かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

夏の日の小田原

2021-09-21 03:30:27 | * 東京とその周辺の散策
 久しく旅をしていない。
 長引くコロナ禍だからとばかりは言えない。なぜなら、近場の散策もあまり行っていないのだ。ここのところ、住んでいる街からほとんど出ていないのだ。
 このことは自粛という意識は少ないので、怠惰な性格に加えて老化による億劫感情の侵延なのだろう。いい傾向ではない。
 もうずいぶん日にちがたったが、今年では珍しいことなので、近場を散策したことは記しておこう。
 すでに2回目のコロナワクチンを打ち終えたことも安心材料とし、去る7月15日、湘南の士と近場の小田原を散策することにした。
 夏の暑い日々がやってくる直前の、雲の多い日だった。

 *小田原・早川の漁港と白い観音像

 小田原は城のある城下町だということと、蒲鉾が有名な漁港の街でもある。
 まずは港に出て、そこで魚の美味しいものでも食べようと思い地図を見ると、漁港に近いのはJR早川駅である。
 多摩より小田急線にて藤沢駅に出て、そこでJR東海道線普通熱海行きに乗り換え。小田原駅の一つ先のJR早川駅11時50分着。
 早川駅のホームから、住宅の屋根の向こうに白い観音像が見える。東海道線の電車で通るたびに、小田原駅を過ぎたすぐのところでちらと見える観音像が気になっていたのだ。

 降りたった早川駅は、どこか長閑な田舎の駅といった佇まいである。
 そこから歩いて、すぐの小田原漁港に行った。船が何隻か停泊している港は、海岸から四角に刳り抜いたような小ささだ。その先にせり出した防波堤の突端に、小田原提灯の形をした灯台がある。いわゆる「ちょうちん灯台」である。
 港の周りには、何件か食事を提供する店が点在している。漁師めし食堂というのがあったので、さっそく昼飯とあいなった。もちろん、目的は魚である。
 3種の刺身と3種の魚のテンプラの定食。それに、名物というアジのフライを付けた魚づくしである。普段の昼食と違って、昼間から大量(自分としては)の魚とご飯で、いつになく満腹となった。

 小田原駅先の、東海道線の電車や新幹線の車窓から見える白い観音像。この気になっていた観音像を見に行くことにした。あの観音像は、早川駅から歩いて10分ほどのところにある東善院にある「魚籃大観音」というようだ。
 案内板を見ながら、住宅街をくねくねと曲がって薬王山東善院のお寺にたどり着く。
 寺の屋根の先に聳える観音像は、前に手で籠を提げている。よく見ると、籠から魚の尻尾らしいものがのぞいている。持っている籠は、魚を入れる魚籠(びく)なのだ。だから、名前も魚籃観音という。
 像の高さは13mで、1982(昭和57)年に建立とある。それにしても、珍しい観音像だ。

 そこからほど近いところにあるもう一つの「早川観音」に行くことにする。早川観音とは瑠璃山真福寺のことである。
 寺に着いたがお寺の人は誰もいない。ここには外に観音像が建っているのではなく、堂内に安置してあるようだ。寺の境内は桜や謂れのある古い木があり、静かな田舎の寺の空気に充ちている。

 *白亜の小田原城へ

 早川駅から電車で隣の小田原駅へ向かった。
 まず、駅の西口にある北条早雲像を眺める。何といっても、小田原の元を築いた戦国武将である。躍るような馬に跨った早雲の足元には、角に松明を結んだ牛が跳ねている。
 そして、市の中心部が広がる駅東口に出る。
 駅の近くにある北条氏政・氏照の墓所に参る。氏政は小田原北条氏の4代目城主、弟の氏照は八王子城主で、二人は豊臣秀吉の小田原城攻略によって、切腹させられた兄弟である。墓所は駅近くの繁華街の一角にあることもあって、意外とこぢんまりとしていて見過ごしてしまいそうである。
 墓所を出たあとは、一気に小田原城を目指した。

 白亜の小田原城は、天守も石垣もきれいな城である。
 しかし、この均整のとれた城は北条氏が建てた城ではない。北条氏の時代の城は土の城で、現在の形の城が建てられたのは、北条氏滅亡後の江戸・徳川の時代である。災害などで何度か消失崩壊・修築復建を繰り返した小田原城は、明治維新後に解体された。
 しかし、1960(昭和35)年に天守閣が復建され、2016(平成28)年に大改修された。さらに、天守に続く常盤木門、堀周りの銅(あかがね)門、馬出(うまだし)門などが復建され、本格的な城の構えとなった。
 5層になっている天守の最上階の展望デッキからは、市街地や相模湾が一望できる。その途中の階には、戦国時代、江戸時代の小田原城の歴史や資料、小田原ゆかりの美術工芸品や甲冑・刀剣などが展示してある。

 *小田原北条氏の謎

 小田原城内の展示資料を見ていると、北条氏の歴史があった。歩きながら流し見していたのだが、一瞬目が止まり、そして驚いた。
 小田原城といえば、その祖ともいえるのが小田原駅前に銅像がある北条早雲である。名を北条というので、私はてっきり鎌倉幕府の北条政子で有名な執権北条氏の系譜の武士だと思っていた。
 それが、北条早雲は元々は伊勢家(備中伊勢氏)とあるではないか。
 北条早雲は、1501(文亀元)年頃までに小田原城に進出するのだが、その頃、彼は伊勢宗瑞(いせそうずい)を名乗っていて、北条に改名したのは彼以降の代からだという。つまり、北条早雲とは彼の死後に付けられた名前だったのだ。
 当時、関東における北条のブランドは得難いものだったのだろう。 
 私の知識・勉強不足だったのだが、関東の強大な武将だったので鎌倉の執権北条氏の系列だと思い込んでいたのだ。

 それでは、鎌倉幕府の北条氏はというと……。
 1333(元弘3/正慶2)年の元弘の乱により、北条氏が16代に及ぶ執権として実権を握っていた鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇による建武の新政(中興)、その後足利尊氏による室町幕府が始まる。
 鎌倉幕府滅亡の直後には北条氏一族は一部反旗を翻していたが打ち破れ、やがて武家政治の表舞台からは消えていく。

 *小田原の海と川崎長太郎

 小田原城を出たあと、お堀端通りを通って駅前の商店街に出た。
 夕食には少し早い時間ので、海を見に海岸へ行くことにした。早川の漁港ではない小田原の海を見に。
 お堀端通りの一つ外側の通りを通って、かまぼこ通りに向かったところに、雰囲気のある古風な木造の建物がある。「お休み処」の暖簾が出ているので入ってみると、誰でも気軽に立ち寄り休める「小田原宿なりわい交流館」だった。
 建物は旧網問屋を整備改装したもので、くつろげる空間となっている。
 この近辺に住んでいるという係りのおばさんが、親切にお茶を出してくれた。ついでに海に出る道を訊いてみると、丁寧に教えてくれて、何とその道の海への入口近くに「川崎長太郎小屋跡」があるという。
 川崎長太郎は、地元の赤線の女性との交流を描いた「抹香町」などで、知る人ぞ知る小田原在住の私小説作家である。掘立小屋に暮らす生活を淡々と描いた彼の本を、私は若いときに読んで好感を持った記憶が残っている。
 おばさんは、長太郎さんはよくこの道を歩いていましたよ、とこれまた淡々と話してくれた。晩年はファンだという女性と結婚して一緒に生活していましたよ。ええ、あの小屋で、と言った。
 おばさんの言われた道を行くと、海辺の手前に小屋はなくなっていたけど、こぢんまりと碑が建っていた。彼らしいと思えた。
 そこを抜けると、相模湾の海が広がっていた。
 長く続く海岸は、白く丸い小石がまるで整然と敷かれたように広がっている。「御幸の花海岸」というらしい。それらの小石の浜は、枯れ山水の庭石を思わせた。
 海岸線の先に、昼に行った早川の漁港が見え、その先に真鶴半島が見える。
 そろそろ日も暮れそうだ。

 *夕食は中国東北料理を

 夕食をとるために、再び駅近くの繁華街へ。
 目的地は中華料理店で、中国東北料理店があるという。
 近年、年末に士と横浜を散策した後、中華街の中国東北料理店で食事をするのを慣わしとしている。
 どの町にも中華・中国料理店はあるもので、台湾、上海、香港、四川などの地域の特色を謳った料理店もよく見かけるが、中国東北料理店は少ないので貴重だ。つまり、満州料理なのだ。

 店が並ぶ繁華街のなかで、「名師絶技、本場風味」の派手な看板が目に入る。店の名を「氷花餃子」と、これまた華々しい。
 豊富なメニューのなかから、餃子のほか、肉と野菜の料理を何種類か頼む。
 店の名前にもなっている「氷花餃子」は、出てきたのを見たときは放射状に餃子を落とし込んだピザのようだと思った。丸い形につながっている羽根つき餃子が、氷の中の花に似ていることからきた名だろう。口にすると、外はパリパリ、中はモチモチ感がある。
 東北料理特有の羊料理がなかったのと、たまたま頼んだ料理がどれも辛くない、つまり唐辛子の入っていない料理ばかりだったのが残念だったが、どれもボリュウームがあり、たちまち満腹となった。

 小田原で、蒲鉾を食べなかったのが、心残りだった。

 ※今回、豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原合戦の本営である「石垣山一夜城」の跡は行かなかったが、後日の宿題としたい。

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