映画「にごりえ」(監督:今井正、1953年)は、明治の女流作家、樋口一葉原作の「十三夜」「大つごもり」「にごりえ」による3作のオムニバスである。
樋口一葉は、現在の五千円札の肖像の人といえば、イメージがわくだろう。彼女は、日本銀行券として初の女性肖像になった人である。ちなみに、明治時代の政府紙幣としては、古墳時代の神功皇后がある。
僕は小学・中学生の頃、切手少年だったので憶えているのだが、戦後「文化人シリーズ」なる切手があった。野口英世、福沢諭吉、夏目漱石など18人の文化人なかで、唯一樋口一葉だけ女性として選ばれていたほどだから、文化人として実力も人気もあったのだ。
樋口一葉は前記3作のほか、「たけくらべ」という優れた小説を書いて、才能に恵まれて将来を嘱望されていたが、貧困のなか24歳の若さで亡くなった。
「十三夜」は、別の人生を歩いた幼馴染の思わぬ邂逅を描いたもの。
思い悩んだ末離婚を決意し実家に帰った女(丹阿弥谷津子)が、父親に言い含められてまた家に戻るとき呼んだ人力車の車引きの男(芥川比呂志)が、幼馴染の男だった。男はその女に恋していたが、女が別の男と結婚したのを期に、身を持ち崩して今日に至ったのだった。
車引きの役の芥川比呂志は、芥川龍之介の長男。やはり、有島武郎の長男である森雅之(「羅生門」など)と同じく、文学的な顔をしている。
「おおつごもり」は、誰にでも起こりうる一瞬の心の迷いを巧みに描いたもの。
家が貧しく富豪の家に奉公に出ている娘(久我美子)が、病気で苦しんでいる貧しい伯父から大晦日までに金をどうにかならないかと頼まれる。気のいい娘は承知し、奉公先のおかみさんに前借を頼むが、うまくいかない。
公家華族出身の久我美子は、「また逢う日まで」(監督:今井正、1950年)のガラス窓越しのキスシーンがあまりにも有名だが、清楚な顔立ちも相まって戦後の人気女優であった。品のよいお嬢様の奉公娘は似合わないが、活きいきとしている。
奉公先のドラ息子役に若き仲谷昇が出ている。
「にごりえ」は、酌婦と男の恋の哀楽を描いたもの。
銘酒屋の酌婦で、美人で売れっ子のお力(淡島千景)が、粋で男前で気風のいい男、朝之助(山村聰)を一目で好きになる。しかし、女には過去に昵懇になった別の男源七(宮口精二)がいた。その源七は今では落ちぶれて、すっかり身を持ち崩していて、家では内職する妻(杉村春子)の愚痴を聞くばかりの鬱々とした日々を送っていた。
銘酒屋とは、銘酒を売るという看板で、酒と料理を出すが、その実、裏口や2階で客の酒の相手をしながら、売春を行っていたところである。この映画でも、お力のいる店は、“お料理「菊乃井」”という看板を掲げていた。
作者樋口一葉は、銘酒屋(酌婦)街で暮らし、近所の酌婦の手紙の代筆を行ったりした経験が小説の材となった。
映画では、蓮っ葉な女ながら色っぽい酌婦役の淡島千景がいい。森繁久彌との共演「夫婦善哉」や「駅前シリーズ」など、何本も彼女の映画は見てはいるが、こんないい女だったのかと、再認識させられた。
お力が好きになったキャラクターが違う2人の男、山村聰、宮口精二は、渋い男優だ。
銘酒屋の店にやって来た、粋な朝之助の科白(せりふ)がいい。
女たちが、身分を明かさない男に、仕事は何かと訊くと、男は悠々と答える。
「道楽業だ。妻なく、職業もなく、もっぱら色恋の修業を志す」
一葉は、この部分をこう書いている。
「客は結城朝之助とて、自ら道楽者とは名のれども実体(じってい=正直)なるところ折々に見えて、身は無職業妻子なし、遊ぶに屈竟(屈強)なる年頃なれば…」
遊ぶのに屈強な年頃があるのか。朝之助を、年の頃三十男とあるから、昔も30歳ぐらいが遊び頃だったのだ。
いや、そうともいいきれまい。確かに30歳は人生の盛りだが、年をとっても遊びに屈強な人もいた。あえて(自己弁護も含めて)言えば、年をとってからこそ、本当の遊びの神髄がわかるのかもしれない。
永井荷風は、「墨東奇譚」にあるように、この「にごりえ」のように、向島の玉の井の銘酒屋に通ったし、老いて倒れるまで、作家でかつ、いわゆる「道楽業」を通した。
かつての作家には、遊びに屈強な人が多かった。いや、遊びに屈強な人が作家になったような気がする。
樋口一葉は、現在の五千円札の肖像の人といえば、イメージがわくだろう。彼女は、日本銀行券として初の女性肖像になった人である。ちなみに、明治時代の政府紙幣としては、古墳時代の神功皇后がある。
僕は小学・中学生の頃、切手少年だったので憶えているのだが、戦後「文化人シリーズ」なる切手があった。野口英世、福沢諭吉、夏目漱石など18人の文化人なかで、唯一樋口一葉だけ女性として選ばれていたほどだから、文化人として実力も人気もあったのだ。
樋口一葉は前記3作のほか、「たけくらべ」という優れた小説を書いて、才能に恵まれて将来を嘱望されていたが、貧困のなか24歳の若さで亡くなった。
「十三夜」は、別の人生を歩いた幼馴染の思わぬ邂逅を描いたもの。
思い悩んだ末離婚を決意し実家に帰った女(丹阿弥谷津子)が、父親に言い含められてまた家に戻るとき呼んだ人力車の車引きの男(芥川比呂志)が、幼馴染の男だった。男はその女に恋していたが、女が別の男と結婚したのを期に、身を持ち崩して今日に至ったのだった。
車引きの役の芥川比呂志は、芥川龍之介の長男。やはり、有島武郎の長男である森雅之(「羅生門」など)と同じく、文学的な顔をしている。
「おおつごもり」は、誰にでも起こりうる一瞬の心の迷いを巧みに描いたもの。
家が貧しく富豪の家に奉公に出ている娘(久我美子)が、病気で苦しんでいる貧しい伯父から大晦日までに金をどうにかならないかと頼まれる。気のいい娘は承知し、奉公先のおかみさんに前借を頼むが、うまくいかない。
公家華族出身の久我美子は、「また逢う日まで」(監督:今井正、1950年)のガラス窓越しのキスシーンがあまりにも有名だが、清楚な顔立ちも相まって戦後の人気女優であった。品のよいお嬢様の奉公娘は似合わないが、活きいきとしている。
奉公先のドラ息子役に若き仲谷昇が出ている。
「にごりえ」は、酌婦と男の恋の哀楽を描いたもの。
銘酒屋の酌婦で、美人で売れっ子のお力(淡島千景)が、粋で男前で気風のいい男、朝之助(山村聰)を一目で好きになる。しかし、女には過去に昵懇になった別の男源七(宮口精二)がいた。その源七は今では落ちぶれて、すっかり身を持ち崩していて、家では内職する妻(杉村春子)の愚痴を聞くばかりの鬱々とした日々を送っていた。
銘酒屋とは、銘酒を売るという看板で、酒と料理を出すが、その実、裏口や2階で客の酒の相手をしながら、売春を行っていたところである。この映画でも、お力のいる店は、“お料理「菊乃井」”という看板を掲げていた。
作者樋口一葉は、銘酒屋(酌婦)街で暮らし、近所の酌婦の手紙の代筆を行ったりした経験が小説の材となった。
映画では、蓮っ葉な女ながら色っぽい酌婦役の淡島千景がいい。森繁久彌との共演「夫婦善哉」や「駅前シリーズ」など、何本も彼女の映画は見てはいるが、こんないい女だったのかと、再認識させられた。
お力が好きになったキャラクターが違う2人の男、山村聰、宮口精二は、渋い男優だ。
銘酒屋の店にやって来た、粋な朝之助の科白(せりふ)がいい。
女たちが、身分を明かさない男に、仕事は何かと訊くと、男は悠々と答える。
「道楽業だ。妻なく、職業もなく、もっぱら色恋の修業を志す」
一葉は、この部分をこう書いている。
「客は結城朝之助とて、自ら道楽者とは名のれども実体(じってい=正直)なるところ折々に見えて、身は無職業妻子なし、遊ぶに屈竟(屈強)なる年頃なれば…」
遊ぶのに屈強な年頃があるのか。朝之助を、年の頃三十男とあるから、昔も30歳ぐらいが遊び頃だったのだ。
いや、そうともいいきれまい。確かに30歳は人生の盛りだが、年をとっても遊びに屈強な人もいた。あえて(自己弁護も含めて)言えば、年をとってからこそ、本当の遊びの神髄がわかるのかもしれない。
永井荷風は、「墨東奇譚」にあるように、この「にごりえ」のように、向島の玉の井の銘酒屋に通ったし、老いて倒れるまで、作家でかつ、いわゆる「道楽業」を通した。
かつての作家には、遊びに屈強な人が多かった。いや、遊びに屈強な人が作家になったような気がする。
原作は、子供がお金を取りに来るだけの話ですが、映画はおばさんが夕方もう一度やってくる.
「お前にお金の工面を頼んだのは間違っていた.すまなかった.お金はもういいから」、おばさんはそう言うためにやって来たのだが、お峰は盗んだお金を渡したのだった.
おばさんはお峰にお礼を言った.盗んだお金でお礼を言われたお峰は、悩んで、悩んで.....
原作の最後の部分、青空文庫をお借りします.
お峰が引出したるは唯二枚、殘りは十八あるべき筈を、いかにしけん束のまゝ見えずとて底をかへして振へども甲斐なし、怪しきは落散(おちちり)し紙切れにいつ認めしか受取一通。
(引出しの分も拜借致し候 石之助)
さては放蕩かと人々顏を見合せてお峰が詮議は無かりき、孝の餘徳は我れ知らず石之助の罪に成りしか、いや/\知りて序に冠りし罪かも知れず、さらば石之助はお峰が守り本尊なるべし、後の事しりたや。
映画には、最後の『後の事しりたや』がありません.その代わりに、先に書いたように、おばさんがお金を取りに来る部分が加えられています.