誰にも一度はそんな時期があると思うが、若い頃の私は、何でも欧米の方がずっと進んでいて、日本は遅れている国と思い込んでいた。
映画は、洋画の方が断然面白かったし、家だって和式より洋風の方が、格段に便利でスマートに見えた。
とりわけ嫌悪したのは、義理人情の世界だった。日本映画のメインテーマである義理と人情は、学校で教えられる人格の尊厳や、民主主義の精神と対立し、国の近代化や個人の独立を阻害する唾棄すべき観念と思えた。
筋立ても中身も、大して違わない忠臣蔵や水戸黄門の映画が、当時は毎年作られ、沢山の大人たちが見に行った。多作される安っぽい日本映画が、多数の観客を動員するというのは、国民の知的レベルの低さの証明だと軽蔑していた。
六十を過ぎた今、何時からそうなったのか分からないが、日本の映画や音楽や、絵画の馴染み易さにひたっている。水戸黄門などの分かりきったパターンでも、結末の見せ場になると涙が浮かんでくる。親子の絆や、兄弟の思いやりなどが演じられると、思わずハンカチで目や口を押さえてしまい、そばで家内が呆気にとれられている。
老化による、知的レベルの低下があるのだとしても、ここまで変貌した自分に驚き、妻が目を丸くするより前に自分自身が呆れている。
だがそれは、果たして驚くべき現象なのか。目を閉じ思いをめぐらせてみると、身の回りにいくらでも似たような人間がいる。
特に過去の人々の中に、若い時はモダーン一本で旧弊な日本を否定し、ひたすら外国に憧れ、信奉し、身辺の一切を西洋で飾った人間が、年を取るとスッカリもとの日本人に戻ってしまったという事例がいくつもある。
いくら否定したところで、自分の育った国で受け継いだものは、無意識のうちに体内で育ち、ひょいとしたキッカケで突然出て来ると、そういうことなのだろうか。
蔑んだり卑下したりしても、自分の国がなかなか捨てたものでないことは、年を重ねるに従い分かってくる。
日本は理想の国ではないが、もっと状況の悪い国 ( 具体的に云うのは憚られる ) が、世界には無数にある。
こうして書きながら発見するのだが、自分がそうなった原因として、二つのことが思い浮かぶ。一つは、私が子供だった時代が敗戦直後だったということだ。荒廃した日本が貧しかったから、豊かな西洋諸国がどうしても子供には素晴らしい国に見えた。
今でこそ「メイドインジャパン」は、高級品の代名詞みたいに云われるが、当時の「メイドインジャパン」は、「安かろう・悪かろう」の代名詞だった。
今は粗悪な中国製品が、世界をかき回しているが、日本もあの頃は、中国に負けない粗悪品の輸出国だった。中国の肩を持つつもりはないが、歴史の流れとして、そのうち、「メイドインチャイナ」が、高級品の代名詞になる日が来るのだろうと思っている。
原因の二つ目は、新聞 ( 当時テレビは、まだなかった ) に、代表されるマスコミだ。だいたい新聞の多くは、国の悪口を書くのが使命とでも思っているのか、日本の不合理、不条理、後進性を、欧米先進国との比較で毎日これでもかと報道していた。
「英国は紳士の国で、誰もがキチンと時間を守ります。」
「日本人は、約束の時間を守らず、いくら遅れても平気です。」
「これでは、いつまでも世界の笑い者です。」
英国滞在経験者の意見が権威をもって紙面を飾り、少年だった私は本気で日本人であることが情けなくなった。政治も経済も社会も、この調子で語られ、進歩主義者と呼ばれる文化人たちの最もらしいお喋りが、恥じらいもなく全国に報道された。
軍国主義者たちが日本を無謀な戦争へ導き、愛国心を鼓舞する者はすべて右翼で間違った人間なのだと、新聞の記事はそういう論調で書かれていた。
日の丸や君が代が声高く否定され、平和憲法が讃えられた。
今にして思えば奇妙なことだが、大いに議論・検証すべき現実が無視されていた。「一億玉砕」から、「一億総懺悔」へと、この掌を返すような戦前戦後の風潮を、先導したのがマスコミだった。
話を進めていくと、また別の話になりそうなので、マスコミ論はこの辺りで中止だ。
つまり私は時代とマスコミのお陰で、国を愛する心をなくした少年として育った面があることに気づき、自分の責任も感じている。次の文章は24歳のときの私がノートに残していた、永井荷風の小説からの抜き書きだ。
・桜咲く三味線の国は同じく専制国でありながら、支那や土耳古のように金と力がない故、万代不易の宏大なる建築も出来ずに、荒涼たる砂漠や原野がない為に、孔子釈迦キリストなどの考えだしたような宗教も哲学もなく、
・又同じような暖かい海はありながら、何と云う訳か、ギリシアのような芸術も作らずにしまった。
・多年の厳しい制度の下に、吾等の生活は遂に因習的に、活気なく、貧乏臭くだらしなく、頼りなく、間の抜けたものになったのである。
・その堪え難きうら寂しさと、退屈さを紛らすせめてもの手段は、不可能なる反抗でもなく、憤怒怨嗟でもなく、ぐっとさばけて諦めてしまって、そしてその平々凡々極まる、無味単調なる生活の一寸した可笑しみ、面白みを発見して、これを頓智的な、きわめて軽い芸術にして、侮ったり笑ったりして、戯れ遊ぶことである。
24歳の私は、これを新聞と同様の日本蔑視の考えと誤解し、日本人であることのやり切れなさを、さらに深めた。だがこれは、ひねくれ者だった荷風特有の言い回に過ぎなかった。
荷風は彼なりに、西洋から日本へと内面で回帰し、晩年はどっぷり日本に浸かりきって生きた。同じ作品を読んでも、このように昔と今では、逆の解釈になるのだから、自分の知識の貧弱さを恥じたくなる。
我田引水が許されるなら私の変貌は老化でなく、荷風のように「内面からの日本回帰」と、そういう風にこじつけてみたい。