かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

東京でフラメンコ

2006-07-26 19:36:27 | 歌/音楽
 もう7月も終わろうとしているのに、梅雨のような鬱陶しい日々が続いた。身も心も暗鬱だ。
 そんな時、「いま、日本に来ています。時間があったら、会いませんか」という1通のメールが届いた。日にちの余裕はなかった。早速、僕たちは新宿で待ち合わせて、彼女の要望であるフラメンコを見に行った。
 
 彼女と偶然知り合ったのは、1995年の秋、僕が会社を辞めたあとスペイン・ポルトガルへの旅に出かけたマドリッドの空港でだった。その時、僕は1か月をかけてマドリッドからアンダルシア地方を周って、その足でポルトガルに向かうのが大まかな旅の予定だった。
 彼女はナースで、趣味でフラメンコをやっているので一人スペインへ勉強に来たと言った。その時は、すぐに空港で別れた。
 知らない国への一人旅の初日は、いつも不安がつきまとう。まず泊まるところと食うことの心配があるのだが、その時はマドリッド在住の友人が迎えに来てくれていたので、その苦労を背負うことはなかった。
 友人の車で空港を出ようとしたとき、彼女が空港のバス停の前でスペインへ来た喜びを体いっぱいに表して、一人目を輝かしていた。僕は、自分が楽をして車に乗っていることに、強い後ろめたさを感じた。そして、彼女に対してすまないという気持ちになり、彼女が僕に気づかないようにと車の窓から顔をそらした。
 一人旅の着いた日の不安と苦労はよく知っているので、それをおくびにも感じさせない彼女を好ましく思った。

 人生は不思議なものである、そして自分の意志でどのようにでも変えられる、と彼女を見ていて改めて思う。
 次の年、マドリッドにいるという連絡が彼女からあった。短期だがフラメンコの教室に通っていると言った。それから、しばしばマドリッドやセビージャのフラメンコの教室に通うためスペインへ行っていた。そうかと思うと、メキシコにいた時もあった。日本にいる時は、せっせとナースの仕事をして資金を稼いでいた。
 いま、結婚してコペンハーゲンの郊外に住んでいて、お母さんの様態が思わしくないので日本に帰ってきているのだった。驚いたことに、日本に長期に帰ってきている間は、契約派遣の形で今でもナースの仕事をしているのだった。明後日には、デンマークに帰るという。
 
 僕たちが行った店は、新宿の「エル・フラメンコ」。本場スペインのフラメンコ・ショーとスペイン料理を供するタブラオだ。オープンしてもう40年になる。その間、数々の本場のダンサーを招聘してきた。
 彼女のお目当ては、いまこの店で公演をしているドミンゴ・オルテガ。「彼は、スペインでも有名で、プロが習いに来ているぐらいなの」と言った。
 僕は、やはり女性のダンサーに目がいった。3人が踊ったが、誰もが素晴らしく躍動的だった。誘惑に充ちたしなやかな身体が舞台で跳ねまわった。哀しみを含んだギターの音と歌と掛け声が、激しく舞台に響いた。
 やはり、本場のダンサーは素晴らしい。

 1995年、僕はマドリッドで友人と別れてバルセロナへ行き、そこから一気にコルドバへ行った。
 コルドバに着いた時は、すでに日も暮れかかっていた。慌ててホテルを探して、タブラオへ行き、フラメンコを見た。それが、僕の初めての本場のフラメンコ体験だった。
 コルドバの次に、グラナダへ向かった。この街を僕は気に入り、ぐずぐずとそこで3日を過ごした。
 そこで、アフランブラ宮殿に対峙するかのように広がるサクラモンテの丘の洞窟で行われているジプシー(ロマ)のフラメンコを見に行った。こちらは、観光客用にすっかりショー化していた。しかし、ジプシーの妖しくも深遠な雰囲気は十分に漂わせていて、味わうことができた。

 フラメンコのダンスは、燃え尽きるような儚さに充たされている。それにとりつかれた人の人生も、羨ましいぐらいにおそらく燃えている。
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