
東京の「外堀」といえば、四谷から市ヶ谷へ向かった途中から飯田橋に到る約4キロの長さの堀である。
この堀に沿って東側に中央線の電車が走る。この堀に沿った四谷、市ヶ谷、飯田橋は、皇居の西側にあり、丸い山手線を横断する中央線(総武線)の新宿駅と東京駅のほぼ中ほどで、東京の中央に位置する。
線路の東は大きな土手になっていて、桜並木の遊歩道である外濠公園が続く。
江戸城の内堀は皇居の周辺にほとんど残っていて、この堀に沿ってジョギングをしている人を見かけることでも有名だ。
内堀のさらに外に堀を作った江戸城外堀は、約14キロあったが、明治以降の日本の近代化の途中で埋め立てられ、今この四谷、市ヶ谷、飯田橋あたりに残るのみである。
外堀の西側には外堀通りがあり、市ヶ谷駅前の市ヶ谷見附で靖国通りと交叉する。
中央線の走る電車からも、外堀通りを走る車からも外堀は見えるので、何げなく通り過ぎた人も多いだろう。飯田橋から東へ水道橋、御茶ノ水に向かっては神田川が流れているので、市ヶ谷前のこの外堀も、都心に流れる大きな川か、単なる長い池と勘違いしている人もいるかもしれない。
徳川3代将軍家光の時代の寛永13(1636)年に、全国大名を総動員して造られたといわれる外堀は、わずかにここだけ、その姿のままでじっと佇んでいるのである。
この外堀の東側、つまり皇居側は千代田区で、西側は新宿区である。
千代田区側には、五番町とか九段とか、いかにも武家屋敷が並んでいたような地名が連なる。
一方西側の新宿区側は、市谷八幡町とか、市谷左内町、市ヶ谷番匠町といった名前が道や坂に入りくんで名づけてあり、街の職業や特性で細かく区切られていたことが分かる。
市谷八幡町は亀ヶ岡八幡宮があり、左内坂なるものが残る左内町は島田左内なる者が町家を作ったとされ、番匠とは建築職人の意味から、番匠町には宮大工のような職人が集まっていたに違いない。
飯田橋の外堀の突き当たりの牛込橋を渡ると、かつて赤坂と競いあった花街・歓楽街、神楽坂に出る。江戸の武士もこの界隈で羽目を外して、千鳥足で歩く姿がよく見かけられたに違いない。
*
NHKテレビの「ブラタモリ」が再開し、この「江戸城外堀」を2月3日放映した。2月8日再放映をし、そのとき僕は見た。ちなみに、2月10日朝11時よりNHK・BSでも再放映される。
2008年の暮れの12月、深夜にNHKで唐突に「ブラタモリ」なる題名で、「原宿」が放映された。
若者で賑わっている原宿を歩きながら、その足元の何げない小さな石垣や、なだらかな斜面や窪地から、昔はここに川が流れていた、などと推測し、古地図と睨めっこしながら、やはりこれがその痕跡だ、と言ってタモリがほくそ笑むのであった。そして、同行する専門家(その後毎回変わる)が、それを裏付ける根拠を解説するという趣向である。
タモリと一緒に歩く久保田祐佳アナウンサーが、「あんきょ(暗渠)って何ですか?」などと尋ねるのも、今の女子アナらしくて愛嬌である。
余談だが、当初この久保田祐佳は局アナではなくタレントだと思っていた。タモリと話すのも、普通の女の子のノリで、着ているファッションも女子大生風である。
最近のNHKは、民放風にアイドル風のアナウンサーが出てきた。去年から朝のニュース番組「おはよう日本」のメインを務める鈴木奈穂子は、まさに可愛いアイドル風だし、今度夜の「ニュースウオッチ9」で青山祐子に代わる井上あさひは、正統派美人である。この井上あさひも、何だ!この髪型はといった殿様のチョンマゲのような格好で、堅い農業の番組に出ていたので、タレントか自称芸術家と思ったほどである。
NHKの顔といえる朝の鈴木奈穂子と夜の井上あさひは、奇しくも04年入局の同期だそうである。「ブラタモリ」の久保田祐佳は、その1年下である。
さて話を戻すと、このパイロット版とも言える「原宿」から1年たった、翌09年秋から「ブラタモリ」は2度レギュラー化された。
そのなかでも、「銀座」、「丸の内」、「品川」、「新宿大久保」、「神田」など、知っている街なのに、今は失われた街の奥の歴史が抉られて、興味深いシリーズとなった。
*
ブラタモリの「江戸城外堀」は、千代田区歴史民俗資料館の後藤宏樹さんの案内で、外濠公園に沿ってそびえ立つ法政大学のボアソナードタワーの25階から、タモリ、久保田アナが外堀の全容を見渡すところから始まる。
外堀を含めた東京の景色に、スタッフは感嘆の声をあげる。昔からこのあたりは眺望が素晴らしかったのだろう、富士見町という地名である。
そして、タモリらスタッフは、四谷から市ヶ谷、飯田橋まで歩いて外堀の運命を紐解きながら、痕跡をたどる。
明治期に建設された、今の中央線の元になる甲武鉄道の足跡も見つけることができる。この時の政府の先見の明で、中央線の新宿駅から東京駅までは、今でも踏切りがないようにできている。
さらに、市ヶ谷の外堀の下に掘られた地下鉄の走る線路脇道にスタッフはもぐり、普通の人は入れない地下鉄有楽町線の留置線場にたどり着く。
地下道を歩く彼らの横を地下鉄の電車が通りすぎるのを、笑って見送る。
タモリが地下道を歩きながら、「通り過ぎる地下鉄に乗っていた人で、ちらっと俺に気づいた人がいたら驚くだろうね」と、笑って言う。
すかさず久保田アナが「絶対、見間違いだと思うと…」と返事するのがおかしい。
外堀界隈は、僕にとっては懐かしい思い出の地だ。
外堀を挟んで千代田区と新宿区が広がる。学校も仕事も、この一帯へ通った。人生の大半をこの界隈で過ごしたと言ってもいい。
市ヶ谷見附下には、外堀の一角に釣り堀がある。天気のいい午後、背広姿のサラリーマン風の男が釣り糸を垂れていたりするのも、長閑な風景だ。
外堀を囲む建物やビルは変わっていったが、外濠公園の桜も、市ヶ谷亀ヶ岡八幡の急な階段も変わらない。いや、亀ヶ岡八幡の敷地はもっと広く、桜が茂っていたが、何年前になるか、土地の半分ぐらいが買収され予備校に変わった。
外堀に面した、外堀通りの坂の下の角の大衆食堂はなくなった。市ヶ谷見附の番町に向かった先にあった喫茶店、五番町茶廊も変わった。中華料理店、九龍飯店はまだ店構えを保っている。
外堀周辺の景色は、少しずつ変わっていく。
しかし、外堀だけは変わらない。
数多くある日本の城跡で、外堀が残っているのは、この江戸城の「外堀」、ここだけである。江戸城の外堀は、全体を見渡せば東西5キロ、南北4キロの大きさで、このことから江戸城が日本一の城だと言われている。
四谷の外堀から続く赤坂見附にやってきたタモリは、夜の明かりの中で言った。
「これだけでも、よく外堀が残っていたね。世界遺産でもいいんじゃないの」
「全部残っていたのを見たかったですね」と久保田アナが合いの手を入れる。
するとタモリは、すかさず言った。
「全部残っていたら、文句なしで世界遺産だよ」
こうして、ブラタモリの外堀探訪は終わっていった。
*
僕が大事にしている1枚の外堀の写真がある。(写真)
何年前だったか忘れたが、季節は4月初旬。桜の満開の季節である。外堀の両側を囲む、中央線の奥の外濠公園にも、外堀通りの土手にも、桜が咲きほころんだ。
その日の朝、突然、季節はずれの雪が降った。急いでカメラを持って家を出た僕は、外堀の桜に積もった雪景色を写真に収めた。花(桜)に雪。滅多に見られない景色だ。
水(堀)の向こうには、総武線の黄色い電車も走っている。中央線は、柿(紅)色だった。
ここに、月でも出ていたら、「雪月花」である。
「雪月花」を、今まで見たことはない。もしこれからの人生で、それに出くわすことができたら、麻雀で「九連宝燈」ができたときのように(これも残念ながらできたことはない)、祝わないといけないな。
花に降りそそいだ雪。
昼になる前には、ひと時の儚い夢であったかのように、もう雪はあとかたもなく消えていて、うららかな桜の外堀の風景に戻っていた。
この堀に沿って東側に中央線の電車が走る。この堀に沿った四谷、市ヶ谷、飯田橋は、皇居の西側にあり、丸い山手線を横断する中央線(総武線)の新宿駅と東京駅のほぼ中ほどで、東京の中央に位置する。
線路の東は大きな土手になっていて、桜並木の遊歩道である外濠公園が続く。
江戸城の内堀は皇居の周辺にほとんど残っていて、この堀に沿ってジョギングをしている人を見かけることでも有名だ。
内堀のさらに外に堀を作った江戸城外堀は、約14キロあったが、明治以降の日本の近代化の途中で埋め立てられ、今この四谷、市ヶ谷、飯田橋あたりに残るのみである。
外堀の西側には外堀通りがあり、市ヶ谷駅前の市ヶ谷見附で靖国通りと交叉する。
中央線の走る電車からも、外堀通りを走る車からも外堀は見えるので、何げなく通り過ぎた人も多いだろう。飯田橋から東へ水道橋、御茶ノ水に向かっては神田川が流れているので、市ヶ谷前のこの外堀も、都心に流れる大きな川か、単なる長い池と勘違いしている人もいるかもしれない。
徳川3代将軍家光の時代の寛永13(1636)年に、全国大名を総動員して造られたといわれる外堀は、わずかにここだけ、その姿のままでじっと佇んでいるのである。
この外堀の東側、つまり皇居側は千代田区で、西側は新宿区である。
千代田区側には、五番町とか九段とか、いかにも武家屋敷が並んでいたような地名が連なる。
一方西側の新宿区側は、市谷八幡町とか、市谷左内町、市ヶ谷番匠町といった名前が道や坂に入りくんで名づけてあり、街の職業や特性で細かく区切られていたことが分かる。
市谷八幡町は亀ヶ岡八幡宮があり、左内坂なるものが残る左内町は島田左内なる者が町家を作ったとされ、番匠とは建築職人の意味から、番匠町には宮大工のような職人が集まっていたに違いない。
飯田橋の外堀の突き当たりの牛込橋を渡ると、かつて赤坂と競いあった花街・歓楽街、神楽坂に出る。江戸の武士もこの界隈で羽目を外して、千鳥足で歩く姿がよく見かけられたに違いない。
*
NHKテレビの「ブラタモリ」が再開し、この「江戸城外堀」を2月3日放映した。2月8日再放映をし、そのとき僕は見た。ちなみに、2月10日朝11時よりNHK・BSでも再放映される。
2008年の暮れの12月、深夜にNHKで唐突に「ブラタモリ」なる題名で、「原宿」が放映された。
若者で賑わっている原宿を歩きながら、その足元の何げない小さな石垣や、なだらかな斜面や窪地から、昔はここに川が流れていた、などと推測し、古地図と睨めっこしながら、やはりこれがその痕跡だ、と言ってタモリがほくそ笑むのであった。そして、同行する専門家(その後毎回変わる)が、それを裏付ける根拠を解説するという趣向である。
タモリと一緒に歩く久保田祐佳アナウンサーが、「あんきょ(暗渠)って何ですか?」などと尋ねるのも、今の女子アナらしくて愛嬌である。
余談だが、当初この久保田祐佳は局アナではなくタレントだと思っていた。タモリと話すのも、普通の女の子のノリで、着ているファッションも女子大生風である。
最近のNHKは、民放風にアイドル風のアナウンサーが出てきた。去年から朝のニュース番組「おはよう日本」のメインを務める鈴木奈穂子は、まさに可愛いアイドル風だし、今度夜の「ニュースウオッチ9」で青山祐子に代わる井上あさひは、正統派美人である。この井上あさひも、何だ!この髪型はといった殿様のチョンマゲのような格好で、堅い農業の番組に出ていたので、タレントか自称芸術家と思ったほどである。
NHKの顔といえる朝の鈴木奈穂子と夜の井上あさひは、奇しくも04年入局の同期だそうである。「ブラタモリ」の久保田祐佳は、その1年下である。
さて話を戻すと、このパイロット版とも言える「原宿」から1年たった、翌09年秋から「ブラタモリ」は2度レギュラー化された。
そのなかでも、「銀座」、「丸の内」、「品川」、「新宿大久保」、「神田」など、知っている街なのに、今は失われた街の奥の歴史が抉られて、興味深いシリーズとなった。
*
ブラタモリの「江戸城外堀」は、千代田区歴史民俗資料館の後藤宏樹さんの案内で、外濠公園に沿ってそびえ立つ法政大学のボアソナードタワーの25階から、タモリ、久保田アナが外堀の全容を見渡すところから始まる。
外堀を含めた東京の景色に、スタッフは感嘆の声をあげる。昔からこのあたりは眺望が素晴らしかったのだろう、富士見町という地名である。
そして、タモリらスタッフは、四谷から市ヶ谷、飯田橋まで歩いて外堀の運命を紐解きながら、痕跡をたどる。
明治期に建設された、今の中央線の元になる甲武鉄道の足跡も見つけることができる。この時の政府の先見の明で、中央線の新宿駅から東京駅までは、今でも踏切りがないようにできている。
さらに、市ヶ谷の外堀の下に掘られた地下鉄の走る線路脇道にスタッフはもぐり、普通の人は入れない地下鉄有楽町線の留置線場にたどり着く。
地下道を歩く彼らの横を地下鉄の電車が通りすぎるのを、笑って見送る。
タモリが地下道を歩きながら、「通り過ぎる地下鉄に乗っていた人で、ちらっと俺に気づいた人がいたら驚くだろうね」と、笑って言う。
すかさず久保田アナが「絶対、見間違いだと思うと…」と返事するのがおかしい。
外堀界隈は、僕にとっては懐かしい思い出の地だ。
外堀を挟んで千代田区と新宿区が広がる。学校も仕事も、この一帯へ通った。人生の大半をこの界隈で過ごしたと言ってもいい。
市ヶ谷見附下には、外堀の一角に釣り堀がある。天気のいい午後、背広姿のサラリーマン風の男が釣り糸を垂れていたりするのも、長閑な風景だ。
外堀を囲む建物やビルは変わっていったが、外濠公園の桜も、市ヶ谷亀ヶ岡八幡の急な階段も変わらない。いや、亀ヶ岡八幡の敷地はもっと広く、桜が茂っていたが、何年前になるか、土地の半分ぐらいが買収され予備校に変わった。
外堀に面した、外堀通りの坂の下の角の大衆食堂はなくなった。市ヶ谷見附の番町に向かった先にあった喫茶店、五番町茶廊も変わった。中華料理店、九龍飯店はまだ店構えを保っている。
外堀周辺の景色は、少しずつ変わっていく。
しかし、外堀だけは変わらない。
数多くある日本の城跡で、外堀が残っているのは、この江戸城の「外堀」、ここだけである。江戸城の外堀は、全体を見渡せば東西5キロ、南北4キロの大きさで、このことから江戸城が日本一の城だと言われている。
四谷の外堀から続く赤坂見附にやってきたタモリは、夜の明かりの中で言った。
「これだけでも、よく外堀が残っていたね。世界遺産でもいいんじゃないの」
「全部残っていたのを見たかったですね」と久保田アナが合いの手を入れる。
するとタモリは、すかさず言った。
「全部残っていたら、文句なしで世界遺産だよ」
こうして、ブラタモリの外堀探訪は終わっていった。
*
僕が大事にしている1枚の外堀の写真がある。(写真)
何年前だったか忘れたが、季節は4月初旬。桜の満開の季節である。外堀の両側を囲む、中央線の奥の外濠公園にも、外堀通りの土手にも、桜が咲きほころんだ。
その日の朝、突然、季節はずれの雪が降った。急いでカメラを持って家を出た僕は、外堀の桜に積もった雪景色を写真に収めた。花(桜)に雪。滅多に見られない景色だ。
水(堀)の向こうには、総武線の黄色い電車も走っている。中央線は、柿(紅)色だった。
ここに、月でも出ていたら、「雪月花」である。
「雪月花」を、今まで見たことはない。もしこれからの人生で、それに出くわすことができたら、麻雀で「九連宝燈」ができたときのように(これも残念ながらできたことはない)、祝わないといけないな。
花に降りそそいだ雪。
昼になる前には、ひと時の儚い夢であったかのように、もう雪はあとかたもなく消えていて、うららかな桜の外堀の風景に戻っていた。
NPO江戸城再建を目指す会なる団体主催の
なかなかおもしろい健康的な企画でしたよ。
その日は竹橋から皇居、日比谷、汐留、銀座まで。
いまこそ天守閣を再建して、東京の、日本のシンボルとしよう!と
熱く語っていらっしゃいました。
江戸城の天守閣を再建するということは、どういうことだろう?と思ってしまう。
江戸城、今の皇居は天皇一家が住んでいる。
天皇を天守閣に住んでもらおうというのだろうか?
それとも、天守閣を観光地として、一般に開放するということだろうか?
http://npo-edojo.org/top.html
天守閣の石塀(土台)は残っていて、
そこには登りました。
火事で焼けた跡が石に黒く残っていて生々しい。
皇居の敷地内は、
元・大奥があった辺りが芝生の公園になっていて
想像を掻き立てられましたよ。
松の廊下のあたりも、小道(舗道)になってました。
その比較例として、五つの世界都市について、次のような建造物をあげています。
北京:紫禁城、パリ:ベルサイユ宮殿、ロンドン:バッキンガム宮殿、ニューヨーク:自由の女神。
しかし、これらの建造物は、現代において再建されたものではありません。歴史の中で、価値が培われたものです。
江戸城は江戸城として、このままでいいと思いますが。
ギリシャのパルテノンはじめ、ヨーロッパの城や寺院は、ほとんどが当時のものです(例外もあるが)。
江戸城・外堀を完全にするため(もしできたとして)、全部掘り返したところで、あるいは、万里の長城の欠けたところを継ぎ足したところで、価値が上がるとは思えません。
(誘ってくれた友人を通じて初めて知りました)
天守閣があってもなくてもどうでもいんですけど(笑)、
銀座の天ぷらやさんで一緒に昼食をとりながら
会のおじさまたちの熱意は感じましたよ。
お金はどこから調達するのかしら? 相当かかりますよねえ。
まあ、でも、こういう歴史跡地を小春日和に散策するという企画は
面白かったです。