かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

遠くまで行くんだ…「60年代ポップ少年」

2017-03-16 01:33:50 | 人生は記憶
 1960年代は、多感な季節であった。
 唐牛健太郎委員長の全学連に象徴される「安保闘争」は、1960年に終焉を迎えた。
 「60年安保」の敗北のあと、学生運動は1960年代後半、セクト主義に分裂しながらも熱は冷めやらぬ政治の季節を迎えていた。
 それは、1968年のフランス・パリ5月革命やサルトルの実存主義の唱道、アメリカの反戦運動と呼応したようなカウンターカルチャーのヒッピー文化、各国に広がったベトナム戦争反対運動などに見られるように、体制に抵抗する世界的状況だった。

 亀和田武著の「60年代ポップ少年」は、小学館のPR誌「本の窓」で連載しているときから面白く読んでいたが、改めて単行本を読んだ。自分と重なる部分も多く、記憶の底に横たわっていたいくつものことを思い出させた。

 亀和田は中・高校時代、アメリカン・ポップスのファンで、当時日本中の若者がビートルズに熱中していたという説に異論を唱えている。当時の同級生が同窓会などで、ビートルズへの熱狂を語ったりすることに、「オマエ、嘘をいっちゃいけないよ。オマエが休み時間に毎日、楽しそうに歌っていたのは、三田明の「美しい十代」と、舟木一夫の「高校三年生」じゃないか」と、思い出の捏造を冷笑している。
 東京の高校に通っていた亀和田にしてそう思わせているのだから、僕の通っていた佐賀の田舎の高校では、ビートルズが出てきたときには、ほとんど大きな話題にはならなかった。僕も、「抱きしめたいI want to hold your hand」などは、うるさい音楽だなあと思ったくらいだ。
 彼らよりベンチャーズの方が人気があり、「ダイヤモンドヘッド」や「パイプライン」のテケテケのピッキング奏法を真似したものである。このことは全国的な風潮だったように思う。
 そして、やはり多くの者は舟木一夫や西郷輝彦の歌を口ずさんでいたものだ。
 やがて、すぐさまビートルズは日本の音楽業界の中で咀嚼されて、日本風にアレンジされたグループ・サウンズ(GS)のブームの出現となる。

 ビートルズが今のように伝説のグループになったのは、日本においては、日本のミュージシャンたちが、好きなミュージシャンもしくは影響を受けたミュージシャンは誰ですか? と訊かれたことに、ことごとく、ビートルズですと言い出したからだろうと思っている。
 やはりビートルズだよな、と誰もが言い出した。ビートルズと言っていれば間違いない、誰からも不満も揚げ足もとられないという、いわば模範解答になってしまった。
 かくして、実力もさることながら、いつの間にかビートルズは音楽上の不可侵領域になってしまった。
 まるで野球好きの少年が、ON(王、長島)です、と言うように。漫画家志望の人間が、手塚治虫です、と言うのもしかり。
 こういう画一的な答えや反応はあまり面白くない。好きなミュージシャンはビートルズですと言われると、ああ、あなたもそうですか、で終わってしまう。もっと個性が表われる返答はないものかと思うのだが。

 *

 亀和田武はポップ少年であると同時に、ジャズやSFファンでもあった。
 1960年代後半、新宿にはフーテンやヒッピーといった人たちがたむろしていた。亀和田少年は好奇心旺盛で活動的だ。渋谷や新宿の街を徘徊する。
 今はない、いくつかのジャズ喫茶の他に、新宿の「風月堂」や「青蛾」など、懐かしい喫茶店が本書に出てくる。特に個人的に忘れられないのは、歌舞伎町にあったヨーロッパの中世の城のような喫茶店「王城」である。

 僕は大学1年の冬、この「王城」と系列店であった新宿東口にできたばかりの喫茶店「西武」で、ボーイ(ウェイター)のアルバイトをした。
 当時の喫茶店「西武」のビルは、1階がパチンコ「メトロ」で、2~3階が喫茶「西武」、4階が同伴喫茶となっていて、その上がキャバレー「メトロ」だったと記憶している。
 4階の同伴喫茶は2、3階に比べて照明が暗く、2人が並んで座るようになっていて、前後のボックスとの間には衝立があり、お互いの客は見えないようになっていた。しかし通路側には衝立がないので、横の客の動作は見ようと思えば見えた。
 2階の喫茶に入ってきた若いカップル(当時はアベックと言っていた)には、僕らボーイはなるだけ上の階の同伴喫茶に行くように誘導した。同伴の階は、値段も割高だった。
 4階まで行って、その薄暗く妖しげな雰囲気に戸惑ってかすぐに3階に戻ってくる客もいたが、この同伴階に来て、何もしないでコーヒーだけ飲んで帰るカップルは少なかったと思う。間違って、あるいは知らないで誘導されるがままに入って、あとで心の中で店に感謝した気の小さい男もいたに違いない。
 今は、「王城」は喫茶店ではなくなってしまったが、東口にある「西武」はまだ健在だ。
 僕はそこでのアルバイトのお金で、その冬、初めての背広(スーツ)を買った。それまでは高校の時からの学生服で通していたのだ。

 *

 今まで亀和田武の著作を読んでいなかったので知らなかったのだが、「60年代ポップ少年」を読んで、彼が学生運動をやっていたということを知った。
 当時は大学に入学すれば、学生運動の洗礼を受けた者も少なくなかったが、彼は浪人の予備校時代からの活動という筋金入りというのも、失礼だが予想外だった。ヘルメットをかぶり、デモにも積極的に参加する、軽いポップ少年だけではなかったのだ。
 そして、デモで知りあった美少女の闘士と恋人となる。「ヘルメットをかぶった君に会いたい」の鴻上尚史に、どうだいといった顔をしているようだ。
 しかし、亀和田が付きあった白いヘルメットをかぶった少女はまだ高校生で、セクトは中核派であった。
 そんななか、彼は「青春の墓標」に強い衝撃を受ける。学生運動の最中、自殺した横浜市大の奥浩平の遺稿集である。当時、奥浩平も中核派に属し、恋人は対立するセクトに属していた。
 亀和田は書いている。「愛と革命に生き、そして死んだ学生活動家がいたことは、私を驚かせた」と。
 僕も、「青春の墓標」に衝撃を受けた一人だった。
 そのことは、このブログで、「恋と革命と死、「青春の墓標」」(2015.8.8)に書いている。

 そして、本書に「遠くまで行くんだ……」という小雑誌が紹介されたことも驚いた。普通の書店には置いてないマイナーな雑誌で、知る人ぞ知る本だったからだ。
 「遠くまで行くんだ…」。その感傷的な響きに、僕は吉本隆明の詩を読んでいなくとも、心震わせた。その薄い小雑誌を当時、僕も何冊か手にしたが、もう遠くのことだ。
 亀和田はその本を何冊かまだ保存しているというのも稀有だし、その本に連載していた新木正人の「更級日記の少女―日本浪漫派批評序説」を懐かしく想い起しているのに二重に驚いた。僕は新木正人がどういう内容を書いていたかはもうすっかり忘れているが、僕の大脳皮質の奥に長い間眠っていた名前だ。

 亀和田武の1960年代は、軽いだけではない。かといって重くもなっていない。生き生きとした当時の熱気ある息吹が伝わってきて爽やかだ。
 本書には、予備校時代に知りあう「香港 旅の雑学ノート」の山口文憲や、大学時代の学生運動の繋がりで笠井潔が出てくるのも、人物の一端を知るうえで興味深い。笠井のデビュー作となった「バイバイ、エンジェル」を読んだとき、その早熟した才能に嫉妬したぐらいだ。
 1960年代の本は、学生運動を含めて何人かが書いているが、亀和田武の本は時代を論評することなくあくまでも私的に、しかもディテールにこだわって書いているのがいい。彼の思考と行動の守備範囲の広さもあって、新鮮な気持ちになった。

 *

 遠くなった、ポップ音楽や青春歌謡、学生運動、恋と喪失……
 感傷ではない。どれもが青春のイニシエーション(通過儀礼)のように思える。
 遠くまで行くんだ……

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