かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ ヘルメットをかぶった君に会いたい

2006-08-09 18:10:16 | 本/小説:日本
 鴻上尚史著 集英社

 最近は、音楽も回顧ブームである。1960年代、70年代の昭和歌謡のアンソロジーのCDが何種か売り出されている。多くは青春歌謡と銘うち、当時の風俗の映像を映しながら、歌を流すCMも流れている。
 その一連のCM映像の中で、1969年のヒット曲が流れる中に、学生運動の一風景ともいえる、ヘルメットをかぶった女子大生が映っているものがある。
 ビラを配っているヘルメットをかぶった学生たち。その中の一人の女子大生がアップになる。そして、はじける笑顔。ほんの数秒である。その女子大生が気になりだした、演出家である著者が、彼女を探そうと奔走する。彼女に会いたい。しかし、当時の可愛い女子大生は、当然のことだが、今はそのままの若い年齢ではないはずだ。すでに、もう50代後半であろうか。
 
 全国の大学に燎原の火のごとく広まった学生運動は、全共闘という名の総称の流れの中に収斂されていった。そして、70年の東大・安田講堂の陥落に象徴されるかのごとく、それ以後は急速に衰退へ向かった。
 著者の鴻上尚史は、学生運動がすでに鎮火したあとの世代である。「遅れてきた世代」とも「しらけ世代」とも言われた頃に、学生生活を送った。それ故にとでもいおうか、当時の熱狂的な大学というものに、そして学生運動を直接体験した世代に、ある種の憧れと羨望を抱いている。
 しかし、学生運動というものを、直接体験したものは、そのことについてあまり多くを語ろうとしない。語っているのは、たぶんにそのあとの世代か周辺の世代である。
 それを、著者は「大人買い」に例えている。子どもの頃、買ってもらえなかったもの、手に入らなかったものがトラウマになって、大人になって買いまくるという症状だ。興味を持ち、没入しなければいけない時にしなかった反動が、今自分を突き動かしていると自己分析する。
 父の世代の戦争体験もそうだが、学生運動の渦中にいた人間は、そのことについて正面から語ることに控えめだ。
 誰もが、自分の青春の傷跡を見るのは忍びない。後悔をしているのではない、むしろその理想に対する純粋な対峙と燃焼に矜持はある。しかし、語るのには躊躇いがある。何を、どう語ればいいというのだろう。

 著者は、遅れて来た学生がゆえに、学生運動に興味をもっている。その延長上に、あの彼女が現れたのだ。それは、あらかじめ失われた青春への憧憬のように映る。あの時代とは、どのような時代だったのだろうかと彼は想像をめぐらす。あの当時、自分が学生であったのなら、渦中にいただろうと思う。
 鴻上は、この時代の学生運動の雰囲気を伝えるのに、立松和平原作、高橋伴明監督、映画『光の雨』のナレーションを引用している。この映画は、連合赤軍を扱ったものであるが、その時代の学生運動の説明なしには、この物語は単なる仲間のリンチと暴力事件でしかないからである。それをさらに引用してみる。
 「革命をしたかった。生きるすべての人が幸せになる世の中を作りたかった。各人の持っている能力は100パーセント発揮でき、富の分配はあくまで公平で、職業の違いはあっても上下関係はない。人と人との間に争いはないから、戦争など存在し得ない」
 こんな、今なら青臭い理想でしかないと一蹴される世界観が、衒いもなく語られる時代であった。このユートピアを真面目に学生たちは議論し、自分でできる身の丈の実践を試みようとした。それが、一般学生をも巻き込んだデモであった。

 しかし、学生運動は衰退していった。そして、地下へもぐっていった。それと同時に、彼女も消息を絶った。
 作中、当時彼女を知り、渦中にいた文芸評論家は、こう語る。
 「(私は)目撃者だったはずなのに、72年以降の現状に衝撃を受けたのです。大学は企業の予備校なんかじゃないんです。幸せになりたいとは思っていましたが、人より、よけいに幸せになるのはよそうと思っていました。それが、なんというか、生きていく中でとても大切なことだと感じていました。私は、『省みれば、ふがいないことばかり』という思いを仕事の根底に置かないといけないと思ってるんですよ」

 政治の季節。その中に彼女はいた。はじけるような彼女。
 著者は、彼女を追い求める。CM制作会社を通して、出版社を通して、大学を通して、そして、少しずつ彼女の姿が分かりかけてくる。
 著者の、彼女を追い求める現在進行形の姿が、この本のメイン・ストーリーになっている。その意味では、ドキュメンタリーの形式をとっているが、著者のロマンチシズムが滲み出た小説には違いない。
 読みながら、僕も彼女に会いたいと思った。しかし、それは彼女にとって見れば、はた迷惑なことだろう。それは、とても個人的なセンチメンタリズムでしかない。
 彼女の微笑から40年が過ぎている。あの微笑が、ピンで留められた蝶に少年の心がときめくように、誰かの心をときめかしたとしても、時は過ぎていったのだ。

 誰にでも秘密があるように、誰にでもその人だけの人生がある。誰にでも、時は等しくやって来て、通り過ぎていく。誰をも、あの「微笑み」を取り戻すことはできない。
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「三池」 映画が呼び起こす街

2006-08-03 13:39:25 | * 炭鉱の足跡
 熊谷博子監督 大牟田市・大牟田市石炭産業科学館企画・製作協力 2006年上映(ポレポレ東中野)

 「三池」と聞いただけで、胸が熱くなり、様々な思い出がわきあがってくる。あの、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱である。
 戦後、福岡には、鉄鉱の八幡を筆頭とした小倉、若松、戸畑、門司などの北九州工業地帯とともに、中部の田川、飯塚周辺の筑豊炭鉱、さらに南の有明海沿岸には三池の大牟田があり、一大工業地帯を形成していた。大牟田は、三池とともに栄えた九州最大、いや日本最大の炭鉱都市であった。
 
 *

 大牟田には、父の祖父母が叔母とともに住んでいた。
祖父は軍の役人を辞めたあと、旧満州で酒の工場を経営していたという。なかにし礼の祖父を思わせる。
 戦後、中国から引きあげて大牟田に住んでいた祖父母は、とおに隠居の身であった。髭をはやした祖父は墨絵を描いたり、木の彫り物をしたりしていて、文人のようであった。祖母の父方が岩国(山口県)・吉川藩の絵師だったので、その影響かもしれない。
 父の兄、すなわち僕の伯父は、山口県小郡市に住んでいて、油絵を描いていた。
 幼いとき、僕は父に連れられて、時々祖父母の住む大牟田に行った。やはり、僕の住んでいた佐賀の町も炭鉱町だったが、祖父母の住む町は炭鉱の香りがどこにもない住宅地だった。だから、祖父母の住む大牟田と三池は、当時は結びつかなかった。
 小学校に入ると、夏と冬の休みの時は、決まって父に連れられて大牟田へ行った。母も一緒に行く時もあった。
 僕の町に比べれば、はるかに大牟田は都会だった。大牟田に行くと、決まって栄町の松屋デパートへ連れて行ってもらった。屋上に、木馬のメリーゴーランドがあり、それに揺られるのが楽しみだった。そして、食堂で食べるランチ。旗のついているお子様ランチがお気に入りで、それが僕の定番だった。
 5歳下の弟も彼が少し大きくなった後、一緒に行くようになった。
 そんな大牟田も、僕が東京に出てきてからは、滅多に行くこともなくなった。

* *

 この映画『三池』は、「終わらない炭鉱(やま)の物語」というサブタイトルが付いているように、大牟田、三池の現在とかつての映像によるドキュメンタリーである。かつてとは、1960年、総労働対総資本と言わしめた、1年にも及んだ三池闘争のことである。
 この三池争議は、第2組合ができて、闘争はさらに熾烈になり、第1組合から死者を出すまでに激化した。その後、石炭産業は、石油によるエネルギー革命によって衰退化をたどり、三池も1997年に100年以上続いた歴史に幕を下ろすことになった。
 映画は、炭鉱のいまも残る足跡を映しだす。朽ち果てた、しかし偉大な産業遺産である。それと同時に、石炭産業が華やかなりし頃を生きた人の、いまを映しだす。かつて第1組合だった人も第2組合だった人も、経営者サイドだった人も、一様に年老いた。各々、過去を懐かしむように語り出す。それは、もはや戻っては来ないあの頃の、自分の若さと情熱と、三池という石炭産業への二重の思いだ。
 いま、「三池」という栄光の輝きの時代が、風化に曝されている同時に、大牟田の人々の心に伝説化されつつあるかのように見えた。

* * *

 閉山が決定した1年後の1998年の夏、僕は久しぶりに大牟田へ行った。
 いま考えるに、炭鉱と縁もゆかりもなかった祖父母がなぜ大牟田に住みついたのだろうかと不思議に思う。炭鉱に限らず、新しい産業などで発展してきた町はよそ者が入ってきて、栄えてきた。誰をも迎えうる新興の炭鉱町の持つ度量の深さが、あらゆる階層の人が集まる基盤を作り、住みやすさを生みだしていたのかもしれない。
 すでに祖父母も叔母もなく、僕は大牟田ではなく「三池」を見に行った。三池は、一時は20もの抗口(坑道の入口)を持ち、全国の石炭の4分の1を産出した。
 
 まず地図を頼りに、万田坑跡へ行った。万田坑は明治35年に開坑し昭和26年に閉坑していた。しかし、塔を思わせる竪坑用の車輪を持った鉄製の魯と、レンガ造りの巻室は残っていた。これを見ただけで、炭鉱遺産と分かる。
 建物の中は立ち入り禁止と書いた看板が取り付けられて、門が閉まっていた。周りは、雑草の夏草が蔓延っていて、誰も人はいない。
 草むらの中に、まるで坑道のようにレンガで囲まれた入口を見つけた。向こう側に通り抜ける地下があった。中に入ってみると、遠くに出口の日の明かりが見える。距離は50メートルぐらいだろうか。途中一箇所、天井を刳り抜いた明かり窓があるだけで、電灯もない。この中だけは、夏の盛りで汗をかいていたのも忘れるくらい涼しい。出口のところの頭の上に、ランプの形をした電灯の枠があったので、かつては明かりが取り付けてあったのだ。
 かつては人が頻繁に行き来し、子どもたちの叫び声が響いたことだろう。こういう穴蔵は、子どもは大好きなのだ。
 
 草むらの中で、ボルトで留めた鉄板が並び敷かれた砂利道が、まっすぐ延びていた。炭鉱鉄道の跡だ。すでにレールはない。普通の線路より少し幅が狭い。

 砂利道を歩いた。夏の日差しが眩しい。30分ほど歩いたところで、また鉄製の櫓が見えた。宮ノ原抗跡だ。開坑は明治31年で、閉坑は昭和6年。ここにもレンガ造りの巻室が残っていた。
 この近くに、鉄筋2階建ての住宅が並んでいた。すぐに炭住(炭鉱住宅)と分かった。歩いてみると、昭和30年代の空気が流れてきた。庭に面した窓から中が見えるが、人は住んでいないようだ。しかし、ついさっきまで住んでいたと思われる生活の息づかいが感じられる。
 いつ建てられたものか知らないが、シンプルで近代的な建築だ。最近表参道ヒルズにリニューアルした、かつての原宿の同潤会アパートに似ている。おそらくこの住宅も当時は最もモダンな建築だっただろう。
 この建物の前の道を自転車が通り過ぎた。まだ住んでいる人がいるのだろうか。
 さらに歩いて、有明海の港へ向かった。

 有明海の三池港は、石炭の積出港として栄えたところで、周辺には、四山坑や三川坑があり、最後まで採掘していたところだ。沖には、人工島の初島がある。
 三池港は、閉山になったとはいえ、息をしていた。三池鉱業所の看板を掲げた事務所は開いていて、人の出入りがあった。炭鉱(やま)の人間がまだ仕事をしていた。おそらく残務整理だろう。門が開いていたので、敷地の中に入ってみた。建物の裏に池があり、鯉が泳いでいた。不思議な気がした。

 帰りに、三池港の近くにある「港倶楽部」でコーヒーを飲んだ。明治41年に建てられた西洋館で、催しものも行われている現役の建物だ。華やかさもある、歴史的建築物だ。柳川にある旧立花藩の別荘「御花」と遜色ない。
 当時の三池の栄華を残す唯一の建物だが、最近営業は停止されたと聞く。
 三池の足跡が、また一つ遠くへ行ってしまった。
コメント (1)
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