もう、桜の季節も終わろうとしている。月日がたつのは早いものである。
最近観た映画「愛と哀しみの果て(Out of Africa)」(主演:メリル・ストリープ、ロバート・レッドフォード、1985年アメリカ)のなかの台詞にあったように、“先が見通せないのは地球が丸いから”なのか。
なるほど、そうかもしれない。
*
父が建てた墓が佐賀の実家の近くの寺にある。
しかし、父も母も亡くなった今、その家も私が時々帰るのみで空き家同然となった。私を含めた子どもがこの地を離れて遠方に住んでいて、この地に帰ってこないとなると、近くの墓もなおざりにはできず、何とかしないといけない。
田舎の古くなった家(実家)とともに、墓も今日的な問題である。
そのこともあって3月下旬、私は佐賀に帰っていた。
わが家から墓のある寺に行く路地の通りに、小学校時代の同級生の実家がある。墓の寺に行くときはいつもその前を通る。
その同級生の実家も、わが家と同じような経路をたどったようで、近年ずっと寂しい雰囲気が漂う佇まいとなっていた。つまり、子どもである同級生の彼女は長崎に、その妹は関西に住んでいて、両親が亡くなったあとは、空き家に近い状態になっている。
その家は、塀の奥の庭に面した掃き出し窓のカーテンが少し開いていて、家のなかの椅子が見えるのだった。そのカーテンは、いつも意図的にその長さだけ開けてあるように思えるのだが、家のなかに人の気配はない。そして、もう何年もその眺めは変わることがない。
おそらく、かつて窓辺のその椅子に家人が座っていて、晴れた日は庭の外の日差しを浴びていたのだろう。
私は通りのその家の前を通るたびに、あゝ、お父さん、お母さん、そして子供たちが談笑していて、今にでもそのカーテンの隙間から笑い声が聞こえてきそうな気になるのだった。
そして、私が通りで立ちどまると、おもむろにカーテンが開いて、「あら、いつ帰っていらしたんですか」と、声がするような妄想にかられるのだった。
しかし、先日墓へ行くためにその通りを歩いてみると、その家はすっかりなくなり更地になっていた。
もう、その家に住んでいた人たちの笑い声も草むらの中に消えていた。あと何年かするうちに、そこにどんな家があったのかも思い出せなくなるのだろう。
かつて同窓会で会ったとき、その同級生に、今度佐賀に帰ったときに、長崎で食事でもしようかと話していた。
しかし、今回は墓の問題などがあってなかなか電話せずにいて、やっと申し訳の電話をした。
電話で「明日(3月26日)しか時間がないので今回はやめて、次に佐賀に帰ったときにでもしましょうか」と、私は言った。
すると、彼女は「この年になったら、今度というのは来るかどうかわからない。だから、明日にしましょう」と言った。
そうだ、年齢に関係なく、今度とかいつかという約束ほど当てにならないものはない。私は前から、そんな曖昧な約束を嫌っていたはずだ。何か月も先のことなど、どうなるかわからない。私は、自分の不確かな言葉を恥じながら、快く明日会うことにしたのだった。
他にも小学校および中学校時代の同級生が何人か長崎に住んでいるので、連絡しあってみた。急な話にもかかわらず、佐世保を含めて長崎在住の4人ともが快諾をし、私を含めて5人が長崎で会うことになった。
こんなことがあるから、人生は面白い。
*
長崎は好きな街だ。
好きな街はどんなところかと問われると、古さと新しさが混然となった街だと答えるだろう。
ビルの脇の路地を曲がると瓦屋根の平屋の家が佇んでいて、フレンチやイタリアンの洋風レストランの隣にうどん屋があるような街だ。
あるいは、ヨーロッパの旧市街と新市街がある町は歩いていて趣がある。
新しいだけでは潤いがないし、古いだけではときめきが湧かない。何事も、新しさと古さが同居、あるいは拮抗しているところに面白さがある。
それに、路面電車が走る街は、街に落ち着きと物語を与えている。
長崎市には最近の諏訪神社のくんち祭りの目当てを含めて、これまで何回も行った。
くんちのときは、駅から諏訪神社へ行き、そこから庭先回りと言う、祭りの演し物(出しもの)を追って街中を半日さるき通し、最終的には浜町のアーケード商店街に行きつくのだった。その頃には、大体日も暮れていて、その足で新地の中華街に行って食事をして、帰ってくるのが常であった。
ということは、今までは駅から東側の中島川周辺、そして南側に行っていたということだ。
*
今回は、同級生の一人が駅の北側の住吉というところにブティックを開いているというので、そこを訪ねることになった。私の知らない長崎駅の北方面だ。
途中、前から行こうと思っていた松山町近くの、爆心地近くにある平和公園に行くことにした。
まずはその一角にある原爆資料館を訪ねた。ここでは、被爆後の街や人の写真や被爆関連資料が展示してある。長崎型原爆とも呼ばれる「ファットマン」の模型も展示されているのが、何とも複雑な気持ちにさせる。
平和公園には、平和祈念像がある。
右手を天に、左手を水平に伸ばした筋肉隆々の、北村西望作の白い男性像だ。
中学1年のとき修学旅行で、初めて長崎に行った。おそらくグラバー亭や出島にも行ったと思うが、それらの記憶は思い出せないにもかかわらず、この平和記念像だけは鮮明に脳裏に残っている。この白い男性像の逞しさは、当時のひ弱な少年には眩しいほど印象的だった。
そのとき以来の再会であった。その後、「平和」という抽象的な言葉を聞くと、この記念像を思い浮かべる。(写真)
公園に入ったころ、ポツリポツリと小さな雨が落ちてきた。天気予報では雨の予報はなかったのだが、やはり雨が降ったか。「長崎は、今日も雨だった」と、思わず心の中で呟いた。内山田洋とクールファイブの有名な曲名だが、長崎が特別に雨の多い街ではない。
しかし、雨が降っても嫌な思いを抱かせないというのは、歌の効用だろう。
その足で、近くの浦上天主堂に向かった。
浦上天主堂は、残念ながら原爆投下で倒壊消失し、今日の天主堂は1959(昭和34)年に再建、1980年に被災前の赤レンガ造りに改装されたものだ。
天主堂に着いた時には、雨はもうやんでいた。僕の心のように気紛れな雨だ。
友人の営む住吉のスナックに行ったついでに近くを散策していると、路地の奥にある住吉神社に行きついた。長崎特有の急な階段を上がったところに本殿はあり、その横に稲荷神社がある。日本では、いろんな神様が共存しているからね。
日も暮れかかってきたので、食事をすることになり、みんなで平和公園近くの中華料理店に行った。中華は大好きだ。
通りに面してある宝来軒別館は、朱塗りの丸い柱が否が応でも目立ついかにも中華店らしい派手な店構えだが、中に入るとモダンで清々しい雰囲気である。
一人でなく多人数で食する中華のいいところは、メニューをバラエティー豊かに注文できるところにある。
順次、前菜盛合せ、海鮮サラダ、エビシューマイ、麻婆豆腐、青椒牛肉絲、えびのチリソース、焼ビーフン、牛肉とレタス入焼飯と、中華料理の定番を食べた。どれもが、脂っこさを抑制してある洒落た味であった。
*
長崎から特急列車「白いかもめ」に乗って佐賀に向かったときは、すっかり夜も更けていた。窓の外に見える海の地平線も、夜の闇に染まってわからない。
頭の中に浮かんだのは、確かに、明日のこともわからない、ということだ。
やはり、“先が見通せないのは地球が丸いから”なのか。
最近観た映画「愛と哀しみの果て(Out of Africa)」(主演:メリル・ストリープ、ロバート・レッドフォード、1985年アメリカ)のなかの台詞にあったように、“先が見通せないのは地球が丸いから”なのか。
なるほど、そうかもしれない。
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父が建てた墓が佐賀の実家の近くの寺にある。
しかし、父も母も亡くなった今、その家も私が時々帰るのみで空き家同然となった。私を含めた子どもがこの地を離れて遠方に住んでいて、この地に帰ってこないとなると、近くの墓もなおざりにはできず、何とかしないといけない。
田舎の古くなった家(実家)とともに、墓も今日的な問題である。
そのこともあって3月下旬、私は佐賀に帰っていた。
わが家から墓のある寺に行く路地の通りに、小学校時代の同級生の実家がある。墓の寺に行くときはいつもその前を通る。
その同級生の実家も、わが家と同じような経路をたどったようで、近年ずっと寂しい雰囲気が漂う佇まいとなっていた。つまり、子どもである同級生の彼女は長崎に、その妹は関西に住んでいて、両親が亡くなったあとは、空き家に近い状態になっている。
その家は、塀の奥の庭に面した掃き出し窓のカーテンが少し開いていて、家のなかの椅子が見えるのだった。そのカーテンは、いつも意図的にその長さだけ開けてあるように思えるのだが、家のなかに人の気配はない。そして、もう何年もその眺めは変わることがない。
おそらく、かつて窓辺のその椅子に家人が座っていて、晴れた日は庭の外の日差しを浴びていたのだろう。
私は通りのその家の前を通るたびに、あゝ、お父さん、お母さん、そして子供たちが談笑していて、今にでもそのカーテンの隙間から笑い声が聞こえてきそうな気になるのだった。
そして、私が通りで立ちどまると、おもむろにカーテンが開いて、「あら、いつ帰っていらしたんですか」と、声がするような妄想にかられるのだった。
しかし、先日墓へ行くためにその通りを歩いてみると、その家はすっかりなくなり更地になっていた。
もう、その家に住んでいた人たちの笑い声も草むらの中に消えていた。あと何年かするうちに、そこにどんな家があったのかも思い出せなくなるのだろう。
かつて同窓会で会ったとき、その同級生に、今度佐賀に帰ったときに、長崎で食事でもしようかと話していた。
しかし、今回は墓の問題などがあってなかなか電話せずにいて、やっと申し訳の電話をした。
電話で「明日(3月26日)しか時間がないので今回はやめて、次に佐賀に帰ったときにでもしましょうか」と、私は言った。
すると、彼女は「この年になったら、今度というのは来るかどうかわからない。だから、明日にしましょう」と言った。
そうだ、年齢に関係なく、今度とかいつかという約束ほど当てにならないものはない。私は前から、そんな曖昧な約束を嫌っていたはずだ。何か月も先のことなど、どうなるかわからない。私は、自分の不確かな言葉を恥じながら、快く明日会うことにしたのだった。
他にも小学校および中学校時代の同級生が何人か長崎に住んでいるので、連絡しあってみた。急な話にもかかわらず、佐世保を含めて長崎在住の4人ともが快諾をし、私を含めて5人が長崎で会うことになった。
こんなことがあるから、人生は面白い。
*
長崎は好きな街だ。
好きな街はどんなところかと問われると、古さと新しさが混然となった街だと答えるだろう。
ビルの脇の路地を曲がると瓦屋根の平屋の家が佇んでいて、フレンチやイタリアンの洋風レストランの隣にうどん屋があるような街だ。
あるいは、ヨーロッパの旧市街と新市街がある町は歩いていて趣がある。
新しいだけでは潤いがないし、古いだけではときめきが湧かない。何事も、新しさと古さが同居、あるいは拮抗しているところに面白さがある。
それに、路面電車が走る街は、街に落ち着きと物語を与えている。
長崎市には最近の諏訪神社のくんち祭りの目当てを含めて、これまで何回も行った。
くんちのときは、駅から諏訪神社へ行き、そこから庭先回りと言う、祭りの演し物(出しもの)を追って街中を半日さるき通し、最終的には浜町のアーケード商店街に行きつくのだった。その頃には、大体日も暮れていて、その足で新地の中華街に行って食事をして、帰ってくるのが常であった。
ということは、今までは駅から東側の中島川周辺、そして南側に行っていたということだ。
*
今回は、同級生の一人が駅の北側の住吉というところにブティックを開いているというので、そこを訪ねることになった。私の知らない長崎駅の北方面だ。
途中、前から行こうと思っていた松山町近くの、爆心地近くにある平和公園に行くことにした。
まずはその一角にある原爆資料館を訪ねた。ここでは、被爆後の街や人の写真や被爆関連資料が展示してある。長崎型原爆とも呼ばれる「ファットマン」の模型も展示されているのが、何とも複雑な気持ちにさせる。
平和公園には、平和祈念像がある。
右手を天に、左手を水平に伸ばした筋肉隆々の、北村西望作の白い男性像だ。
中学1年のとき修学旅行で、初めて長崎に行った。おそらくグラバー亭や出島にも行ったと思うが、それらの記憶は思い出せないにもかかわらず、この平和記念像だけは鮮明に脳裏に残っている。この白い男性像の逞しさは、当時のひ弱な少年には眩しいほど印象的だった。
そのとき以来の再会であった。その後、「平和」という抽象的な言葉を聞くと、この記念像を思い浮かべる。(写真)
公園に入ったころ、ポツリポツリと小さな雨が落ちてきた。天気予報では雨の予報はなかったのだが、やはり雨が降ったか。「長崎は、今日も雨だった」と、思わず心の中で呟いた。内山田洋とクールファイブの有名な曲名だが、長崎が特別に雨の多い街ではない。
しかし、雨が降っても嫌な思いを抱かせないというのは、歌の効用だろう。
その足で、近くの浦上天主堂に向かった。
浦上天主堂は、残念ながら原爆投下で倒壊消失し、今日の天主堂は1959(昭和34)年に再建、1980年に被災前の赤レンガ造りに改装されたものだ。
天主堂に着いた時には、雨はもうやんでいた。僕の心のように気紛れな雨だ。
友人の営む住吉のスナックに行ったついでに近くを散策していると、路地の奥にある住吉神社に行きついた。長崎特有の急な階段を上がったところに本殿はあり、その横に稲荷神社がある。日本では、いろんな神様が共存しているからね。
日も暮れかかってきたので、食事をすることになり、みんなで平和公園近くの中華料理店に行った。中華は大好きだ。
通りに面してある宝来軒別館は、朱塗りの丸い柱が否が応でも目立ついかにも中華店らしい派手な店構えだが、中に入るとモダンで清々しい雰囲気である。
一人でなく多人数で食する中華のいいところは、メニューをバラエティー豊かに注文できるところにある。
順次、前菜盛合せ、海鮮サラダ、エビシューマイ、麻婆豆腐、青椒牛肉絲、えびのチリソース、焼ビーフン、牛肉とレタス入焼飯と、中華料理の定番を食べた。どれもが、脂っこさを抑制してある洒落た味であった。
*
長崎から特急列車「白いかもめ」に乗って佐賀に向かったときは、すっかり夜も更けていた。窓の外に見える海の地平線も、夜の闇に染まってわからない。
頭の中に浮かんだのは、確かに、明日のこともわからない、ということだ。
やはり、“先が見通せないのは地球が丸いから”なのか。
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