バルセロナといえば、スペイン西部のピレネー山脈のほとりのカタルーニャ地方にあり、アントニオ・ガウディのサグラダ・ファミリア教会が有名だ。
それに、通りを歩いているとピカソやミロの美術館もあり、何となく芸術の香りがする街である。
このスペイン・バルセロナから、映画「それでも恋するバルセロナ」は始まる。
アメリカ人の仲のいいヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)は、ヴィッキーの親類がいるというスペインのバルセロナにやってくる。
すぐさま、画廊で開かれたパーティーで、画家である一人の男に誘いを受ける。その男はフアン・アントニオ(ハビエル・バルデム)といい、画壇では私生活上評判のよくない男だった。しかし、どことなく魅力のある男だ。
ヴィッキーとクリスティーナがワインを飲んでいるテーブルにやって来たアントニオは、さりげなく次のように話しかけてくる。
「2人をオビエドに招待したい。週末を3人で過ごそう」
オビエドとは、スペインの北部にある古い街である。そこへ小型飛行機で行こうというのだ。さらに、こう付け足した。
「そこで、食事とワインとセックスをする」
初対面なのに、ラテン系らしい大胆な誘い方だ。
自由奔放そうなクリスティーナは興味津々だが、婚約者もいて、真面目な考え方のヴィッキーはあからさまな誘いに怒って、すぐさま断る。
すると、アントニーはこう言い返す。
「なぜ怒る。美人で魅力的だと褒めているのに」
「君たちに最高の提案をしているだけだ」
そして、彼の人生哲学を述べる。
「人生は無意味だから、楽しむべきだ」
単なる性愛(エロ)映画か、それともめくるめく官能の世界へ連れていってくれる愛の耽溺の映画か、胸が躍る。
クリスティーナの積極性に引きずられる格好でヴィッキーも一緒に飛行機に乗り、結局3人でオビエドに行くことになる。
オビエドは、フランスの田舎(カンパーニュ)のように素敵なところだった。ここから、1人の男と2人の女のエロティックな関係が始まることになる。
まるで、フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」のようだと思った。この映画は、2人の男と1人の女の物語。
「突然炎のごとく」の原題は、「ジュールとジム」(Jules et Jim)という2人の名前を使った単純なものだ。
この「それでも恋するバルセロナ」の原題は、「ヴィッキー、クリスティーナ、バルセロナ」(Vicky Cristina Barcelona)と、2人の名前にバルセロナを付け加えただけのもの。
さらに、トリュフォーの「恋のエチュード」( Les deux Anglais et le Continent) にも通じるものがある。この映画は、2人のイギリス人の姉妹と1人のフランス人の男の物語。
明らかに、脚本と監督をした器用なウディ・アレンが、ヨーロッパを意識していることが一見してわかる。アメリカ・スペイン合作映画だが、用意されたすべてがヨーロッパ的なのだ。そもそも、イントロから流れる挿入歌さえも、洒落たシャンソン風だ。
このヨーロッパ的な恋愛の三角関係に移行していくかと思いきや、別れたはずのアントニオの妻であるマリア(ペネロペ・クルス)が現れて、複雑で奇妙な関係に変形していく。
マリアとうまくいかない理由をアントニオはこう言う。
「マリアと会ったとき、どれほど美しかったか。才能があって、ゴージャスで、官能的だった。大勢の男のなかから僕を選んでくれた。完璧な関係だったが、何かが欠けていた。愛にもバランスが必要だ。人体と同じだ」
さらに、バルセロナに、ヴィッキーの婚約者ダグがやってくる。
ここまで来ると、アメリカの猥雑さが強くなり、ヨーロッパの繊細さが消えていく。一歩間違うと、芸術的愛の映画が、どたばたラブコメディーになりかねないところだ。
やがて、つかの間の恋は終わる。
2人はバルセロナからアメリカに戻り、ひと夏の旅は終わる。
バルセロナで、1人の男が2人の女に何かを残していった。
スペインが舞台ということもあってか、スペイン人の俳優、ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスの個性が際立っている。2人の、男の色気と女の色気が匂いたっている。
この映画の公開が2008年で、撮影されたであろうその前年の2007年の雑誌「 PLAYBOY」では、「もっともセクシーな世界の美女100人」のなかで、3位のアンジェリーナ・ジョリー、2位のシンジー・ローハンを抜いて堂々1位に輝いたスカーレット・ヨハンソンだが、ヨーロッパの地では、存在感が薄くなっているのは否めない。
「それでも恋するバルセロナ」は、アメリカ人が作ったヨーロッパ映画と言えようか。
*
スペインの鉄道は、ほとんどが日本の旧国鉄と同じ国営のレンフェ(RENFE)である。マドリッドのチャマルティン駅十一時発の列車でバルセロナへ向かう。本格的な一人旅が始まった。
列車の窓から見える景色は、土と石の荒涼たる風景だ。やはり、ヨーロッパは石の文化だ。
夕方六時頃バルセロナ駅へ着いた。駅を出た途端、一人旅の不安は吹き飛び、私は久しぶりにヨーロッパを旅している自分を発見し、嬉しさが込みあげてきた。
パリへの一人旅から二〇年がたっていた。久しぶりのヨーロッパの一人旅は、かつての夢見心地の旅ではない。私も年を重ねたし、日本も大きく変わった。一生懸命背伸びをしていたスーツ姿の青年は、今は少し余裕をもったカジュアルなジーンズ・スタイルの中年男に変わっている。
バルセロナの街は、マドリッドに比べて気取っている。人々も、まるでパリジャンやパリジェンヌのようにすましている。ランブラス通りはさしずめシャンゼリゼとでも言おうか。
ランブラス通りを歩いた。どこの世界の若者もみんな夢見ている。私も、この水を飲めばもう一度バルセロナに来られると言い伝えのある、カタレナスの泉の水を飲んだ。
*「かりそめの旅」――ゆきずりの海外ひとり旅――(岡戸一夫著) 第10章「黄昏の輝き、スペイン、ポルトガル」より。
*この本の問い合わせは、ocadeau01@nifty.com
それに、通りを歩いているとピカソやミロの美術館もあり、何となく芸術の香りがする街である。
このスペイン・バルセロナから、映画「それでも恋するバルセロナ」は始まる。
アメリカ人の仲のいいヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンソン)は、ヴィッキーの親類がいるというスペインのバルセロナにやってくる。
すぐさま、画廊で開かれたパーティーで、画家である一人の男に誘いを受ける。その男はフアン・アントニオ(ハビエル・バルデム)といい、画壇では私生活上評判のよくない男だった。しかし、どことなく魅力のある男だ。
ヴィッキーとクリスティーナがワインを飲んでいるテーブルにやって来たアントニオは、さりげなく次のように話しかけてくる。
「2人をオビエドに招待したい。週末を3人で過ごそう」
オビエドとは、スペインの北部にある古い街である。そこへ小型飛行機で行こうというのだ。さらに、こう付け足した。
「そこで、食事とワインとセックスをする」
初対面なのに、ラテン系らしい大胆な誘い方だ。
自由奔放そうなクリスティーナは興味津々だが、婚約者もいて、真面目な考え方のヴィッキーはあからさまな誘いに怒って、すぐさま断る。
すると、アントニーはこう言い返す。
「なぜ怒る。美人で魅力的だと褒めているのに」
「君たちに最高の提案をしているだけだ」
そして、彼の人生哲学を述べる。
「人生は無意味だから、楽しむべきだ」
単なる性愛(エロ)映画か、それともめくるめく官能の世界へ連れていってくれる愛の耽溺の映画か、胸が躍る。
クリスティーナの積極性に引きずられる格好でヴィッキーも一緒に飛行機に乗り、結局3人でオビエドに行くことになる。
オビエドは、フランスの田舎(カンパーニュ)のように素敵なところだった。ここから、1人の男と2人の女のエロティックな関係が始まることになる。
まるで、フランソワ・トリュフォーの「突然炎のごとく」のようだと思った。この映画は、2人の男と1人の女の物語。
「突然炎のごとく」の原題は、「ジュールとジム」(Jules et Jim)という2人の名前を使った単純なものだ。
この「それでも恋するバルセロナ」の原題は、「ヴィッキー、クリスティーナ、バルセロナ」(Vicky Cristina Barcelona)と、2人の名前にバルセロナを付け加えただけのもの。
さらに、トリュフォーの「恋のエチュード」( Les deux Anglais et le Continent) にも通じるものがある。この映画は、2人のイギリス人の姉妹と1人のフランス人の男の物語。
明らかに、脚本と監督をした器用なウディ・アレンが、ヨーロッパを意識していることが一見してわかる。アメリカ・スペイン合作映画だが、用意されたすべてがヨーロッパ的なのだ。そもそも、イントロから流れる挿入歌さえも、洒落たシャンソン風だ。
このヨーロッパ的な恋愛の三角関係に移行していくかと思いきや、別れたはずのアントニオの妻であるマリア(ペネロペ・クルス)が現れて、複雑で奇妙な関係に変形していく。
マリアとうまくいかない理由をアントニオはこう言う。
「マリアと会ったとき、どれほど美しかったか。才能があって、ゴージャスで、官能的だった。大勢の男のなかから僕を選んでくれた。完璧な関係だったが、何かが欠けていた。愛にもバランスが必要だ。人体と同じだ」
さらに、バルセロナに、ヴィッキーの婚約者ダグがやってくる。
ここまで来ると、アメリカの猥雑さが強くなり、ヨーロッパの繊細さが消えていく。一歩間違うと、芸術的愛の映画が、どたばたラブコメディーになりかねないところだ。
やがて、つかの間の恋は終わる。
2人はバルセロナからアメリカに戻り、ひと夏の旅は終わる。
バルセロナで、1人の男が2人の女に何かを残していった。
スペインが舞台ということもあってか、スペイン人の俳優、ハビエル・バルデムとペネロペ・クルスの個性が際立っている。2人の、男の色気と女の色気が匂いたっている。
この映画の公開が2008年で、撮影されたであろうその前年の2007年の雑誌「 PLAYBOY」では、「もっともセクシーな世界の美女100人」のなかで、3位のアンジェリーナ・ジョリー、2位のシンジー・ローハンを抜いて堂々1位に輝いたスカーレット・ヨハンソンだが、ヨーロッパの地では、存在感が薄くなっているのは否めない。
「それでも恋するバルセロナ」は、アメリカ人が作ったヨーロッパ映画と言えようか。
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スペインの鉄道は、ほとんどが日本の旧国鉄と同じ国営のレンフェ(RENFE)である。マドリッドのチャマルティン駅十一時発の列車でバルセロナへ向かう。本格的な一人旅が始まった。
列車の窓から見える景色は、土と石の荒涼たる風景だ。やはり、ヨーロッパは石の文化だ。
夕方六時頃バルセロナ駅へ着いた。駅を出た途端、一人旅の不安は吹き飛び、私は久しぶりにヨーロッパを旅している自分を発見し、嬉しさが込みあげてきた。
パリへの一人旅から二〇年がたっていた。久しぶりのヨーロッパの一人旅は、かつての夢見心地の旅ではない。私も年を重ねたし、日本も大きく変わった。一生懸命背伸びをしていたスーツ姿の青年は、今は少し余裕をもったカジュアルなジーンズ・スタイルの中年男に変わっている。
バルセロナの街は、マドリッドに比べて気取っている。人々も、まるでパリジャンやパリジェンヌのようにすましている。ランブラス通りはさしずめシャンゼリゼとでも言おうか。
ランブラス通りを歩いた。どこの世界の若者もみんな夢見ている。私も、この水を飲めばもう一度バルセロナに来られると言い伝えのある、カタレナスの泉の水を飲んだ。
*「かりそめの旅」――ゆきずりの海外ひとり旅――(岡戸一夫著) 第10章「黄昏の輝き、スペイン、ポルトガル」より。
*この本の問い合わせは、ocadeau01@nifty.com
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