
「安保闘争」。その言葉は、聞く人の年代によって違った響きを持っているのだろう。
「60年安保」は、それからすでに半世紀が過ぎもはや「歴史」となっているが、その言葉はずっしりと重い。
当時僕はまだ少年で、それが何を意味するか理解してはいなかったが、反対を唱え国会を取り巻いた学生のデモ隊が「全学連」と呼ばれて、政府の指令の元の機動隊とせめぎ合い闘っていたことは、新聞やニュースなどで知っていた。
全学連という言葉は、あっという間に普通に使われる名詞になっていた。「ゼンガクレン」を子どもも知っているぐらい、それは大きな社会的出来事であった。
それまでの既成左翼の日本共産党から離れ、その新しい全学連を主導する学生組織であるブント(共産主義者同盟)の委員長が、当時北大生の唐牛健太郎という男だった。
1960(昭和35)年、日米安全保障条約(安保条約)に反対する闘争のなかで、デモ隊のなかにいた東大の学生だった樺美智子が死に、結局反対闘争は敗北した。
同時期、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱でも大きな闘争が行われていた。
それが、会社の合理化に反対した労働者組合の無期限ストライキを含む闘争で、「総資本対総労働の対決」として連日報道されていた三池争議である。
この三池争議も結局労働組合側の敗北に終わり、石炭から石油への政策転換のなかで、三井三池炭鉱も閉山に向かうことになる。
1960年は、安保闘争と三池闘争(争議)という二つの闘争が同時期行われた年なのである。
60年安保闘争の敗北後、学生運動は四分五裂し衰退の一途をたどる。
敗北したとはいえ、岸内閣を退陣に追い込み、労働者を含め全国民をも巻き込んだこの闘争は、学生運動の発火点であり社会を巻き込んだ戦後最大の反政府闘争とも言えた。
それ故、60年安保闘争の運動は、多くの人の心に刻み込まれているのだと思う。
*
60年安保を闘った学生たちは、その後さまざまな道に進んだ。
そのまま運動を続けた者や大学を辞めた者もいるが、多くが大学に戻り、再び独自の道を進むことになる。
全学連の委員長を辞めた後の唐牛健太郎は、大学にも戻らず、身一つで社会に飛び込んでいく。
「唐牛伝」(小学館刊)は、その唐牛健太郎の半生、いやそう長くはなかった一生を綴ったドキュメンタリーである。サブタイトルに「敗者の戦後漂流」とあるように、唐牛を含め、当時闘争に参加したその後の足跡をたどった戦後私史ともなっている。
著者は、「カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」」、「甘粕正彦 乱心の曠野」、「あんぽん 孫正義伝」など、徹底した人物取材で定評のあるドキュメンタリー作家、佐野眞一。
佐野は、2012年「週刊朝日」に掲載された橋下徹の記事が差別内容であると批判され裁判となり、沈黙を余儀なくされたあとの渾身の一作である。
本書は、唐牛健太郎が深くかかわった「60年安保闘争」と、その後を検証した書であるが、全学連誕生の前夜から紐解いてあり、当時の学生運動の萌芽と生成への流れがよくわかる。
僕が学生時代に見た大島渚監督の「日本の夜と霧」(1960年制作)は安保闘争前夜の学生運動を描いたものだが、公開から4日で打ち切られた幻の映画だった。
60年安保闘争敗北後、闘争の実態を語る人が少なかったこともあって、映画を見た当時は大島が言おうとしていることがよくわからなかった。だが、本書を読んでいるうちに、こういう状況だったのかとこの映画を思い起こしたのだった。
1960年前後の学生運動は、日本の夜と霧の中にいたのだ。
*
唐牛健太郎は、安保闘争後は、各界で活躍する仲間たちを尻目に、ある意味では無名の人生を生き、47歳という短い人生を終えた。
あるときは堀江健一とヨットスクール経営、あるときは居酒屋店主、はたまた漁師と職を変え、鹿児島県与論島、厚岸、紋別、喜界島、東京と日本中を転々とした。
唐牛が関わった人物も学生運動時の闘士、高名な学者をはじめとし、右翼の大物、ヤクザの組長など多士済々で、まるで小説の主人公のようであり、まさに波乱万丈の一生だったといえる。それだけに、唐牛健太郎の人物の大きさがわかる。
意外な発見もあった。小学館のPR雑誌「本の窓」に桐島洋子が自伝エッセイを連載しているが、そのなかで彼女が唐牛とつきあっていたことが書かれていて驚いた。全学連の委員長と若い女性編集者(当時桐島は「文芸春秋」の編集者)は、二人ともおおらかで屈託がなく気持ちがいい。本書でも、桐島のことは出てくる。
また、本書では60年安保を闘った他の男たちのその後もたどってあり、多くの証言を拾い集めた重層な安保史となっている。
1955年の日本共産党第6回全国協議会(「六全協」)における共産党の大幅な路線変更を契機として、共産党から除名された学生たちが中心となって組織された共産主義者同盟(ブント)が、新しい全学連を誕生させる。
このとき、来たる60年安保を前にして、島成郎(全学連・ブント書記長、東大医)は、東大、京大で多くを占めていた首脳陣を見て、この状態では組織がまとまるのが難しいとみてとる。そこで、明朗快活で裏表のない性格の北大の唐牛健太郎に委員長の白羽の矢を立て、彼を説得して委員長に推す。
このような状況下、誰もが予想しなかった唐牛健太郎の委員長が生まれる。
60年安保闘争時の錚々たる闘士たちのその後も、実に興味深い半生である。本書に登場する主な人物を以下に記しておこう。
島成郎(全学連・ブント書記長、東大医、精神科医)、青木昌彦(東大経、経済学者)、篠原浩一郎(九大経)、西部邁(東大経、評論家)、清水丈夫(東大経)、北小路敏(京大経)、柄谷行人(東大経、評論家)、東原吉伸(全学連財政部長、早大2文)、他。
さらに、文化・知識人、大物有名人も多数登場する。
鶴見俊輔、清水幾太郎、吉本隆明、埴谷雄高、長部日出男(当時「週刊読売」、作家)。
田中清玄、田岡一雄、児玉誉士夫、町井久之。
堀江健一、徳田虎雄、他。
女性も書き加えておかなければいけない。
津坂和子(北大卒、唐牛の元妻)、真喜子(唐牛の妻)、石田早苗(北小路敏の元恋人、劇団民藝、青木昌彦と結婚)、吉行和子、加藤登紀子、桐島洋子、他。
唐牛健太郎の人間的な側面を表わした発言も、付加しておきたい。
「女優で熱をあげたのは嵯峨美智子で、男優では高倉健と菅原文太」
「入れあげた歌手は藤圭子と小林旭。小説家では断然筒井康隆だ。」
「1984年2月13日、癌による脳の手術を受け、4時間の大手術のあとの第1声がよく口ずさんでいた小林旭の「さすらい」だったという。」
同年3月4日、唐牛健太郎死去。
いまだ霧の中のように明確にはわからなかった60年安保闘争と唐牛健太郎の人物像が、この本で少しは見えてきた。
「60年安保」は、それからすでに半世紀が過ぎもはや「歴史」となっているが、その言葉はずっしりと重い。
当時僕はまだ少年で、それが何を意味するか理解してはいなかったが、反対を唱え国会を取り巻いた学生のデモ隊が「全学連」と呼ばれて、政府の指令の元の機動隊とせめぎ合い闘っていたことは、新聞やニュースなどで知っていた。
全学連という言葉は、あっという間に普通に使われる名詞になっていた。「ゼンガクレン」を子どもも知っているぐらい、それは大きな社会的出来事であった。
それまでの既成左翼の日本共産党から離れ、その新しい全学連を主導する学生組織であるブント(共産主義者同盟)の委員長が、当時北大生の唐牛健太郎という男だった。
1960(昭和35)年、日米安全保障条約(安保条約)に反対する闘争のなかで、デモ隊のなかにいた東大の学生だった樺美智子が死に、結局反対闘争は敗北した。
同時期、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱でも大きな闘争が行われていた。
それが、会社の合理化に反対した労働者組合の無期限ストライキを含む闘争で、「総資本対総労働の対決」として連日報道されていた三池争議である。
この三池争議も結局労働組合側の敗北に終わり、石炭から石油への政策転換のなかで、三井三池炭鉱も閉山に向かうことになる。
1960年は、安保闘争と三池闘争(争議)という二つの闘争が同時期行われた年なのである。
60年安保闘争の敗北後、学生運動は四分五裂し衰退の一途をたどる。
敗北したとはいえ、岸内閣を退陣に追い込み、労働者を含め全国民をも巻き込んだこの闘争は、学生運動の発火点であり社会を巻き込んだ戦後最大の反政府闘争とも言えた。
それ故、60年安保闘争の運動は、多くの人の心に刻み込まれているのだと思う。
*
60年安保を闘った学生たちは、その後さまざまな道に進んだ。
そのまま運動を続けた者や大学を辞めた者もいるが、多くが大学に戻り、再び独自の道を進むことになる。
全学連の委員長を辞めた後の唐牛健太郎は、大学にも戻らず、身一つで社会に飛び込んでいく。
「唐牛伝」(小学館刊)は、その唐牛健太郎の半生、いやそう長くはなかった一生を綴ったドキュメンタリーである。サブタイトルに「敗者の戦後漂流」とあるように、唐牛を含め、当時闘争に参加したその後の足跡をたどった戦後私史ともなっている。
著者は、「カリスマ 中内功とダイエーの「戦後」」、「甘粕正彦 乱心の曠野」、「あんぽん 孫正義伝」など、徹底した人物取材で定評のあるドキュメンタリー作家、佐野眞一。
佐野は、2012年「週刊朝日」に掲載された橋下徹の記事が差別内容であると批判され裁判となり、沈黙を余儀なくされたあとの渾身の一作である。
本書は、唐牛健太郎が深くかかわった「60年安保闘争」と、その後を検証した書であるが、全学連誕生の前夜から紐解いてあり、当時の学生運動の萌芽と生成への流れがよくわかる。
僕が学生時代に見た大島渚監督の「日本の夜と霧」(1960年制作)は安保闘争前夜の学生運動を描いたものだが、公開から4日で打ち切られた幻の映画だった。
60年安保闘争敗北後、闘争の実態を語る人が少なかったこともあって、映画を見た当時は大島が言おうとしていることがよくわからなかった。だが、本書を読んでいるうちに、こういう状況だったのかとこの映画を思い起こしたのだった。
1960年前後の学生運動は、日本の夜と霧の中にいたのだ。
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唐牛健太郎は、安保闘争後は、各界で活躍する仲間たちを尻目に、ある意味では無名の人生を生き、47歳という短い人生を終えた。
あるときは堀江健一とヨットスクール経営、あるときは居酒屋店主、はたまた漁師と職を変え、鹿児島県与論島、厚岸、紋別、喜界島、東京と日本中を転々とした。
唐牛が関わった人物も学生運動時の闘士、高名な学者をはじめとし、右翼の大物、ヤクザの組長など多士済々で、まるで小説の主人公のようであり、まさに波乱万丈の一生だったといえる。それだけに、唐牛健太郎の人物の大きさがわかる。
意外な発見もあった。小学館のPR雑誌「本の窓」に桐島洋子が自伝エッセイを連載しているが、そのなかで彼女が唐牛とつきあっていたことが書かれていて驚いた。全学連の委員長と若い女性編集者(当時桐島は「文芸春秋」の編集者)は、二人ともおおらかで屈託がなく気持ちがいい。本書でも、桐島のことは出てくる。
また、本書では60年安保を闘った他の男たちのその後もたどってあり、多くの証言を拾い集めた重層な安保史となっている。
1955年の日本共産党第6回全国協議会(「六全協」)における共産党の大幅な路線変更を契機として、共産党から除名された学生たちが中心となって組織された共産主義者同盟(ブント)が、新しい全学連を誕生させる。
このとき、来たる60年安保を前にして、島成郎(全学連・ブント書記長、東大医)は、東大、京大で多くを占めていた首脳陣を見て、この状態では組織がまとまるのが難しいとみてとる。そこで、明朗快活で裏表のない性格の北大の唐牛健太郎に委員長の白羽の矢を立て、彼を説得して委員長に推す。
このような状況下、誰もが予想しなかった唐牛健太郎の委員長が生まれる。
60年安保闘争時の錚々たる闘士たちのその後も、実に興味深い半生である。本書に登場する主な人物を以下に記しておこう。
島成郎(全学連・ブント書記長、東大医、精神科医)、青木昌彦(東大経、経済学者)、篠原浩一郎(九大経)、西部邁(東大経、評論家)、清水丈夫(東大経)、北小路敏(京大経)、柄谷行人(東大経、評論家)、東原吉伸(全学連財政部長、早大2文)、他。
さらに、文化・知識人、大物有名人も多数登場する。
鶴見俊輔、清水幾太郎、吉本隆明、埴谷雄高、長部日出男(当時「週刊読売」、作家)。
田中清玄、田岡一雄、児玉誉士夫、町井久之。
堀江健一、徳田虎雄、他。
女性も書き加えておかなければいけない。
津坂和子(北大卒、唐牛の元妻)、真喜子(唐牛の妻)、石田早苗(北小路敏の元恋人、劇団民藝、青木昌彦と結婚)、吉行和子、加藤登紀子、桐島洋子、他。
唐牛健太郎の人間的な側面を表わした発言も、付加しておきたい。
「女優で熱をあげたのは嵯峨美智子で、男優では高倉健と菅原文太」
「入れあげた歌手は藤圭子と小林旭。小説家では断然筒井康隆だ。」
「1984年2月13日、癌による脳の手術を受け、4時間の大手術のあとの第1声がよく口ずさんでいた小林旭の「さすらい」だったという。」
同年3月4日、唐牛健太郎死去。
いまだ霧の中のように明確にはわからなかった60年安保闘争と唐牛健太郎の人物像が、この本で少しは見えてきた。
はじめて投稿します。
書評、映画評、旅の記録と実にバラエテイーにとんでいますね。感心します。
唐牛がこれほどの広範囲の人に影響を与えていたとは知りませんでした。
警察は彼だけは許さないと妨害していたようですね。