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訳語の難しさ

2005-03-28 22:58:28 | 学問
哲学にはへんてこりんな訳語が多い。
understandingは理解力ということだが、哲学では「悟性」と訳す。
ドイツ語の「悟性」はVerstandだが、これは動詞のverstehen,やはり「理解する」から来ている。
カントのEinbildungskraftは「構想力」と訳す。
英語で言えばイマジネーションだが、「想像力」とは訳せない。
というのもカントの「構想力」はハイデガーも指摘しているように、感性と悟性を媒介するものという意味があるからだ。
「想像力」ではその意味はつかめない。
ついでに、カントのtranszendentalの問題もある。
以前は「先験的」と訳されたが、やはり意味的に「超越論的」と訳すのが今の常識だ。
でカントの重要な用語にtranszendental Apperzeptionがある。
これは「超越論的統覚」と訳す。
言葉は難しいが、意味は簡単で「私は考える」ということだ。
しかし日本語で「構想力」やら「超越論的統覚」やら言われても何のことかわかる人は少ないだろう。
こんな変な用語を使って議論するから哲学が一般大衆から離れる。
また哲学専門の中にはこういう用語を好んで使い、さも自分が知的エリートになった気になるものがいる。
「ハイデガーのダーザインがさあ」とか言っているやつだ。そんな言葉で話している人を昔研究室でみかけた。
けど昨日書いたように西田幾多郎が言うごとく「人生の悲哀」から哲学がスタートすべきなら、そんな難しい用語は願い下げだ。
ソクラテスが対話編で示したような世界、「無知の知」こそが哲学の出発点になるべきだろう。
まあ「無知の知」というと無知といいつつ、無知であることは「知っている」というアポリアがあるので、モンテーニュのように「私は何を知ろうか」といったほうがよい。
ともかく専門用語なしで哲学を語りたい。
しかし過去の哲学史との対決なしでは哲学ははじまらないことも事実で、そうすると哲学史批判には専門用語がいることになる。
欧米の哲学をむやみと受け入れてきた日本人にはなかなか難しいものがある。