若いときには、この監督の映画は分かっていなかった。その頃は、映画の中に問題意識が内包されていて、前衛的でアグレッシブな映画が魅力的だった。だから、ジャン・リュック・ゴダールであり、アラン・レネであり、ミケランジェロ・アントニオーニであった。のちに大好きになるフランソワ・トリュフォーでさえ、「恋のエチュード」まで待たなければならなかった。
ヌーベル・ヴァーグの旗手たちが、ピカソやダリのようだと感じるのに対して、ヴィスコンティはレンブラントかベラスケスのように古色蒼然としていた。
ヨーロッパの豪壮なゴシック建築を見るよりは、セーヌの河畔で恋を語る方がずっとよかった。
もちろん、今でもセーヌの河畔の方がいい。しかし、ゴシック建築にも目がいくようになった。そして、同じ建物に見えていたものも違いが少し分かるようになってきた。
ノートルダム寺院があるからこそ、セーヌのポン・ヌフは熱いぬくもりを持てるのであり、サン・マルコ広場にサン・マルコ寺院と鐘楼があるから、ヴェネチィアの路地は胸躍るのである。
ヴィスコンティは、1906年生まれ。イタリア北部のミラノを中心とした貴族の末裔である。パリを旅行中に、映画監督のジャン・ルノワールを知り助監督に。1942年に「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で監督としてデビューしている。
戦後は、「夏の嵐」(1954年)、「白夜」(1957年)、「若者のすべて」(1960年)、「山猫」(1963年)、「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)、「ベニスに死す」(1970年)、「ルードヴィヒ」(1972年)、「家族の肖像」(1974年)などを監督制作している。
今年は、ルキノ・ヴィスコンティ生誕100年ということで、NHK・BSで、彼の映画を連続で放映している。
しばらく、ヴィスコンティを見直してみたいと思う。見ていない映画もたくさんあるので。
ヌーベル・ヴァーグの旗手たちが、ピカソやダリのようだと感じるのに対して、ヴィスコンティはレンブラントかベラスケスのように古色蒼然としていた。
ヨーロッパの豪壮なゴシック建築を見るよりは、セーヌの河畔で恋を語る方がずっとよかった。
もちろん、今でもセーヌの河畔の方がいい。しかし、ゴシック建築にも目がいくようになった。そして、同じ建物に見えていたものも違いが少し分かるようになってきた。
ノートルダム寺院があるからこそ、セーヌのポン・ヌフは熱いぬくもりを持てるのであり、サン・マルコ広場にサン・マルコ寺院と鐘楼があるから、ヴェネチィアの路地は胸躍るのである。
ヴィスコンティは、1906年生まれ。イタリア北部のミラノを中心とした貴族の末裔である。パリを旅行中に、映画監督のジャン・ルノワールを知り助監督に。1942年に「郵便配達は二度ベルを鳴らす」で監督としてデビューしている。
戦後は、「夏の嵐」(1954年)、「白夜」(1957年)、「若者のすべて」(1960年)、「山猫」(1963年)、「地獄に堕ちた勇者ども」(1969年)、「ベニスに死す」(1970年)、「ルードヴィヒ」(1972年)、「家族の肖像」(1974年)などを監督制作している。
今年は、ルキノ・ヴィスコンティ生誕100年ということで、NHK・BSで、彼の映画を連続で放映している。
しばらく、ヴィスコンティを見直してみたいと思う。見ていない映画もたくさんあるので。
ヴィスコンティ監督が渾身の力を込めた4時間の大作だが、監督は単純に耽美主義的に「狂王ルードヴィヒ」を描いているだけではない。この一作に4時間という時間をかけたのは、ドイツを始めとするヨーロッパ人の自らの歴史に関する深い愛憎、怨念のようなものを塗りこめたかったからに違いない。
ともあれこの映画の主たるストーリー・・・バイエルン王ルードヴィヒのご乱行・・・が進行する時代はドイツ史上でも最も重要な時期、「遅れたドイツ」が新興プロシャのビスマルクの豪腕により始めて一つになる時期なのである。(拙著「映画で楽しむ世界史」110章で詳述)