かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

4. サン・セレとラコスト

2005-08-19 00:40:53 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年9月28日>
 朝、目を覚ましカーテンを開くと、目の前にはなだらかに下る草原が広がっていた。若草がまばゆい。もう大分陽は昇っていた。遠くの木の下に長男ロックの飼っている馬が草を食んでいる。そういえば、馬のいななきがさほど遠くない時間の記憶から甦った。うとうととした眠りの中で、その声を聞いたのだ。

 ラコストといわれるこの地は、ヴェルダル家であるポールの家族だけが住んでいるような人里離れた丘の上にある。いや詳しくは、ヴェルダル家の館と、その隣に、鶏が何羽もの雛を引きつれて家の周りをうろつきまわっている古い家が1軒あるだけだ。老人の男性が住んでいるのは垣間見えたが、ほかに誰か住んでいる気配はない。
 ここからは、遠く見える街までは歩いていける距離ではない。一般道からナイフのように切り取られた道が来ているだけなので、ヴェルダル家を訪れる者以外がこの家の前を通ることはない。だから、ここだけが世界から切り取られた、まるでお伽話に出てくる村のようだ。茂った草むらから、赤い帽子を被った小人が出てきても不思議ではない雰囲気だ。

 台所へ行くと、食事が待っていた。ポールと三男のジュネがいた。ジャックは、もう近くにあるスタジオで制作に取りかかっていた。ジュネはまだ20才というのに、キリストのような顔を持っていた。
 テレビも音楽もない静かな生活だ。私の東京での生活は、起きたらすぐにラジオかテレビをつけるのだが、ここではそんなことはない。耳にするのは自然の音だけだ。
 食事のあと、一人、花が咲いている家の奥の道を入ってみた。道は、すぐに両側に灌木が茂る次第に細い道になり、車も通らない道になった。そこがどこへたどり着くか見当つかなかった。10分も歩くと私はすぐに心細くなり、道の行く先を探索するのを諦め、家に戻った。
 そういえば、子どもの頃もこんな心細い気持ちを何度か味わったことがあった。未知への好奇心から知らない山や道を入っていったはいいが、途中で怖くなって戻ってきた経験だ。

 午後、ポールの案内でサン・セレとオートワールの街を歩いた。
 サン・セレは小さな街である。丘の上のポールの家から草原をうねるように下って、「 Lacoste 」(ラコスト)と書いた標示木が立っていている先で、一般道路に交わり、そのまま下っていくと街の中心に行きつく。街の中心といっても、スーパーマーケットや郵便局、写真館、ケーキ屋などの建物が寄り添うように集まっている一角なのだが、それでも観光案内所と1階がレストランのホテルがあるのには驚いた。
 日本のガイドブックには載っていないが、小さいながらもここは観光地なのだ。私が、観光案内所に入り日本人だと名のると、係の人に、ここへ来た日本人はあなたで4人目だと言われた。

 車を走らせると、山の上にサン・ローランの塔が聳えていた。別に、これはオートクチュールのクチュリエ、サン・ローランとは何の関係もない。
 私たちはカスケード(滝)を見るため、山の中に分け入った。人はほとんどいないが、ここもこの辺では観光名所なのだろう。私たちは、子どもの時の探検のように、林と崖を伝って、滝に行きついた。私のために、こんな冒険をしてくれるポールの親切心が嬉しかった。
 この辺りは石造りの古い家が多く、「売り家」の貼り紙も多く目についた。

 オートワールは、美しい古い建物が並んでいたが、廃市のように静かだった。街の中心とおぼしきところには、水を溜めた水路に彫刻のオブジェが建てられていたが、人は誰もいなかった。いや、よく見ると建物の軒下に老人が一人座っていた。
 歴史に取り残されたような街が、そこにあった。
 
 夜、知人の家に行くと言うのでポール夫妻と3人で出発した。そうだった。いつでもポールは、突然今日友人の家に行くからと私に告げるのだった。予定などない私は、「ウイ」と言って、ついて行く。そこには、いつも予期せぬ酒宴が待っていた。

 丘の下に住んでいるコンベッティ家へ着いた。素晴らしい近代的な邸宅だった。その日、コンベッティ夫妻にその母、ポール夫妻に私、それに画家のピーター・オランドと作家のジャン・ミッシェルが集った。
 雑談の中、まず白ワインが配られた。「この白はとても上等だから」とポールが私にそっとささやいた。ラベルを見ると「シャトー・ドゥ・ムルソー」。ブルゴーニュのコート・ドゥ・ボーヌ産である。私は、そのワインがどの程度のものかを知らなかったので、何の反応を示すことができないでいた。私は、そのことを内心少し恥じながら、ゆっくり舌に記憶させるように味わった。
 ここでは、別にそのワインについて褒めそやしたり、味について蘊蓄を傾ける人はいなかったが、誰もがその質と高さを知っていて、さりげなく味わっているように思えた。
 一段落したところで、めいめいに歓談していたのをやめてテーブルに着いた。大きな丸テーブルで、席は決められていた。正式に食事が始まった。
 オードブルとして、フォアグラとベーコンが散りばめられた野菜が配られた。それが食べ終わったころ、メインの牛の肉とポテト。その間、赤ワインが注がれる。そして、何種類かのフロマージュとパン。みんなお喋りをしながら、ゆっくり食べ、飲んでいる。最後は、リンゴのガトーである。

<9月29日>
 目が覚めても、今日はどこへ行こうか、何をしようかと、何も私は考えなかった。何をするという目的もなかったし、その必要も感じなかった。目が覚めたあとは成り行き任せの、のんびりとした1日の始まりだ。ここには、私が何時に起きようと、何時に寝ようと、誰もそれについて口出しする者はいない。私は、もう前からここの一員のように振る舞っていたし、誰もがめいめい自分のことをやっていた。
 ここには、ゆったりとした時間の流れと安心した大地があった。それと、私に欠けていた家庭があった。

 午後から雨が降った。夕方、古い家をジャックも一緒に3人で見に行った。教会の前のいかにも古い石造りの家の前に来た。1619年のプレートが彫り込まれてある。その隣は村役場だった。私たちのほかに2組のカップルが来ていた。その家の家番の人であろうか、坊主頭の腰の低い人が家を案内してくれた。
 小石を積み上げた塀に囲まれた建物は修道院とも要塞とも見えた。ポール夫妻は、古い建物に興味があるようだ。
 
フランスの田舎の街は、アメリカのテロ攻撃にもイスラム反抗にも関係なく、遠い時の中に吸い込まれているようだった。
 
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3. 再会

2005-08-16 02:18:50 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年9月27日>サン・セレ
 フランス中部の田舎にあるというポールの家に行くためオーステルリッツ駅に行ったら、ここでも迷彩色の兵服に銃を持った兵隊が警戒していた。やはり主要駅は警戒態勢がしかれている。
 パリのオーステルリッツ駅を10時11分発の南西に向かうトゥールーズ行きの急行列車に乗ると、途中フランス中部にあるブリーブ駅に14時19分に着く。そこで降りて14時29分発の支線に乗り換えるとブレト・ノー・ビアルス駅に15時14分に着く。そこで、ポールが待っている予定だった。
 パリを離れた列車は、南に走った。田園風景が続き、フランスが農業国でもあることが分かる。ブリーブ駅から山間を抜けたところのブレト・ノー・ビアルス駅は小さな駅だったが、数人が降りた。
 列車を降りてホームを見渡すと、一人の女性が立っているのが見えた。その女性はこちらに歩き出した。私は、その人がポールであることがすぐに分かった。少し細くなり目尻にしわがある中年の婦人だが、変わらないポールがいた。27年ぶりの再会に私たちは抱きあった。

 ポールの家は駅から車で30分ほど走った丘の上にあった。遠くから見ると小さなシャトーのようだ。車道からくびれるように入り込んだ丘の小道を蛇行しながら車は登っていった。登りきったところに、石造りで、閂の門を持った古い館があった。200年前に建てられたと言ったが、「白雪姫」のようなお伽噺に出てくる建物のようだ。
 なだらかな丘は庭を兼ねているように、花が咲き、ところどころ南瓜が色をつけていた。ポールの長男が飼っているという馬がいなないた。建物の脇には小さなプールもある。
 丘の下に街が小さく見えた。陽が沈みかけ、山や街の景色を茜色に染めた。
ポールの夫、ジャック・ド・ヴェルダル氏は、芸術家らしく気さくな人であった。おどけたときのアインシュタインにそっくりだ。建物から離れた庭に彫刻をするスタジオがあり、庭には石造の作品が並んでいた。
 ポールには4人の子どもがいる。長男は近くの牧場で働いていて、次男は近くの街で働いているということだった。3男は家にいて、いま進路を考えているところだということだった。彼は繊細な感情の持ち主で、どのような道だか分からないがアーチストになるだろうとポールが語った。4男は学生で、トゥールーズ市で下宿しているらしい。

 その夜、ポールの家に友人たちがやってきた。ポール夫妻のほか3組のカップルが集まって食事をした。当然ワインが出てくるので、宴会のようなものだ。
クロード・モネのような髭をたくわえたグレゴールと妻のカルタイ。グレゴールは、ヴァイオリニストで、セラピストで、レストラン経営者と紹介された。画家であるヘリアスとアン夫妻はいかにもアンバランスなカップルだ。ヘリアスは、機知に富んだお喋りな人で、頭の髪が薄くアーサー・ペンを思わせた。アンは、年齢不詳の派手な顔立ちで、「ハリウッド」というあだ名の由来は、「チャーリーズ・エンゼルス」のファラ・フォーセットによく似ていることからか。脚が自慢なのだろう、ミニスカートから長い脚をこれ見よがしにのばしている。私の「あなたは、あの人(ヘリアス)の奥さんですよね」という問いに、「しかし、私は自由よ」と笑った。どういう意味だろうと私は考えてしまった。ほかの男とも寝るわよという意味なのだろうか、だとすると女性は恐ろしい。年齢も離れているようだし、不思議な夫婦だ。もう一組のカップルのマルコとクロウド・ヴァロチは新婚だ。マルコはイタリア人で、若いころの藤田嗣治のように鼻髭をたくわえている。
 彼らはよく食べ、よく飲み、よく喋った。フランス人はよく喋る。いや、会話をすることが好きだ。

 思えば、27年前もそうだった。そのとき私は、ただ憧れだけを抱いて一人パリに来た。初めての海外旅行だった。3週間の旅行日程のうち2週間をパリで過ごすと決めていた。
 そのとき、一度日本で会っただけの私を、ポールはまるで古くからの友人のように接して、パリの街にとけ込ましてくれた。それどころか、サン・ミッセルのホテルに泊まっていた私に「ホテル代がもったいないから」と、当時彼女が母と住んでいたパリのシェルシュ・ミディにあるアパルトマンに私の荷物を移し泊めてくれた。
 私は、しばしばポールに誘われて、彼女の仲間たちの集まるプライベート・パーティに顔を出すことになった。当時太っちょのカナダ人のカンのアパルトマンでも何人かが集まった。そこでは、串刺しにした肉を熱くした油の中に突っこみ日本の焼き鳥のようにして食べ、ワインを飲み、ポンピドゥー後の大統領選挙を争っていたジスカール・デスタンとミッテランについてみんな口角泡を飛ばしていた。パパス・アンド・ママスの「夢のカリフォルニア」が流れていた。
 彼女の友人であるサビーヌのノルマンディーにある別荘へも、十人ぐらいで泊まりがけで行ったりもした。
 何者とも知らない東洋の男を、みんな笑顔で迎えてくれた。彼らは、よく食べ、よく飲み、よく喋った。

 私は、ポールのおかげで、あの当時のパリの若者の風景に紛れ込むことができた。それは、ミケランジェロ・アントニオーニの映画『女ともだち』のような情景だった。パリでの短い日々は夢のように過ぎていった。酔っていたのはワインにばかりではない。私はパリに酔っていた。
 あのとき集まっていたのはみんな独身でおそらく20代だったが、今はそれ相応の年配の人たちの集まりだ。当時はパリのアパルトマンが舞台だったが、今はカンパーニュの館だ。
 あのノルマンディーの別荘のあったところは、モン・サン・ミッセルの近くのディアンあたりと分かった。別荘の持ち主の娘サビーヌは、カナダ人のカンと結婚してベルサイユに住んでいると言う。人生は分からない。

 私はワインのグラスを傾けながら、27年前の自分と現在を行き来していた。時が流れ、人も風景も変わっていく。
 ポールが私に言った。「もう若くはない」と。私は、黙っていた。
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2. 青春の街、パリ

2005-08-15 02:16:15 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年9月25日>パリ
 成田発10時25分発KLMオランダ航空機は、現地時間16時35分にアムステルダムに着き、すぐのトランジットで18時05分にパリに着いた。日本との時差は8時間である。
 1974年の初めてのパリへの旅からフランスは3度目であるが、2度目の90年のフランス訪問は仕事の取材旅行だったため、自由な一人での本当の旅は2度目である。

 機内は、予想通り半数以上が空席であった。全世界がアメリカ同時多発テロの影響で神経質になっていた。機内に黒いベールを覆ったイスラム系の女性がいたが、それを見ただけで精神的に身構えるほどであった。アメリカ軍の報復とテロの応酬で、今後どこでテロが起きるか分からない、ヨーロッパも標的にされるという噂が飛び回っていた。しかし、一方でアメリカ主導のグローバリゼーションへの懐疑を唱える考えも起きていた。
 シャルル・ドゴール空港は、銃を持った軍隊が警戒していた。私は、空港から電車に乗ってパリ北駅で降りた。パリ北駅でも、軍隊は目を光らせていた。駅近くの何の変哲もないホテルで、私は疲れきっていたのですぐにシャワーを浴びて泥のように眠った。

<9月26日>パリ
 目を覚まし、窓の外を見ると灰色のビルの壁が立ちふさがっていた。ビルから顔を出し見上げると、やっと四角い天窓のように空が見えた。空も灰色で、そこから霧のように小雨が降っている。例えみすぼらしくとも旅人をたぶらかすようなパリが持つ華の香りを少しも感じさせないホテルを出て、私はコンコルドに向かった。

 27年前、パリへ着いた夜、真っ先に向かったのがシャンゼリゼ通りだった。その後も、夜になるとしばしば訳もなくシャンゼリゼ通りに行き、通りを歩いた。ある時はそこで一人でコーヒーを飲んだし、ある時はパリで知り合った人とグラスを傾けた。
 シャンゼリゼ通りから脇に入った通りで昼食をとり、マドレーヌからサンジェルマン・デ・プレに行った。やはりパリに来ると、カルティエ・ラタンに足が向く。
 オデオンからパリ大学の間を通るエコール・ド・メディシン通りを歩いていると、眠っていた記憶が急に目を覚ました。この裏通りの感覚は、27年前の臭いだった。この通りに、私が泊まったホテルがあるはずだった。パリ大学を抜けて少し細くなった通りの左手にサン・ピエール・ホテルという文字が目に入った。隣は映画館だったのが今は雑貨屋になっていたが、間違いなかった。
 私は、何の躊躇いもなくこの日ここに泊まるために扉を開いた。改築したのだろうか、それとも記憶違いだろうか、前よりこぎれいなホテルになっていた。一階には受付があり、映画『去年マリエンバッドで』に出てきた決してカード・ゲームに負けない鷹の目のような男が座っていて、パソコンで空き部屋を対応した。料金もバックパッカーが泊まる安ホテルというのではなかった。一流企業ではないビジネスマンが泊まる、ほどほどのホテルといった料金設定である。1階の窓際にはテーブルが二つあって、コーヒーも飲めるようだ。
 部屋に荷物を置いて、街を歩いた。かつての東京のお茶の水と新宿を併せ持ったような雰囲気のこの街は、私を落ち着かせる。若者が多い学生食堂のような中華料理屋で夕食をとった。サン・ミッセル大通りを抜けて、夜の暗闇に光浮かぶシテ島のノートルダム寺院からポン・ヌフへと歩いた。ポン・ヌフでは若いカップルが肩を寄せていた。

 私は、青春の足跡をなぞり、若かりし頃を想った。
 20代の若者には、人生はこれからどうにでもなるし、若さは終わることはないように思えた。あのとき、私にきらきらと輝いていたパリは、おそらく若さが持つ、未だ吉凶定かならぬ将来への無定見で傲慢な夢に彩られていたのであろう。
 パリは、私が年をとった分少しよそよそしくなっていた。しかし、変わらずパリは蠱惑的であった。

  流れる水のように恋も死んでいく
  命ばかりが長く 希望ばかりが大きい
  日も暮れよ 鐘も鳴れ
  月日は流れ わたしは残る  
      ギョーム・アポリネールの「ミラボー橋」(堀口大学訳)
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1. 身も心も

2005-08-13 15:45:06 | * フランス、イタリアへの旅
 ブログをやろうと思いたって、はや幾月日。
 女もすなるブログというものを、ましてやもう若くはない男もしてみむなり……ということで、「海外旅日記」なる旅の思いを綴っていこうと思う。

 人生の道は、誰でもそうであるように一本道ではない。ある時には二股に分かれていたり、行き止まりになっていると感じたり、立ち止まざるを得ない時がある。それでも、人は自らすすんで、あるいは否応なく、いずれかの道を選んで歩かなければならない。それが、幸せだったのか不幸せだったのかは誰にも分からない。幸せの基準や尺度などどこにもないからだ。それを口にするものは、どこかで何かと比較しているか、そう思うことにより精神的安寧を願っているにすぎない。そういう意味では、幸せはどこにでも転がっている代物だともいえる。

 私は1994年、幸か不幸かずっと勤めていた出版社を辞めた。辞める選択肢しか残っていなかった。ずっと思ってきたことだったが、その一歩を踏み出せないでいたのだ。
 元々独り身だった私は、身も心も自由になった。その時すでに40代の後半という年齢が、まだ若いのかもう年なのかは知らない。しかし、独り身という気楽さもあって、私は手に入れた自由に喜んで身をまかせた。
 しかし、手に入れた自由というものは、それを手なずけるには手に負えるものとは言い難いものだった。私の扱いは恐らくぎこちなかったに違いない。捕まえたり手放したりを繰り返していた。心ならずとも手にした念願の自由というフリーの立場は、恋に似て、まるで「籠の鳥」のようなものであった。
 
 1995年、フリーになったけじめと思い、9月から10月にかけて1か月に渡り一人スペインとポルトガルを旅した。その記録は、別に記すことにしたい。

 スペイン・ポルトガルの旅から帰ったあと、私はフリーランスとして様々な出版編集に携わった。友人のプロダクションから頼まれた原稿整理、翻訳ロマンス小説の校閲、文芸誌の新人賞の下読み、雑誌の取材や自費出版の代行執筆、などなど。
 その中でも最も深く関わってきたのは麻布出版である。この小さな出版社は『今売れている住宅』という季刊誌を出しているに過ぎないのだが、30余年の歴史を持っていた。私は編集長としてこの雑誌を1996年末に任された。この雑誌は典型的なタイアップ記事で成りたっていて、いかに住宅会社から取材広告を取るかが雑誌存続の命運を握っていた。私も編集以外に営業のため住宅会社をまわったりした。『ザ・ハウス』と誌名を変え内容は充実をみたが、日本経済の冷え込みと同時に住宅会社の宣伝広告費縮小もあって、次第に広告収入が集まらなくなり経営が苦しくなっていった。
 さらに経営交代劇に私も巻き込まれ、いや正確には私も登場人物になったりして、会社は迷走し自滅への道をたどった。しかし、この間、今までにない貴重で特異な体験をし、多くの個性的な人間と出会った。
 
 2000年の末にこの会社から手を引いた私は、再び完全にフリーの立場に戻った。こういうときに旅心が頭をもたげるものだ。2001年9月、私はヨーロッパに旅立つことにした。行き先は、フランス、イタリアと決めた。
 
 20代の私は、パリに憧れていた。そして1974年、私はパリへ旅した。初めての海外への旅だった。初めての旅は、初めての恋に似ている。甘酸っぱく衝撃的で、決して忘れることはない。
 今回の旅の目的の一つは、そのときにパリに住んでいたポール・ヴィアルフォンに会うことである。彼女とは、その前年私が実家の佐賀に帰っていた冬、焼き物の街有田で一度顔をあわしたにすぎない。彼女は、そんな見ず知らずに等しい東洋の旅人に、その後の生き方に影響を与えたとも思われる体験をパリでさせてくれた。
 出版社に勤めたものの、その当時の私は恋にも仕事にも閉塞感に陥っていた。しかし、このパリへの旅で息を吹き返したと言っていい。
 現在、ポールはすでに彫刻家と結婚してパリを離れ、フランス中部の田舎に住んでいる。会うとすると実に27年ぶりである。

 ポールを訪ねたあとは、その足でフランス南部を周り、イタリアへ行こうと思った。もう一つの目的は、イタリアを見ることだった。イタリアの魅力は知っているが、今までなぜか行かなかった。私が偏向的にフランスが好きなことと、名所旧跡などを巡るだけの旅に興味を持てなかったのもその理由だった。しかし、ラテン系であるイタリア人もイタリアの街も魅力的であることに疑う余地はない。
 
 2001年9月11日、私は近くの安売りチケットで有名な旅行会社で、パリまでの往復の航空券と1か月のユーレイルパスを買った。出発は9月25日で帰国は10月26日とした。航空会社はKLMオランダ航空なので、アムステルダム経由ということになる。
 その日、少し飲んで家に帰ってテレビをつけると、アメリカの世界貿易センタービルに飛行機が激突している映像が何度も流された。私は、まるで映画のようなあまりに劇的な映像に、大変なことが起こったと思った。アメリカに対する同時多発テロであることが分かり、世界中に衝撃が走った翌12日、私は旅行会社に電話を入れてみた。アメリカへの入国は厳しくなり旅行はキャンセルが相次ぎ、ヨーロッパ諸国へもその影響があると言った。アメリカの報復も予想され、世界は混迷状態に入る予感がした。実際、ヨーロッパ諸国にも緊張が走った。私はツアーなどの旅行客が少なくなって、かえっていい機会だと思い、旅立った。
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