かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

3. 再会

2005-08-16 02:18:50 | * フランス、イタリアへの旅
<2001年9月27日>サン・セレ
 フランス中部の田舎にあるというポールの家に行くためオーステルリッツ駅に行ったら、ここでも迷彩色の兵服に銃を持った兵隊が警戒していた。やはり主要駅は警戒態勢がしかれている。
 パリのオーステルリッツ駅を10時11分発の南西に向かうトゥールーズ行きの急行列車に乗ると、途中フランス中部にあるブリーブ駅に14時19分に着く。そこで降りて14時29分発の支線に乗り換えるとブレト・ノー・ビアルス駅に15時14分に着く。そこで、ポールが待っている予定だった。
 パリを離れた列車は、南に走った。田園風景が続き、フランスが農業国でもあることが分かる。ブリーブ駅から山間を抜けたところのブレト・ノー・ビアルス駅は小さな駅だったが、数人が降りた。
 列車を降りてホームを見渡すと、一人の女性が立っているのが見えた。その女性はこちらに歩き出した。私は、その人がポールであることがすぐに分かった。少し細くなり目尻にしわがある中年の婦人だが、変わらないポールがいた。27年ぶりの再会に私たちは抱きあった。

 ポールの家は駅から車で30分ほど走った丘の上にあった。遠くから見ると小さなシャトーのようだ。車道からくびれるように入り込んだ丘の小道を蛇行しながら車は登っていった。登りきったところに、石造りで、閂の門を持った古い館があった。200年前に建てられたと言ったが、「白雪姫」のようなお伽噺に出てくる建物のようだ。
 なだらかな丘は庭を兼ねているように、花が咲き、ところどころ南瓜が色をつけていた。ポールの長男が飼っているという馬がいなないた。建物の脇には小さなプールもある。
 丘の下に街が小さく見えた。陽が沈みかけ、山や街の景色を茜色に染めた。
ポールの夫、ジャック・ド・ヴェルダル氏は、芸術家らしく気さくな人であった。おどけたときのアインシュタインにそっくりだ。建物から離れた庭に彫刻をするスタジオがあり、庭には石造の作品が並んでいた。
 ポールには4人の子どもがいる。長男は近くの牧場で働いていて、次男は近くの街で働いているということだった。3男は家にいて、いま進路を考えているところだということだった。彼は繊細な感情の持ち主で、どのような道だか分からないがアーチストになるだろうとポールが語った。4男は学生で、トゥールーズ市で下宿しているらしい。

 その夜、ポールの家に友人たちがやってきた。ポール夫妻のほか3組のカップルが集まって食事をした。当然ワインが出てくるので、宴会のようなものだ。
クロード・モネのような髭をたくわえたグレゴールと妻のカルタイ。グレゴールは、ヴァイオリニストで、セラピストで、レストラン経営者と紹介された。画家であるヘリアスとアン夫妻はいかにもアンバランスなカップルだ。ヘリアスは、機知に富んだお喋りな人で、頭の髪が薄くアーサー・ペンを思わせた。アンは、年齢不詳の派手な顔立ちで、「ハリウッド」というあだ名の由来は、「チャーリーズ・エンゼルス」のファラ・フォーセットによく似ていることからか。脚が自慢なのだろう、ミニスカートから長い脚をこれ見よがしにのばしている。私の「あなたは、あの人(ヘリアス)の奥さんですよね」という問いに、「しかし、私は自由よ」と笑った。どういう意味だろうと私は考えてしまった。ほかの男とも寝るわよという意味なのだろうか、だとすると女性は恐ろしい。年齢も離れているようだし、不思議な夫婦だ。もう一組のカップルのマルコとクロウド・ヴァロチは新婚だ。マルコはイタリア人で、若いころの藤田嗣治のように鼻髭をたくわえている。
 彼らはよく食べ、よく飲み、よく喋った。フランス人はよく喋る。いや、会話をすることが好きだ。

 思えば、27年前もそうだった。そのとき私は、ただ憧れだけを抱いて一人パリに来た。初めての海外旅行だった。3週間の旅行日程のうち2週間をパリで過ごすと決めていた。
 そのとき、一度日本で会っただけの私を、ポールはまるで古くからの友人のように接して、パリの街にとけ込ましてくれた。それどころか、サン・ミッセルのホテルに泊まっていた私に「ホテル代がもったいないから」と、当時彼女が母と住んでいたパリのシェルシュ・ミディにあるアパルトマンに私の荷物を移し泊めてくれた。
 私は、しばしばポールに誘われて、彼女の仲間たちの集まるプライベート・パーティに顔を出すことになった。当時太っちょのカナダ人のカンのアパルトマンでも何人かが集まった。そこでは、串刺しにした肉を熱くした油の中に突っこみ日本の焼き鳥のようにして食べ、ワインを飲み、ポンピドゥー後の大統領選挙を争っていたジスカール・デスタンとミッテランについてみんな口角泡を飛ばしていた。パパス・アンド・ママスの「夢のカリフォルニア」が流れていた。
 彼女の友人であるサビーヌのノルマンディーにある別荘へも、十人ぐらいで泊まりがけで行ったりもした。
 何者とも知らない東洋の男を、みんな笑顔で迎えてくれた。彼らは、よく食べ、よく飲み、よく喋った。

 私は、ポールのおかげで、あの当時のパリの若者の風景に紛れ込むことができた。それは、ミケランジェロ・アントニオーニの映画『女ともだち』のような情景だった。パリでの短い日々は夢のように過ぎていった。酔っていたのはワインにばかりではない。私はパリに酔っていた。
 あのとき集まっていたのはみんな独身でおそらく20代だったが、今はそれ相応の年配の人たちの集まりだ。当時はパリのアパルトマンが舞台だったが、今はカンパーニュの館だ。
 あのノルマンディーの別荘のあったところは、モン・サン・ミッセルの近くのディアンあたりと分かった。別荘の持ち主の娘サビーヌは、カナダ人のカンと結婚してベルサイユに住んでいると言う。人生は分からない。

 私はワインのグラスを傾けながら、27年前の自分と現在を行き来していた。時が流れ、人も風景も変わっていく。
 ポールが私に言った。「もう若くはない」と。私は、黙っていた。
コメント (1)
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