そんなリッパな人になるのだと意気込んでしまう。「人類や社会に役立つ人間」になりたいという希望が、自然なものとして生まれる。その結果、自分のことだけしか考えられない、クラスの者たちの小さな希望は、取るに足りないと、軽視せずにおれなくなった。それもごく自然のこととして・・。

 六十を過ぎた今だから、分かることだが、神童には三種類あるようだ。
   1. ホンモノの神童
   2.「二十歳過ぎればただの人と、早く気づけた」神童
   3.「二十歳過ぎても、ただの人と気づけなかった」神童

  2と3は、別の言葉で表現すると、「運のよい神童」と「運の悪かった神童」と言っても良い。自分がただの人と、早く気づいた運のよい神童は、過去のおのれを、率直に反省し、平凡そのものの家族を含め、同じく平凡な周囲の人間も、ちゃんと尊敬できるようになる。ついでに、感謝の念まで抱けるようになったりする。

 言うまでもないが、私は運のよい神童でなかったから、今頃こんな繰り言を述べている。

 それとなく疑いつつ、三十を過ぎ四十を過ぎても、ただの人と気づけなかった自己を、回顧するのは、なんと気の滅入る作業であることか。匿名なのでやれているが、実名なら一行だって書き進めない。

 「学術優秀・品行方正」。こんなものが、今の学校にあるのかどうか知らないが、当時は、クラスの何人かが教師に推薦され、学年末の終業式で、校長先生から賞状を受け取るという、晴れがましい行事が、当たり前のように行われていた。

 社会に役立つ人間になりたい、という希望を持ちつつ、小学校、中学校と進み、高校生になり、その間、自分なりに、希望の中身を吟味してみた。

 民主主義の教育が、人間平等と人格の尊厳を教え、未来に挑む、フロンティア精神まで植えつけてくれたので、人生はバラ色だった。人は誰も努力し、困難に打ち勝っていく。福沢諭吉もリンカーンも、貧しい家に生まれ、努力して立派な人間になった。

 社会に役立つ人間なら、政治家でも芸術家でも、思想家でもいい。ルソー、モンテスキュー、アダム・スミスと、すべては、自分の意志と努力にかかっているのだから、希望はまさにより取りみどりだった。

 望む東京の大学に合格し、青雲の志を抱いて上京し、おそらくここいらまでが、私の絶頂期だった。

 大学生になり、マンモス教室で、マイクの授業を聞きながら、どうすれば、あるいはどこへ行けば、希望への道に立てるのかと、苦悶の日々が始まった。どこを向いても壁だらけで、まずもって予想外だったのは、自分の話を、誰一人として、まともに聞いてくれないという恐ろしい現実を知った。

 活気に満ちた東京の喧騒さと、己の内心の貧しさとのギャップを埋めるものが、見つけられず、何度も自信を失いそうになった。田舎町の神童など、大都会では、路傍の石ころほどの存在感もないと知ったのに、素直に認めるにはまだ若過るた私だった。

「地を這う虫も、踏まれれば立ち上がる。」と、スカルノの言葉などを思い浮かべ、よけいな闘志を燃やしてしまった。
世界よ、教えてくれ。自分にとって大切なもの。この命を燃やすべき価値あるもの。僕はやはりそれを求める・・。舞台の演技でなく、本気で思い詰めた自分を振り返ると、そのしぶとさを誉めたい気持ちと、眉をひそめたくなる苦々しさがある。

 金もないのに、4年で卒業すべき大学を6年に延ばし、それでも、希望につながる端緒すらつかめず、無惨極まる結末となったが、これ以上は、道化の繰り返しになるばかりだから、書くのをやめよう。

 結局、私は大いなる失意と、幾ばくかの居直りとの入り混じった気持ちを、抱いたまま、小さな会社に就職を決めた。このあたりで、シッカリ現実と、向き合えば良かったのだろうが、どこかに、自分が本当に生きる場所がある、という思いが捨てられぬまま、生きてきた。

 そしてつい先日、これが多くの若者、とりわけ元神童たちの辿る道で、珍しくもないありふれた姿だったと、やっと理解し得た。希望という表題で述べてきたが、若者の一人として、ひたすら挑み、やみくもに悩み、それでも何とか、足を踏み外さずに生きてきたと、ただそれだけの回想でしかない。

 これで良かったのだし、私には、これしかできかったのろう。そうすると、やっぱりポール・ベルレーヌの詩が、思い出される。

   君、過ぎし日に、何をか為せし
 
   君、今ここに  唯嘆く  
 
   語れや、君、そも若きおり
 
   何をか為せし

 もしも、この詩との違いがあるとすれば、私は、今を嘆いていないというところだ。既に青雲の志を遂げる年でなくなり、その気も持っていない。身近になる老いと、その内に来る、死への準備があると、そっちの方が忙しくなった。

 青年時代の、喜怒哀楽の激情から解放された、この毎日の穏やかさよ。それだけでも嬉しい。年を取ることの有り難さなのか、感謝せずにおれない。

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ふるさとについて

2010-02-04 23:23:22 | 随筆

 ふるさとという言葉には、切ない響きがある。

 兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川と、「ふるさと」の唱歌は、日本人なら誰でも知っている文句なしの愛唱歌だ。メロディーを聞くだけで、涙がこぼれそうになってくる。

 ふるさとは、遠くにありて思うもの、そして悲しく歌うものと、これもまた、有名な犀星の詩で、日本人の心を捉えて離さない歌だ。故郷の村を追われるようにして東京へ出てきた啄木でさえ、故郷を懐かしんだ。

 ふるさとの訛りなつかし、停車場のなかに そを聞きに行く

 ふるさとは漢字にすると、古里、故郷、古郷と書いたりするが、いずれにしろ、誰にとっても、無くてはならない大切なものだ。

 しかし私には、そのふるさとが無い。

 生まれ故郷である満州が、日本の領土でなくなったからだ。戦争に負け、父がシベリアに抑留され、母は私を連れ、親類縁者たちと引き揚げてきた。足手まといになる子供が、親たちに殺されたり、現地人に売られたり、手渡されたりと、思い出すのもつらい出来事が多かったためか、父や母から当時の話をあまり聞いたことが無い。

 ひと頃テレビで盛んに報道された、「中国残留孤児の肉親探し」というのは、現地に残された当時の子供たちだ。母や親戚の者たちが、懸命に連れ帰ってくれたから、今の私があるが、中国に残されていたら私も彼らと同じ境遇だった。

 母によると、私たちが乗ってきた船は、引き揚げの第一船で、ハギ( 萩? )の船と呼ばれ、かって駆逐艦だったとのことだっ。引き揚げ船のほとんどが、舞鶴港に入ったが、ハギの船は、準備の整わなかった第一船らしく博多に入港したらしい。

    港出るときゃ 可愛い子が 波止場の隅で泣いていた

    船は帆任せ  帆は風任せ 復員輸送のハギの船

 母からだろうと思うが、こんな「ハギの船の歌」が記憶の隅に残っている.

 何年かして、父がシベリアから帰るまでも、父が家族の中心になってからも、私たち家族は、食べるための仕事を求め各地を転々とした。どこに居ても、私はそこに住む人々にとって他所者でしかなく、周りに馴染めなかった。

 父や母にふるさとがあるのに、その子にはないという奇妙な悲しみは、おそらく両親には分からなかったと思う。高校生になったとき、ふるさとという言葉を辞書で引き、三つの意味があることを初めて知った。

    1. 自分が生まれ育ったところ
    2. 自分がかって住んでいた土地
    3. かって都のあったところ  

 「生まれ育ったところ」が、ふるさとだと思っていたから、自分は根無しの浮き草と悲しんでいたが、「かって住んでいた土地」がふるさとと言うのなら、何てことはない。

 私には五つもふるさとがある、ということになる。それぞれの土地に、懐かしい友がいて、師がおられ、自然があり思い出があった。すると一気に、豊かな気持になれた。もともと欲張りだったので、他人より多いのなら何であれ得意になれた。

 だがそれも一時期のこと。ふるさとは一つあれば十分で、数は無意味だと、やがて理解した。分散されたふるさとを持つ私には、盆や正月、あるいは祭りの時期に、なんとしても、そこに帰ると言う愛郷心というか、郷土愛というのか、そんな強い愛着がどの土地にもない。

 まんべんなく好きで、まんべんなく懐かしい土地が、沢山あるだけで、ふるさとを持つ人間に特有の、熱い思い入れがない。これが自分の置かれた状況で、もしかすると歴史的な境遇でないのかと、今は誇らしい、諦観の気持ちだ。

 田中首相のお陰で中国との国交が回復し、行こうと思えば満州に行けるが、何の思い出もない土地を、訪ねたいという気にはなれない。

 さてこうして、自分だけのことを書いてきたが、子供たちについて考えると、彼らもまたふるさとのない子らだったのでないか、という気がする。会社で働いていた頃、ちょうど日本は、高度成長期だった。

 山口県、神奈川県、千葉県、兵庫県と五回ほど転居し、子供たちも転校を繰り返させ、生まれた場所と育った土地が別々になっている。

 僕は転校のない仕事に就きたいと、中学生だったと思うが、次男の書いた作文を読み、私は胸が痛んだ。可哀相なことをしたと思うが、そういう時代に生きていたのだと、納得するしか無い。

  1月の27日から「ふるさと」について書き始めて、やっと終わる。  

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