リリー・フランキー著 扶桑社
サブタイトルに「オカンとボクと、時々オトン」とあるように、母への思いを綴った自伝的小説である。
後半の母が癌に冒され死にいく場面は確かに哀しいが、この本はそんなお涙頂戴の本ではない。僕が最も共感してページをめくるのをとめたところは、ストーリーの間の随所に散りばめられた著者の人生への溜息にも似た言葉だ。溜息だからといって湿ってばかりではない。そこには、少年時代から思春期を経て大人になっていく過程の、そして大人になってからも、不確かな人生の断片を見いだすことができるのだ。そして、この点こそが、この本を通俗的な本とは一線を画したものにしているといえる。
著者が大学を卒業して何とか東京での生活も安定しだしたころ、郷里の福岡で一人住んでいる、病気で弱気になった母に「東京へ来るかい」と誘う場面がある。この場面は、というよりこの言葉は、僕の胸を締めつけた。
僕の老いた母も、郷里の佐賀に一人で住んでいる。著者と同じく僕も東京で一人で生活していて、息子である僕と弟が郷里を出たあとは、ずっと母は父と二人で佐賀で生活していた。しかし、父は3年半前に死に、母は一人暮らしになった。
父が生きているときは、何も母のことを気にかけることはなかった。七十代後半だというのに、スクーターに乗って買い物に行ったりして、元気だった。しかし、一人になったら、急に母は衰えた。腰痛(骨粗鬆症)と骨折で入退院を繰り返し、すっかり腰が曲がって小さくなってしまった。
僕も、母が一人になってからは母のことが心配で、いつも気になるようになった。
僕は、ときどき郷里に帰っていたが、著者が言ったこの言葉がなかなか言えなかった。なぜなら、一人で介護をする自信が持てないでいたのだ。それと、老いた親を急に都会に連れてきたら、痴呆が進行するという話を聞いていて、それを言い訳にしている向きもあった。
しかし、著者は母を東京へ呼んで一緒に暮らし始める。すると、母も元気になり、著者も活きいきとしだす。その後の母子の生活は蜜月のように見える。
僕は羨ましかった。このような生活を夢見ていた。実は僕も、そっと母へ言ってみたのだ。「東京へ来るかい」と。母は、「いや、まだいい」と言った。
まだいいとは、まだ元気だから、こちら(佐賀)にいるということだ。元気でなくなったら、寝たきりになるということじゃないか。そんなになって東京に来ても、病院にいるだけだ。だとしたら、東京へ来る意味がない。母の生まれ故郷の佐賀にいて、僕がしょっちゅう帰ってきたら、それでいいとも思ってしまう。佐賀には、近所の親しいおばさんたちもいて、親類もある。時々、元気? と、居間の窓から顔をのぞいてくれる。それでいいのではなく、それがいいとは、勝手な考えだろうか。
そういうわけで、今は母は佐賀にいることを望んでいて、僕がしばしば佐賀に帰ることに僕は決めた。そして、帰ったときにはなるだけ長くいようと思う。しかし、帰ったとき長く一緒にいると、つい文句を言うときがある。なぜ、こんな簡単なことをやらないんだと。そして、いつもあとで後悔する。昔の母とは違うことを忘れているのだ。しかし、離れていると、今何をしているのだろうかと心配で、優しくなる。
こうして、僕は東京と佐賀を不定期に行き来している。母は、ずっと僕が佐賀にいるのを望んでいるのだろう。しかし、言葉に出しては言わない。東京には、おまえの生活があるのだろうからと言う。東京の生活だって、たいした生活はないのに。
母は、このあとますます老いる。認知症とはいえないが、物忘れは急に進行した。それに、いつまで今の状態が続くか分からない。いつか、そのときがやってくる。
僕も、このあと、どうなるか分からない。分からないのが人生だ。
本の最終部分で、母の棺の横で原稿を書く場面がある。締め切り日でもないのだが、出版社とタレントの事務所との関係で今日中にと言われ、タレントについて面白おかしい原稿を書くという場面だ。
多くの書評が、このシーンを悲哀に満ちた感動話の頂点ように書いている。しかし、僕にいわせれば、それは少し違うだろうと言いたい。僕も出版関係で仕事をしていて分かるのだが、出版・マスコミ関係にいれば、親を看取り、きちんと葬儀をやって親を送れるのは、僥倖といっていい。仕事を断れないフリーならなおさらだ。僕の友人の中で、母の葬儀に出られなかった者がいるし、駆け足で葬儀の列にやっと加わった者もいる。
葬儀の日であれ、母の横で原稿を書く、こんな幸せなことはないだろう。
サブタイトルに「オカンとボクと、時々オトン」とあるように、母への思いを綴った自伝的小説である。
後半の母が癌に冒され死にいく場面は確かに哀しいが、この本はそんなお涙頂戴の本ではない。僕が最も共感してページをめくるのをとめたところは、ストーリーの間の随所に散りばめられた著者の人生への溜息にも似た言葉だ。溜息だからといって湿ってばかりではない。そこには、少年時代から思春期を経て大人になっていく過程の、そして大人になってからも、不確かな人生の断片を見いだすことができるのだ。そして、この点こそが、この本を通俗的な本とは一線を画したものにしているといえる。
著者が大学を卒業して何とか東京での生活も安定しだしたころ、郷里の福岡で一人住んでいる、病気で弱気になった母に「東京へ来るかい」と誘う場面がある。この場面は、というよりこの言葉は、僕の胸を締めつけた。
僕の老いた母も、郷里の佐賀に一人で住んでいる。著者と同じく僕も東京で一人で生活していて、息子である僕と弟が郷里を出たあとは、ずっと母は父と二人で佐賀で生活していた。しかし、父は3年半前に死に、母は一人暮らしになった。
父が生きているときは、何も母のことを気にかけることはなかった。七十代後半だというのに、スクーターに乗って買い物に行ったりして、元気だった。しかし、一人になったら、急に母は衰えた。腰痛(骨粗鬆症)と骨折で入退院を繰り返し、すっかり腰が曲がって小さくなってしまった。
僕も、母が一人になってからは母のことが心配で、いつも気になるようになった。
僕は、ときどき郷里に帰っていたが、著者が言ったこの言葉がなかなか言えなかった。なぜなら、一人で介護をする自信が持てないでいたのだ。それと、老いた親を急に都会に連れてきたら、痴呆が進行するという話を聞いていて、それを言い訳にしている向きもあった。
しかし、著者は母を東京へ呼んで一緒に暮らし始める。すると、母も元気になり、著者も活きいきとしだす。その後の母子の生活は蜜月のように見える。
僕は羨ましかった。このような生活を夢見ていた。実は僕も、そっと母へ言ってみたのだ。「東京へ来るかい」と。母は、「いや、まだいい」と言った。
まだいいとは、まだ元気だから、こちら(佐賀)にいるということだ。元気でなくなったら、寝たきりになるということじゃないか。そんなになって東京に来ても、病院にいるだけだ。だとしたら、東京へ来る意味がない。母の生まれ故郷の佐賀にいて、僕がしょっちゅう帰ってきたら、それでいいとも思ってしまう。佐賀には、近所の親しいおばさんたちもいて、親類もある。時々、元気? と、居間の窓から顔をのぞいてくれる。それでいいのではなく、それがいいとは、勝手な考えだろうか。
そういうわけで、今は母は佐賀にいることを望んでいて、僕がしばしば佐賀に帰ることに僕は決めた。そして、帰ったときにはなるだけ長くいようと思う。しかし、帰ったとき長く一緒にいると、つい文句を言うときがある。なぜ、こんな簡単なことをやらないんだと。そして、いつもあとで後悔する。昔の母とは違うことを忘れているのだ。しかし、離れていると、今何をしているのだろうかと心配で、優しくなる。
こうして、僕は東京と佐賀を不定期に行き来している。母は、ずっと僕が佐賀にいるのを望んでいるのだろう。しかし、言葉に出しては言わない。東京には、おまえの生活があるのだろうからと言う。東京の生活だって、たいした生活はないのに。
母は、このあとますます老いる。認知症とはいえないが、物忘れは急に進行した。それに、いつまで今の状態が続くか分からない。いつか、そのときがやってくる。
僕も、このあと、どうなるか分からない。分からないのが人生だ。
本の最終部分で、母の棺の横で原稿を書く場面がある。締め切り日でもないのだが、出版社とタレントの事務所との関係で今日中にと言われ、タレントについて面白おかしい原稿を書くという場面だ。
多くの書評が、このシーンを悲哀に満ちた感動話の頂点ように書いている。しかし、僕にいわせれば、それは少し違うだろうと言いたい。僕も出版関係で仕事をしていて分かるのだが、出版・マスコミ関係にいれば、親を看取り、きちんと葬儀をやって親を送れるのは、僥倖といっていい。仕事を断れないフリーならなおさらだ。僕の友人の中で、母の葬儀に出られなかった者がいるし、駆け足で葬儀の列にやっと加わった者もいる。
葬儀の日であれ、母の横で原稿を書く、こんな幸せなことはないだろう。