堤幸彦監督 渡辺謙 樋口加南子 香川照之 大滝秀治 2006年
人生とは何だろうと考えると、年をとるにしたがって、人生とは記憶であると思うようになってきた。
愛にしても仕事にしても、かつて経験してきたことや体験したことは記憶にあるから人生といえるのであって、記憶からなくなってしまえば、それは人生と言えるのだろうか。そして記憶がなくなったとすると、その(記憶からなくなった)人生を、つまり流れていった年月とその堆積を、誰が証明してくれるというのだろうか。
これは、記憶を失っていく病気になった男の話である。つまり、若年性アルツハイマーになった普通の男の物語である。
普通の、と言うより少し仕事のできるサラリーマン(渡辺謙)が、物忘れが激しくなり、仕事も失敗が続く。否応なく妻(樋口可南子)に連れられていった病院での診断は、若年性アルツハイマー、つまり認知症である。まだ働き盛りの49歳の時である。
健康で、それなりに仕事をこなし部長となり、幸せな家庭を作り、家を建て、娘が結婚した。それなりに、順調な人生である。
結局、男は仕事を辞めることになる。その時、男は会社を去りながら呟く。
「こんな形で終わるとは。しかし、何事もいつかは終わるのだ」
取引先の課長(香川照之)が電話で言う。
「あなたの後任の彼はまだダメだよ。早く職場に戻ってきてよ。そして、一緒にキャバクラ行こうよ」
しかし、この話は実現することはない。
ここまでは序章である。
男は、仕事も辞めて家にいる日が続く。妻が働きに出る。
男は病気と言っても体は健康である。どうして、簡単なことをすぐに忘れるのか、何もできないのか、働きに出ている妻の帰りが遅い時は他に誰かと会っているのではないかと疑ったり、考えれば考えるほど頭が混乱する。解決策が見つかるはずもなく、男のジレンマは募る。
ある日、男は妻が友人からもらっていた田舎の医療施設に一人でぶらりと出向く。その足で、かつて妻と習っていた陶芸の先生(大滝秀治)の古い家に辿り着く。そこで、先生と一緒に焼き物を焼き、そこでいつしか眠りにつく。
朝起きると、先生はどこにもいないし、家は廃屋と化している。しかし、昨晩焼いた焼き物だけはある。まるで、上田秋成の「雨月物語」である。
心配して迎えに来た妻が、そこで夫である男を見つける。その時、男は妻に「親切に」と挨拶する。既に、男は妻を認識できなくなっていたのだ。
妻は涙が止まらない。男は、妻がなぜ泣いているのか分からない。
第2幕章の終わりである。映画はここで終わる。
ここから、実際は第3幕章が始まるはずだ。男にとっても妻にとっても、まだ長い残りの人生が。
しかし、人生とは何なのであろう。
そして、記憶とは何なのだろう。
生きていくということは。
終わり方は、どれも哀しみに彩られているのだろうか。
僕は、古代ローマの皇帝マルクス・アウレリウスの言葉が忘れられない。
「遠からず、君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう」(「自省録」)
人生とは何だろうと考えると、年をとるにしたがって、人生とは記憶であると思うようになってきた。
愛にしても仕事にしても、かつて経験してきたことや体験したことは記憶にあるから人生といえるのであって、記憶からなくなってしまえば、それは人生と言えるのだろうか。そして記憶がなくなったとすると、その(記憶からなくなった)人生を、つまり流れていった年月とその堆積を、誰が証明してくれるというのだろうか。
これは、記憶を失っていく病気になった男の話である。つまり、若年性アルツハイマーになった普通の男の物語である。
普通の、と言うより少し仕事のできるサラリーマン(渡辺謙)が、物忘れが激しくなり、仕事も失敗が続く。否応なく妻(樋口可南子)に連れられていった病院での診断は、若年性アルツハイマー、つまり認知症である。まだ働き盛りの49歳の時である。
健康で、それなりに仕事をこなし部長となり、幸せな家庭を作り、家を建て、娘が結婚した。それなりに、順調な人生である。
結局、男は仕事を辞めることになる。その時、男は会社を去りながら呟く。
「こんな形で終わるとは。しかし、何事もいつかは終わるのだ」
取引先の課長(香川照之)が電話で言う。
「あなたの後任の彼はまだダメだよ。早く職場に戻ってきてよ。そして、一緒にキャバクラ行こうよ」
しかし、この話は実現することはない。
ここまでは序章である。
男は、仕事も辞めて家にいる日が続く。妻が働きに出る。
男は病気と言っても体は健康である。どうして、簡単なことをすぐに忘れるのか、何もできないのか、働きに出ている妻の帰りが遅い時は他に誰かと会っているのではないかと疑ったり、考えれば考えるほど頭が混乱する。解決策が見つかるはずもなく、男のジレンマは募る。
ある日、男は妻が友人からもらっていた田舎の医療施設に一人でぶらりと出向く。その足で、かつて妻と習っていた陶芸の先生(大滝秀治)の古い家に辿り着く。そこで、先生と一緒に焼き物を焼き、そこでいつしか眠りにつく。
朝起きると、先生はどこにもいないし、家は廃屋と化している。しかし、昨晩焼いた焼き物だけはある。まるで、上田秋成の「雨月物語」である。
心配して迎えに来た妻が、そこで夫である男を見つける。その時、男は妻に「親切に」と挨拶する。既に、男は妻を認識できなくなっていたのだ。
妻は涙が止まらない。男は、妻がなぜ泣いているのか分からない。
第2幕章の終わりである。映画はここで終わる。
ここから、実際は第3幕章が始まるはずだ。男にとっても妻にとっても、まだ長い残りの人生が。
しかし、人生とは何なのであろう。
そして、記憶とは何なのだろう。
生きていくということは。
終わり方は、どれも哀しみに彩られているのだろうか。
僕は、古代ローマの皇帝マルクス・アウレリウスの言葉が忘れられない。
「遠からず、君はあらゆるものを忘れ、遠からずあらゆるものは君を忘れてしまうであろう」(「自省録」)
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