かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

長崎・島原半島の旅② 普賢岳の傷痕

2016-03-17 02:11:10 | * 四国~九州への旅
 3月2日、空は晴れ渡った。
 青い空に普賢岳が聳え、その頂の下に白い雲が浮かんでいる。

 普賢岳といえば、思い出すことがある。
 1990年、当時僕は出版社で婦人雑誌の編集をやっていた。11月19日から21日にかけてカメラマンとともに長崎に取材に行った。当時、栃木の女峰を抜いて人気急上昇だったイチゴの「とよのか」を取材した。
 そのとき現地の農協関係の人が南有馬町(現南島原市)のイチゴの産地を案内した後、車で普賢岳を登り始めた。そして中腹で止めて、ここから先は行けませんけど、ここが先日噴火したところです、と説明した。僕等がいた先には、山肌から白い煙が出ていた。
 僕らが長崎に来る直前、普賢岳で噴火が起こり、白い煙が出る山の姿がテレビで報道されたばかりだった。日本では火山の噴火はそう珍しいことではないので、僕らは、ここが先日噴火した普賢岳かと思う程度で、世間もそのときは、桜島や阿蘇中岳の噴火のように、長崎の山が噴火したといった感覚だった。誰もその後の大惨禍など予想だにしていなかった。
 僕らが東京に戻ったあとの翌1991年になっても、普賢岳の活動は小刻みに続いた。それが4月ごろから噴火は拡大し、5月には火山灰による土石流が発生し、警戒と注目を集めた。そして6月3日の、火砕流による死者43名の大惨事となった。多くの報道関係者やフランス人の世界的な火山学者もこの惨事に巻き込まれた。
 僕らは、あの時の普賢岳が、とカメラマンとともに思いもしなかった惨状に驚きあった。

 *

 この日、普賢岳は静かにたっていた。
 島原市の道の駅「みずなし本陣ふかえ」に行った。ここは、土石流被災家屋保存公園が併設されていた。
 公園の方を見ると、瓦の屋根や2階部分の窓あたりまでの家屋が見える。何だろうと近づいてみると、それは土に埋もれたいくつかの家屋だった。
 僕は、それらがあの普賢岳の噴火による土石流に飲み込まれた家屋だと初めて知り、その脅威に息を飲んだ。
 屋根だけが外に出て、残りは土中に埋もれたものもあり、そのままの形で保存されていたのだ。(写真)

 島原市をあとに海岸線を南に下りていくと南島原市に入る。
 海岸の防風林のなかに切支丹墓碑が眠っていた。蒲鉾型の墓碑である。
 さらに南に行くと、原城跡に出る
 島原・天草の乱の舞台となったところで、華麗な天守閣が聳える島原城と違って原城は、今はわずかな石垣が残るのみの廃墟の城跡である。
 広い畑のなかを迂回しながらたどり着いた城跡の頂には、白い十字架の塔と天草四郎の銅像が静かに建っていた。かつて橋幸夫が「南海の美少年」という天草四郎の歌を歌ったことがあった。

 さらに島原半島の先端の口之津を周り、加津佐を過ぎ、北上し小浜温泉に着いた。
 ここには、約100メートルの日本一長い足湯があるので、まずは足湯に浸かる。何でも日本一というだけで話題になるというものだ。
 千々石から愛野を通り、諫早に入った。こうして、島原半島を一周したことになる。

 *

 諫早を抜け、佐賀に入った先は多良岳である。
 多良岳の麓を走っていると、「岳の新太郎さん」の歌をつい口ずさんでしまう。
 「岳の新太郎さんの下らす道にゃ、ざんざ、ざんざ、
 金(かね)の千燈籠ないとん、明かれかし、
 いろしゃ(色者)のすいしゃ(粋者)で気はざんざ
 あら、よーいよいよい、よーいよいよい……」
 この地方の民謡で、多良岳の寺僧の色男に憧れた村娘たちの心情を歌った、囃し言葉に「ざんざ」が入るので「ざんざ節」とも呼ばれている歌である。
 むかし多良岳にある金泉寺に、新太郎といふ美青年の修験僧がいた。麓の娘たちは何かと彼の気をひこうと思ったが、山は女人禁制なので近づくことができない。新太郎は時おり里に降りて来ることがあり、そのときはたくさんの燈籠をあかあかとつけて迎え、彼が山へ戻るときは、山道に水を撒いて、道が滑って戻れなくなればいいと、娘たちの心情を歌ったものだ。
 地味で内気な佐賀のもんにしては、粋な民謡らしからぬ歌ではないか。

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