かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

□ 東京タワー

2005-08-30 18:54:59 | 本/小説:日本
 リリー・フランキー著 扶桑社

  サブタイトルに「オカンとボクと、時々オトン」とあるように、母への思いを綴った自伝的小説である。
 後半の母が癌に冒され死にいく場面は確かに哀しいが、この本はそんなお涙頂戴の本ではない。僕が最も共感してページをめくるのをとめたところは、ストーリーの間の随所に散りばめられた著者の人生への溜息にも似た言葉だ。溜息だからといって湿ってばかりではない。そこには、少年時代から思春期を経て大人になっていく過程の、そして大人になってからも、不確かな人生の断片を見いだすことができるのだ。そして、この点こそが、この本を通俗的な本とは一線を画したものにしているといえる。

 著者が大学を卒業して何とか東京での生活も安定しだしたころ、郷里の福岡で一人住んでいる、病気で弱気になった母に「東京へ来るかい」と誘う場面がある。この場面は、というよりこの言葉は、僕の胸を締めつけた。

 僕の老いた母も、郷里の佐賀に一人で住んでいる。著者と同じく僕も東京で一人で生活していて、息子である僕と弟が郷里を出たあとは、ずっと母は父と二人で佐賀で生活していた。しかし、父は3年半前に死に、母は一人暮らしになった。
父が生きているときは、何も母のことを気にかけることはなかった。七十代後半だというのに、スクーターに乗って買い物に行ったりして、元気だった。しかし、一人になったら、急に母は衰えた。腰痛(骨粗鬆症)と骨折で入退院を繰り返し、すっかり腰が曲がって小さくなってしまった。
 僕も、母が一人になってからは母のことが心配で、いつも気になるようになった。

 僕は、ときどき郷里に帰っていたが、著者が言ったこの言葉がなかなか言えなかった。なぜなら、一人で介護をする自信が持てないでいたのだ。それと、老いた親を急に都会に連れてきたら、痴呆が進行するという話を聞いていて、それを言い訳にしている向きもあった。
 しかし、著者は母を東京へ呼んで一緒に暮らし始める。すると、母も元気になり、著者も活きいきとしだす。その後の母子の生活は蜜月のように見える。
 僕は羨ましかった。このような生活を夢見ていた。実は僕も、そっと母へ言ってみたのだ。「東京へ来るかい」と。母は、「いや、まだいい」と言った。
 まだいいとは、まだ元気だから、こちら(佐賀)にいるということだ。元気でなくなったら、寝たきりになるということじゃないか。そんなになって東京に来ても、病院にいるだけだ。だとしたら、東京へ来る意味がない。母の生まれ故郷の佐賀にいて、僕がしょっちゅう帰ってきたら、それでいいとも思ってしまう。佐賀には、近所の親しいおばさんたちもいて、親類もある。時々、元気? と、居間の窓から顔をのぞいてくれる。それでいいのではなく、それがいいとは、勝手な考えだろうか。
 そういうわけで、今は母は佐賀にいることを望んでいて、僕がしばしば佐賀に帰ることに僕は決めた。そして、帰ったときにはなるだけ長くいようと思う。しかし、帰ったとき長く一緒にいると、つい文句を言うときがある。なぜ、こんな簡単なことをやらないんだと。そして、いつもあとで後悔する。昔の母とは違うことを忘れているのだ。しかし、離れていると、今何をしているのだろうかと心配で、優しくなる。
 こうして、僕は東京と佐賀を不定期に行き来している。母は、ずっと僕が佐賀にいるのを望んでいるのだろう。しかし、言葉に出しては言わない。東京には、おまえの生活があるのだろうからと言う。東京の生活だって、たいした生活はないのに。
 母は、このあとますます老いる。認知症とはいえないが、物忘れは急に進行した。それに、いつまで今の状態が続くか分からない。いつか、そのときがやってくる。
 僕も、このあと、どうなるか分からない。分からないのが人生だ。

 本の最終部分で、母の棺の横で原稿を書く場面がある。締め切り日でもないのだが、出版社とタレントの事務所との関係で今日中にと言われ、タレントについて面白おかしい原稿を書くという場面だ。
 多くの書評が、このシーンを悲哀に満ちた感動話の頂点ように書いている。しかし、僕にいわせれば、それは少し違うだろうと言いたい。僕も出版関係で仕事をしていて分かるのだが、出版・マスコミ関係にいれば、親を看取り、きちんと葬儀をやって親を送れるのは、僥倖といっていい。仕事を断れないフリーならなおさらだ。僕の友人の中で、母の葬儀に出られなかった者がいるし、駆け足で葬儀の列にやっと加わった者もいる。
 葬儀の日であれ、母の横で原稿を書く、こんな幸せなことはないだろう。
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* ボルドー・ワインとサン・テミリオン

2005-08-30 18:48:38 | * フランス、イタリアへの旅
*なぜボルドーか

 ワインといえば真っ先に名前が挙げられるのがボルドー。ボルドーとブルゴーニュは、フランス・ワインの双璧である。
 ボルドーは、フランス南西部の大西洋に流れるジロンド川の河口にある。ローマ時代よりワインが生産されていたという記述があるから、古くからブドウの産地であったようだ。ボルドーが一躍歴史の表舞台に現れ発展したのは、中世期(12~15世紀)この一帯のワインの、イギリスへの積出港となってからである。18世紀には、このほかオランダや西インド諸島などの貿易港として莫大な富が集中したという。
 この時期、貴族階級にワイン産地の土地所有が移ったのが、ボルドー特有のシャトーというワイン醸造所の形態に大きな影響を与えているといえよう。また、商人階級の台頭によって、彼らは最初は仲買人であるネゴシアンとして活動するが、さらにはその中からシャトーの所有者となる人や組織も生まれるようになった。
 イギリスで重宝されたボルドーのワインは、次第に世界的に人気が高まり、その価値を確定的にしたのが、1855年のパリ万国博覧会のために行ったメドック、それにソーテルヌとバルサックの格付けである。この格付けがメドックのワインの信頼と評価をさらに高める結果になり、その後、グラーブやサン・テミリオンなどでも独自に格付けが行われるようになった。
 メドックの格付けは1級から5級まであり、今日までの約150年間、なくなったシャトーは別として、1973年にムートン・ロートシルトが2級から1級に格上げされたのを除き、まったく変更されていない。さらにこのほかに、数多くの格付けされていないシャトーや銘柄がしのぎを削っている。
 今でもこの一帯は、フランスの、いや世界中のどの地域よりも上質のワインを安定して生産し続けているが故に、その最高級の地位と名声を保ち続けているのだ。

 地理を見てみれば、フランス中央山岳地帯を源流に持つドルドーニュ川とスペイン国境のピレネー山地を源流とするガロンヌ川が、下流にあるボルドー市の北で合流しジロンド川となり、大西洋に注ぐ。この3つの川の流域が、いわゆるボルドー・ワインの産地である。
 この大西洋とメキシコ湾流の影響が、ボルドーの気候に大きな影響を与えている。さらに、この地は、地域によって石灰石、粘土質など、少しずつ違う地質を持っている。この気候、地質条件がブドウ栽培に適していたうえに、個性的なワインの醸造をもたらしているともいえる。
 この一帯には、各々特徴を持ったブドウ畑を持つ小さな村が数多くあり、大きく次の5つの地区に分けられる。
 ○メドックとオー・メドック
 ○グラーブ
 ○ソーテルヌとバルザック
 ○サン・テミリオンとポムロール
 ○アントル・ドゥ・スール

 フランスのワインは、ボルドーとかブルゴーニュとか大きくは産地名によって呼ばれて、さらにメドックやサン・テミリオンといった各地域に分けられる。さらに、その下に村名を付けたりして限定する場合(ヴィラージュ・ワイン)もある。
また、ボルドーでは、自己畑、自己醸造、自己瓶詰めができればシャトーを名のれる制度がある(ブルゴーニュでは、メドーヌという制度に当たる)。実際、ボルドー全域で約4千のシャトーが存在するといわれている。
 それら千差万別なシャトーの中から、高度な品質を保持するために、先にあげた地域によっては、厳格な格付け制度が行われているのである。

*サン・テミリオンの秘密

 そのボルドーの中で、ドルドーニュ川右岸にあるのが、サン・テミリオンだ。この村は、中世の名僧、聖エミリオンによって発展したので、その名がついた。以来、ワインにも、この名が冠してある。しかも、中世の街がそのまま現存している世界遺産の街でもある。

 ボルドー・ワインの中でも、サン・テミリオンのワインは少し異質といっていい。どこが違うのか。
 まず、地質であるが、この一帯は石灰分を含んだ土壌で水はけがよい。そして、土壌の質が変化に富んでいることがあげられる。
 かつて石灰石の石切場でもあったこの地は、地下の石切場跡をカーヴに利用しているシャトー(シャトー・ボーセジュール・ベコ)もある。石灰石による室内は、常に温度が18度に保たれるので、ワインの保存には格好の空間なのである。
また、ワイン生産地としての特徴は、他のボルドー地区に比べて、小さなクリュ(ワインの生産者、シャトー)が密集していることだ。
 プルミエ・グラン・クリュ・クラッセ格付けの最上級Aクラスの、シャトー・オーゾンヌ、シャトー・シュヴァル・ブランのほか、5,000ヘクタールの地区に、1,000ものクリュがひしめいている。
 さらに、ボルドー・ワインの中でも、決定的な特徴を持たせているのに、ブドウの品種、その配合をあげなければならない。
 基本的にブルゴーニュの赤ワインが、ピノ・ノワールの単一種で造られるのに対し、ボルドーの赤ワインは、3ないし4種のブドウ種で造られる。これらを、それぞれの地区や村の生産者(シャトー)ごとに、畑や土壌を考慮に入れて、各々の裁量でミックスされる。それ故、ボルドーは、多様な個性が生まれるのだ。
 具体的には、メドックをはじめボルドーの多くの地区では、カベルネ・ソーヴィニオン種が主体で、それにメルロ、カベルネ・フラン種などを混ぜる。
 ところが、サン・テミリオン地区では、メルロ種を主体として造られる。メルロから生まれるワインは、カベルネ・ソーヴィニオンより、タンニン(渋み)が少なくてアルコール度が高い。色も、ソーヴィニオン主体のボルドー・ワインよりも、赤が鮮明で、口当たりも柔らかい。それに、熟成が早く、それだけ早く飲めるということになる。

 つまり、サン・テミリオンのワインは、カベルネ・ソーヴィニオン主体のボルドー・ワインに逆らったボルドー・ワインなのだ。

*シャトー・モーカイユの実力

 私がボルドーのワイン・ツアーで訪ねたワイナリー、「Chateau Maucaillou」(シャトー・モーカイユ)は、メドック地区の中で最も小さな村のMoulisムーリに在る。
 しかし、のちに調べてみたところ、シャトー・モーカイユはメドックの格付けシャトー(グラン・クリュ)に入っていない。では、単なる小さな星屑のように点在する無名のシャトーの一つにすぎなかったのだろうか。

 格付けされているシャトーは歴史も古く数も限られ、いわばエリートである。しかも、格付けが変更されたのは、格付け発表以来150年間で1件だけである(あのロスチャイルド大資本傘下のシャトー)。格付けブランドが格付け名簿にあぐらをかいているのではなく、品質維持に努力を重ねているシャトーばかりだと思われる。
 そうであっても、そんなに長い間、メドックのワインは味や質の変動もなく推移してきたのであろうか。格付けからもれたものや新しいシャトーの中に、格付けワインより良いものが埋もれているか、生まれているはずと思うのは当然である。格付けからもれた、あるいは新興のシャトーの中で自負あるシャトーは、黙って無格付けのままで、手をこまねいて時に身を委ねていたのだろうか。
 やはり、そうではなかった。このメドックの難攻不落の格付けに対し、それならばと独自の格付け組織である、クリュ・ブルジョア(ブルジョア級)という格付けの動きが、1920年から始まったのだ。そしてブルジョア・シャトーの組合(サンジカ)が1966年、最初の格付けを正式発表し、78年改訂され、さらにはっきりとした基準が設けた。
 シャトー・モーカイユは、ここに顔を出していたのだ。

 ワインを調べようと思って開いた、『図説・フランスワイン紀行』(河出書房新社)の本の中で、まずいきなり、ボルドーの誇り高きクリュ・ブルジョアとして、グラン・クリュに入っていないが、独自の努力でそれらに匹敵する実力のあるシャトーを紹介していた。その中で、メドック最小面積のAOC村であるムーリ村での3羽ガラスの一つが、シャトー・モーカイユと紹介している。
 さらに、専門家に最も信頼のあるワインの本、ヒュー・ジョンソン著『ポケット・ワイン・ブック1993年版』(鎌倉書房、のち早川書房刊)を開いたら、「クリュ・クラッセ(格付け銘柄)の実力を持つ」と、二つ星で紹介している。
 さらに、デイヴィッド・ペパコーン著『ポケット・ブック/ボルドー・ワイン』(鎌倉書房、のち早川書房刊)を見ると、著者はかなりの入れ込みようだ。「1984年に、ムーリの79年度もののブラインド・テイスティングが行われたとき、私はモーカイユに最高点をつけた」とある。さらに、「ムーリの力強さに、見事な風味、真の素性の良さ、魅力が溶け合っているワインである。ブラインド・テイスティングで、クリュ・クラッセの好敵手になることが、しばしばある」と続くのだ。

 このように、シャトー・モーカイユは不本意ながらクリュ・クラッセに入ってはいないものの、実力によって格付けワインと同等の力があると、専門家に認めさせているのだった。
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