かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

「門司港」① 振り向けば、九州の玄関駅

2019-10-05 02:18:01 | * 四国~九州への旅
 「門司港」駅へ行った。
 明治24年から続いている九州の玄関口の駅で、JR鹿児島本線の始点で終点でもある。

 高校を卒業して東京に住むようになって50余年。その間、毎年実家で過ごすのを習慣としていた年末・正月時期を含め、年に2~3回は九州・佐賀に帰っていた。
 ということは、今まで百数十回、東京~九州間を往復したことになる。
 そのうち、飛行機で帰ったのは、福岡空港へおそらく3回と佐賀空港へ1回の、計数回あるかないかである。
 他に、四国経由の船による九州上陸が、八幡浜(愛媛県)から別府(大分県)へ2回と、宿毛(高知県)から佐伯(大分県)への1回、計3回がある。
 つまり、百数十回の九州行きのほとんどが列車ということである。

 これほど多く列車で東京から九州へ行っていて、しかも鹿児島本線の始発駅なのに、僕は実は1度も門司港駅に降りたことがなく、通過したこともなかった。門司港駅が始発駅で終着駅だから当然通過することはないのだが、降りたことも駅を見やったこともないのはなぜだろう?

 *「関門トンネル」と「門司」駅と「門司港」駅の謎

 列車で本州から九州へ入る場合は、間に海峡があるので、関門トンネルを通って山口県の下関から福岡県の門司へ入る以外にない。逆に九州から本州に入る(出る)場合も、門司から下関に入る(出る)ということになる。車や歩行でも、このルートである。
 関門(鉄道)トンネルは、下り線は1942(昭和17)年に、上り線は1944(昭和19)年に開通していて、戦前から列車はトンネルを通っていた。

 東京・九州間の往復は、上京してから当初は、僕は佐世保・長崎発の急行「西海・雲仙」、もしくは特急「さくら」を利用していた。
 そして、新しく新関門トンネルが造られ、山陽新幹線が博多駅まで開通したのが1975(昭和50)年で、それ以後は、多くは新幹線を利用した。

 新幹線のほとんどの列車は、山口県の「新山口」(旧小郡)駅から、九州へ入った最初の駅は「小倉」である。その間、「厚狭」「新門司」の駅があるが、各駅停車の「こだま」以外の多くの列車は素通りする。
 在来線は、東海道本線・山陽本線と繋いで下関から関門鉄道トンネルを通って九州に入った列車は、「門司」駅に入る。下関からの山陽本線は門司駅で終わり、小倉・博多方面に向かう鹿児島本線となるのであるが、九州最初の駅は、始点の「門司港」駅ではないのである。
 始点の門司港駅の先(小倉寄り)のところで、山陽本線と鹿児島本線は合流するのである。つまり、門司駅と門司港駅間は、盲腸のように取り残されたようになっているのだ。その間、5.5キロ。

 しかし、これには物語がある。
 現在の「門司港」駅は、かつて「門司」駅と称していた。ところが、関門(鉄道)トンネルができ、出入口が当時の門司駅より小倉駅寄りになったせいで、そこの「大里」駅が門司駅となり、始点の門司駅は門司港駅と変わることになった、
 つまり、本州から九州へ上陸した場合、在来線も新幹線もどの列車も「門司港駅」は通らないのである。
 新しく九州の玄関口、門司駅ができたからといって、盲腸は不要だといって門司港駅までの路線を廃線にしなかったのは、その場所に多くの歴史が息づいていたからである。九州鉄道の発祥の遺産、関門海峡の変遷の物語が、昔は門司駅と言った門司港駅を残存させたのだ。

 ちなみに、在来線と新幹線の関門トンネルは別の坑道で、出入り口の位置も別である。列車用の鉄道トンネルは2つあるのである。
 関門トンネルは、この他1958(昭和33)年に、車道・歩道の国道2号が開通しているので、3本のトンネルがあるということである。
 加えて、1973(昭和48)年に高速道路の「関門橋」が開通しているので、本州と九州を結ぶ関門路線は4パターンとなる。

 *孤高の「門司港駅」

 台風の通る最中の9月22日に佐賀・武雄市で高校の同窓会があるので、9月19日に東京を発った。
 その日は関西に1泊して、翌20日、西国24番札所の中山寺(兵庫県宝塚市)を見て周って、夕方に「新神戸」駅から山陽新幹線で九州へ向かった。
 九州へ入った最初の停車「小倉」駅で降りた。
 小倉駅から在来線の、上りの鹿児島本線の各駅停車に乗る。「門司港」行きと「下関」行きがあり、門司港への経路は、<小倉―門司-小森江-門司港>となる。これが、下関行きに乗ると、<小倉-門司―下関>となり、門司港へは行かずにその手前で関門トンネルへ入っていくのである。
 小倉から各駅停車の門司港行きに乗った。所要時間は13分である。
 終着駅の「門司港」駅に着いた。
 各ホームの線路の先に、白黒の三角十字のような車止標識が目に入る。
 ホームを見回したあと、改札を出た。構内は思ったより広い空間で、落ち着きと威厳がある。天井から吊るされた明かりと高い天井は、格式あるホテルのようだ。
 構内にあるスターバックス・コーヒー店も都会で見るのとは違って軽くないように見えてしまうし、2階にある食堂も「みかど食堂」と称しているように、厳かな雰囲気である。
 戦前から使用されているという洗面所や手水鉢は、遺産だろう。

 駅を出ると、広いファサードが絨毯をひいたように広がっている。 
 正面に「日本郵船」と「門司三井倶楽部」の時代がかったビルが並んで、一昔前のモダンな都会の空気を醸し出している。
 日暮れ時の薄暗さが“時”を曖昧にさせる演出をしているかのようだ。空は今にも雨が降りそうだが、台風はまだのようである。
 振りかえって門司港駅を見ると、駅とは思えない装麗な建物であることに少し驚かされる。まるで、ヨーロッパの小さな町、アヌシーかマーストリヒトに佇む古城のようだ。
 この建物は1914(大正3)年に建てられた2代目ということだが、駅舎では最初に重要文化財に指定されたというだけあって、美しい。(写真)
 門司港駅と駅前の雰囲気、これを見るためにここへ来たと言ってもいい。

 門司港駅から日本郵船ビルの横の通りの先に、通りを遮るようにクラシックなビルが建っていた。海のすぐ近くだ。この建物が、今日宿泊する予定の旧門司港ホテルのプレミアホテル門司港だった。

 *港町で食べるものは!

 ホテルに荷物を置いて、外へ夕食を食べに出た。
 霧のような雨が降り出した。ホテルの玄関口では、自由に使用できる傘を用意しているのがいい。
 駅近辺の食堂を見て歩いたら、カレー店でないのにカレーをメニューに掲げ、うちにもありますよとPRしているところが多い。よく見ると、どの店も「焼きカレー」とある。ご当地グルメのようだが、焼きカレーなるものを僕は知らなかった。
 町おこしやひょっとしたら町の新しい名物になるかもという意図が見えるこの手のB級グルメ料理は、基本的に僕は好きになれない。
 長崎で「トルコライス」を物は試しに食べたが、理屈はいろいろつけてあるようだがトルコ料理とは何の関係もない料理だ。
 地元佐賀では「シシリアンライス」というのを売り出しているが、ご飯の上に薄切り肉と野菜をのせ、その上にマヨネーズをかけたもので、シシリア(シチリア)とは何の関連性もない。だから、佐賀に行っても食べたことはない。

 海の町、門司港に来ているのだから何もカレーを食べて帰ることはないと、魚を食べさせてくれる寿司店に入った。
 もちろん、下関が有名なフグ刺しも注文した。ビールは、大正時代に生まれた地元の地ビールを復刻させた「サクラビール」である。
 店のテレビでは、W杯ラグビー、日本対ロシア戦を映している。
 外は、霧雨も収まったようだ。微かに潮風の香りがする。

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