かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

1. 身も心も

2005-08-13 15:45:06 | * フランス、イタリアへの旅
 ブログをやろうと思いたって、はや幾月日。
 女もすなるブログというものを、ましてやもう若くはない男もしてみむなり……ということで、「海外旅日記」なる旅の思いを綴っていこうと思う。

 人生の道は、誰でもそうであるように一本道ではない。ある時には二股に分かれていたり、行き止まりになっていると感じたり、立ち止まざるを得ない時がある。それでも、人は自らすすんで、あるいは否応なく、いずれかの道を選んで歩かなければならない。それが、幸せだったのか不幸せだったのかは誰にも分からない。幸せの基準や尺度などどこにもないからだ。それを口にするものは、どこかで何かと比較しているか、そう思うことにより精神的安寧を願っているにすぎない。そういう意味では、幸せはどこにでも転がっている代物だともいえる。

 私は1994年、幸か不幸かずっと勤めていた出版社を辞めた。辞める選択肢しか残っていなかった。ずっと思ってきたことだったが、その一歩を踏み出せないでいたのだ。
 元々独り身だった私は、身も心も自由になった。その時すでに40代の後半という年齢が、まだ若いのかもう年なのかは知らない。しかし、独り身という気楽さもあって、私は手に入れた自由に喜んで身をまかせた。
 しかし、手に入れた自由というものは、それを手なずけるには手に負えるものとは言い難いものだった。私の扱いは恐らくぎこちなかったに違いない。捕まえたり手放したりを繰り返していた。心ならずとも手にした念願の自由というフリーの立場は、恋に似て、まるで「籠の鳥」のようなものであった。
 
 1995年、フリーになったけじめと思い、9月から10月にかけて1か月に渡り一人スペインとポルトガルを旅した。その記録は、別に記すことにしたい。

 スペイン・ポルトガルの旅から帰ったあと、私はフリーランスとして様々な出版編集に携わった。友人のプロダクションから頼まれた原稿整理、翻訳ロマンス小説の校閲、文芸誌の新人賞の下読み、雑誌の取材や自費出版の代行執筆、などなど。
 その中でも最も深く関わってきたのは麻布出版である。この小さな出版社は『今売れている住宅』という季刊誌を出しているに過ぎないのだが、30余年の歴史を持っていた。私は編集長としてこの雑誌を1996年末に任された。この雑誌は典型的なタイアップ記事で成りたっていて、いかに住宅会社から取材広告を取るかが雑誌存続の命運を握っていた。私も編集以外に営業のため住宅会社をまわったりした。『ザ・ハウス』と誌名を変え内容は充実をみたが、日本経済の冷え込みと同時に住宅会社の宣伝広告費縮小もあって、次第に広告収入が集まらなくなり経営が苦しくなっていった。
 さらに経営交代劇に私も巻き込まれ、いや正確には私も登場人物になったりして、会社は迷走し自滅への道をたどった。しかし、この間、今までにない貴重で特異な体験をし、多くの個性的な人間と出会った。
 
 2000年の末にこの会社から手を引いた私は、再び完全にフリーの立場に戻った。こういうときに旅心が頭をもたげるものだ。2001年9月、私はヨーロッパに旅立つことにした。行き先は、フランス、イタリアと決めた。
 
 20代の私は、パリに憧れていた。そして1974年、私はパリへ旅した。初めての海外への旅だった。初めての旅は、初めての恋に似ている。甘酸っぱく衝撃的で、決して忘れることはない。
 今回の旅の目的の一つは、そのときにパリに住んでいたポール・ヴィアルフォンに会うことである。彼女とは、その前年私が実家の佐賀に帰っていた冬、焼き物の街有田で一度顔をあわしたにすぎない。彼女は、そんな見ず知らずに等しい東洋の旅人に、その後の生き方に影響を与えたとも思われる体験をパリでさせてくれた。
 出版社に勤めたものの、その当時の私は恋にも仕事にも閉塞感に陥っていた。しかし、このパリへの旅で息を吹き返したと言っていい。
 現在、ポールはすでに彫刻家と結婚してパリを離れ、フランス中部の田舎に住んでいる。会うとすると実に27年ぶりである。

 ポールを訪ねたあとは、その足でフランス南部を周り、イタリアへ行こうと思った。もう一つの目的は、イタリアを見ることだった。イタリアの魅力は知っているが、今までなぜか行かなかった。私が偏向的にフランスが好きなことと、名所旧跡などを巡るだけの旅に興味を持てなかったのもその理由だった。しかし、ラテン系であるイタリア人もイタリアの街も魅力的であることに疑う余地はない。
 
 2001年9月11日、私は近くの安売りチケットで有名な旅行会社で、パリまでの往復の航空券と1か月のユーレイルパスを買った。出発は9月25日で帰国は10月26日とした。航空会社はKLMオランダ航空なので、アムステルダム経由ということになる。
 その日、少し飲んで家に帰ってテレビをつけると、アメリカの世界貿易センタービルに飛行機が激突している映像が何度も流された。私は、まるで映画のようなあまりに劇的な映像に、大変なことが起こったと思った。アメリカに対する同時多発テロであることが分かり、世界中に衝撃が走った翌12日、私は旅行会社に電話を入れてみた。アメリカへの入国は厳しくなり旅行はキャンセルが相次ぎ、ヨーロッパ諸国へもその影響があると言った。アメリカの報復も予想され、世界は混迷状態に入る予感がした。実際、ヨーロッパ諸国にも緊張が走った。私はツアーなどの旅行客が少なくなって、かえっていい機会だと思い、旅立った。
コメント (1)
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