16世紀に建てられたイスラムモスクを数十万人のヒンドゥー教至上主義の暴徒が破壊した宗教暴動アヨディヤ事件を背景に、ムスリム(イスラム教徒)の娘とヒンドゥー教徒の青年の恋を描く社会派の問題作。監督・脚本はインド映画界きってのスター監督と呼ばれるマニラトナムで、本作が監督第13作目となる。製作はS・シュリーラーム。撮影はラージーヴ・メーナン。音楽は「ムトゥ 踊るマハラジャ」のA・R・ラフマーン。本作からは3曲がインド国内チャートのナンバーワンに輝いており、インストゥルメンタルのテーマ曲はイギリスのコンピレーション・アルバムに収録された。作詞はシュリー・ヴァイラムットゥ。音楽録音はジョージ・ハリスンのアルバムも手掛けるH・シュリーダルと、S・シヴァクマール。録音はV・シュリーニヴァース・ムールティとラクシュミ・ナーラーヤナン。美術はトーッター・タラニ。編集はスレーシュ・アルス。衣裳はマーリニ・シュリーラーム。振付はラージュ・スンダラム。出演は「インディラ」のアラヴィンドスワーミ、『1942-A Love Story』(日本未公開)のマニーシャー・コイララほか。(映画.comより)
<2024年3月2日 DVD鑑賞>
人々が幸せになるために存在するはずの宗教。なのに争いの元にばかりなる現実って、何?どこの教主が「隣人を殺めなさい」と言ってるというのでしょうか。誰も言ってないはずです。どうしてそこに気付かないのですか。
この映画の主人公は、同じインドに住みながら(しかもご近所さん)イスラム教徒とヒンズー教徒のおうちに生まれた、と言うだけの男女。普通の恋愛を経て結婚を望みますが、双方の両親が許しません。お互い、ご近所ですから、例えば女性の方(イスラム教徒)のおうちは瓦屋なのですが、お父さんは頼んだ仕事はきちんとこなす人だと男性側(ヒンズー教徒)の父親もわかっているのです。また、瓦屋さんも、男性側の父親は地元の名士で、立派な人だとわかっているのです。何もなければお互いに一目置いててそれで済んだことです。それがいざ結婚となると、目くじら立てて争うようになるのです。なんででしょうね。信心が大事なのはわかりますが、急にお互いを罵らなければならないほどのことなのでしょうか。誰がなにか悪いことをしたわけでもないのに。
しかし、生活というか人生の根本の価値観が宗教なんでしょうね、かの国では。それで、主人公たちは駆け落ちします。そして都会のボンベイに新居を構え、双子の息子も生まれ、夫の仕事も順調でなんの瑕疵もなく生活しています。ただ、実家に帰れないだけです。
そんな中、ボンベイに昔からあるイスラムのモスクが、ヒンズー至上主義者によって火をつけられる事件が発生。これは上にもある通り、アヨディヤ事件(1992年)と言って実際にあった事件を元にしています。モスクが燃えてしまって、もちろん報復合戦が始まります。あちこちで暴動が繰り返され、道行く人に「おまえの名は」と問い、名が敵対するほうの民族の名だと即殺害、みたいな場面が続きます。実は主人公の二人は、双子の男の子に、一人ずつイスラムの名とヒンズーの名をつけてありました。暴動の中、手をつないで逃げ回る男の子二人は、一つずつ双方の名だったために詰問する側もひるむ、そんな場面もあります。主人公たちの両親が、6年だったか7年だったかの時を経て、やっと孫の顔を見に来れて、愛する子供たちと孫たちのため、和解したそのすぐ後の出来事でした。各家庭にはもちろんガスボンベもあります。暴動の火は爆発も誘発し、たくさんの人々が亡くなります。主人公の両親たちも犠牲になってしまいました。
都会だったはずのボンベイがボロボロに。人々は疲弊しはじめます。争いを何とか止めたい夫は、双方の暴徒たちに問いかけます。「そちらの経典には、隣人を殺せと書いてあるのか?」「みなで争えと?」
そのうち、繰り返されるあまりに血なまぐさい犠牲の連続に「もうたくさんだ」「うんざりだ」と言う声が上がり始めます。そうです。だれもこんな惨劇を望んでいるはずはありません。平穏に暮らせればそれでいいはずです。こんなことしたら、町の再建にも多大な資金が必要になってしまいます。誰が払うと言うのですか。やがて争いはフェイドアウトしてゆきます。
現在のインドは、2014年にヒンズー至上主義のモディ首相が就任してから、イスラム教徒は住みにくくなっているようですね。「イヤならパキスタンへ行け」という考えなんだそうです。まぁ確かにそのために国を分けたのかもしれませんが、でも今住んでるのにそんなこと言われてもね。新たに土地なんて取得するにはお金もかかるし。日本は無宗教の人が多いから、こんな争いってあんまり見たことないけど、信心で不幸になるって、絶対間違ってると思います。