「冠婚葬祭」のなかで、歳を重ねるにしたがって、「葬」と「祭」ばかりが多くなってくる。
葬はもちろん葬式だが、祭はいわゆるお祭りではなく一周忌や三回忌などの法事である。成人式の「冠」は、遠い昔のことで再びくることもなく、結婚式の「婚」も自分のことはさておいて、最も近い結婚式に出席したのはいつのことだったっけと思いを巡らせるぐらい前のことだ。
と思っていたら、甥の結婚式の招待状が届いた。鹿児島で行うというので、佐賀に帰り、鹿児島に行く前に長崎の島原半島を旅した。
*
3月1日は、前日の真冬のような冷たい雨はやんで空は晴れていたが、外は冷たさが残っていた。最近の気温は高低差が激しく、なかなかすんなりと春の気候にならない。
友人の車で、佐賀県嬉野市から太良地方を通り、有明海の沿岸に入った。この辺は、竹崎カニや牡蠣で有名なところだ。
佐賀から長崎の諫早に入ったところで、ギロチンという綽名で悪名をなした諫早湾潮受け堤防が見えてくる。この堤防はとおに裁判の判決が出たにもかかわらず、開門するしないをまだ国が判断できずに放任されている。
堤防は、近くで見ると意外に長いのがわかる。この堤防道路を渡って島原半島の端に行くつもりだったが、交通止めとなっていたので、湾をぐるりと周って雲仙市の島原半島に入った。
雲仙市とは、例の平成大合併の際、国見町、吾妻町、小浜町などの合併でできた名である。数多くの町があった島原半島は、この雲仙市と島原市、南島原市の3つに統合された。
有明海の湾に沿った町の雲仙市国見町の神代(こうじろ)は、佐賀鍋島藩の飛び地であった。ここに、鍋島邸とかつての武家屋敷の景観が残っているので行ってみた。
長い門に続く石垣の奥にある鍋島邸の趣のある主屋は、江戸幕末期に建てられた国の重要文化財である。邸の正面は唐破風の屋根が優雅で、その奥には書院造りの建築が続いている。
邸内に咲く桃色の緋寒桜はこれから満開を迎えんとしていた。(写真)さらに、広大な裏庭には木々が繁る。
この鍋島邸の周りは神代小路といって、古い家並みが並んで風情のある一角となっている。
この小路の端に、歴史資料館の国見展示館がある。ここには、時代を超えてこの地域の様々な資料が集められている。特に、昭和の時代の懐かしい生活道具や電気機器、タバコといったものまで展示してあり、見ていて飽きない。
有明海沿岸を通って島原市に向かっていると、内陸部に尖った山の連なりが顔を出す。眉山と書いて、「まゆやま」と読む。中国にこの名「びざん」の地方があったと思った。
眉山の奥にあの大噴火した普賢岳が見える。今は、何事もなかったかのように聳えている。
島原半島を南下すると島原市の街中に入り、島原城が見えてきた。
城は、江戸時代、有馬に代わって統治した松倉重政によって築かれ、昭和の戦後に復元されたものである。城壁に囲まれた5層の白い天守閣を据える本丸は、禄高4万石とは思えないほど壮大で優雅である。天守の上階に上ると、島原の街が一望でき、西には普賢岳が、東には有明海の彼方の熊本が見える。
島原市の街中は長いアーケードが続き、昭和の雰囲気が色濃く残っていて、懐かしさを感じさせる。
また、島原は湧水が豊富な街でもある。街中にある庭園の「四明荘」は、邸の中に入り庭を眺める縁に行くと、庭の池が望め、その水は縁の下までも湛えている。それは、まるで水の上に建てられた屋敷のような気持になるのだった。
島原半島には、雲仙、小浜、島原温泉と温泉の宝庫である。この日は有明海の海が臨める島原港近くの島原温泉の宿に泊まった。
なぜか和風の宿の庭には椿や山茶花ではなく、南国を思わせるヤシの木がそびえている。
そういえば、四国や九州の海辺の街、特に太平洋岸の街では、いたるところでヤシの木が目についた。潮風とヤシの木は似合うからいい。
葬はもちろん葬式だが、祭はいわゆるお祭りではなく一周忌や三回忌などの法事である。成人式の「冠」は、遠い昔のことで再びくることもなく、結婚式の「婚」も自分のことはさておいて、最も近い結婚式に出席したのはいつのことだったっけと思いを巡らせるぐらい前のことだ。
と思っていたら、甥の結婚式の招待状が届いた。鹿児島で行うというので、佐賀に帰り、鹿児島に行く前に長崎の島原半島を旅した。
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3月1日は、前日の真冬のような冷たい雨はやんで空は晴れていたが、外は冷たさが残っていた。最近の気温は高低差が激しく、なかなかすんなりと春の気候にならない。
友人の車で、佐賀県嬉野市から太良地方を通り、有明海の沿岸に入った。この辺は、竹崎カニや牡蠣で有名なところだ。
佐賀から長崎の諫早に入ったところで、ギロチンという綽名で悪名をなした諫早湾潮受け堤防が見えてくる。この堤防はとおに裁判の判決が出たにもかかわらず、開門するしないをまだ国が判断できずに放任されている。
堤防は、近くで見ると意外に長いのがわかる。この堤防道路を渡って島原半島の端に行くつもりだったが、交通止めとなっていたので、湾をぐるりと周って雲仙市の島原半島に入った。
雲仙市とは、例の平成大合併の際、国見町、吾妻町、小浜町などの合併でできた名である。数多くの町があった島原半島は、この雲仙市と島原市、南島原市の3つに統合された。
有明海の湾に沿った町の雲仙市国見町の神代(こうじろ)は、佐賀鍋島藩の飛び地であった。ここに、鍋島邸とかつての武家屋敷の景観が残っているので行ってみた。
長い門に続く石垣の奥にある鍋島邸の趣のある主屋は、江戸幕末期に建てられた国の重要文化財である。邸の正面は唐破風の屋根が優雅で、その奥には書院造りの建築が続いている。
邸内に咲く桃色の緋寒桜はこれから満開を迎えんとしていた。(写真)さらに、広大な裏庭には木々が繁る。
この鍋島邸の周りは神代小路といって、古い家並みが並んで風情のある一角となっている。
この小路の端に、歴史資料館の国見展示館がある。ここには、時代を超えてこの地域の様々な資料が集められている。特に、昭和の時代の懐かしい生活道具や電気機器、タバコといったものまで展示してあり、見ていて飽きない。
有明海沿岸を通って島原市に向かっていると、内陸部に尖った山の連なりが顔を出す。眉山と書いて、「まゆやま」と読む。中国にこの名「びざん」の地方があったと思った。
眉山の奥にあの大噴火した普賢岳が見える。今は、何事もなかったかのように聳えている。
島原半島を南下すると島原市の街中に入り、島原城が見えてきた。
城は、江戸時代、有馬に代わって統治した松倉重政によって築かれ、昭和の戦後に復元されたものである。城壁に囲まれた5層の白い天守閣を据える本丸は、禄高4万石とは思えないほど壮大で優雅である。天守の上階に上ると、島原の街が一望でき、西には普賢岳が、東には有明海の彼方の熊本が見える。
島原市の街中は長いアーケードが続き、昭和の雰囲気が色濃く残っていて、懐かしさを感じさせる。
また、島原は湧水が豊富な街でもある。街中にある庭園の「四明荘」は、邸の中に入り庭を眺める縁に行くと、庭の池が望め、その水は縁の下までも湛えている。それは、まるで水の上に建てられた屋敷のような気持になるのだった。
島原半島には、雲仙、小浜、島原温泉と温泉の宝庫である。この日は有明海の海が臨める島原港近くの島原温泉の宿に泊まった。
なぜか和風の宿の庭には椿や山茶花ではなく、南国を思わせるヤシの木がそびえている。
そういえば、四国や九州の海辺の街、特に太平洋岸の街では、いたるところでヤシの木が目についた。潮風とヤシの木は似合うからいい。
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