かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

釜山港へ帰れ -- 韓国への旅①

2008-05-20 02:42:36 | * 韓国への旅
 1970年代後半に、「演歌の源流を探る」と銘打って、韓国の歌手、李成愛が歌った「釜山港に帰れ」が日本で流れた。それまで、「アリラン」などの古い歌が紹介されることはあったものの、韓国の歌が日本で流れるのは珍しいことだった。
 「釜山港へ帰れ」は、あたかも日本の流行歌のように歌われた。その李成愛がレコードのPRのために来日した際、当時雑誌で音楽欄を担当していた僕のところに、レコード会社の宣伝担当が彼女を連れてきた。会うと、彼女が日本語を流暢に話したのには驚いた。それに、かなりのインテリだった。
 しかし、残念なことに彼女はすぐに結婚し、あっさり歌手を引退してしまった。 その曲が日本でヒットしたのは、それよりしばらくたった80年代になってからで、当時の韓国人気歌手チョー・ヨンピルによってだった。
 僕が歌にひかれて、韓国へ旅したのは1985年のことだった。
 当時まだ韓国は近くて遠く国で、ビザが必要な国だった。それに複雑な歴史関係もあって、海峡を越えるには何か二の足を踏むものがあった。日本には韓国の現実を知る文化や風俗の情報はほとんど入ってこなかったし、韓国でも日本の歌や映画などの文化の流入は一部を除いて規制していた。
 それでも、何か惹かれるものが存在していた。
 「椿咲く、春なのに……トラワヨ、プサンハンヘ……」
 僕は、一人船で釜山へ渡った。
 当時、下関(山口)から釜山へ、週3便の船が行き来していた。下関の港は、国際港の風景とは程遠く、侘しささえ漂わせていた。
 夕方、下関を出た船は、翌日の早朝釜山の港に入っていった。
 そのときは、釜山から慶州、そしてソウルに行き、再び釜山へ戻る旅だった。

 *

 最近は、福岡から釜山までフェリーが出ていて、気軽に韓国に行けるのは知っていた。
 この5月、佐賀の実家に帰っていた僕は、佐賀の駅前でそのフェリーのチラシを見て、ふと釜山へ行くことを思いたった。
 5月14日(水)福岡港10時15分発、釜山港13時10分着の便を予約した。5日間のお得なチケットを買った。とりあえず、その日に釜山から列車でソウルまで行こうと計画した。

 5月14日、僕にしては早く家を出た。というのも、特急の停まらない佐世保線の在来線は本数が少ないのだ。
 最寄りの駅を7時1分に出て、肥前山口発7時14分発の特急みどり2号に乗ると、博多駅に8時11分に着く。博多駅前から港へはバスで15分ぐらいで着くので余裕の時間だ。
 肥前山口駅を出て次の佐賀駅の間の列車の中で、パスポートを入れている小さなショルダーバッグを家に置いてきているのに気づいた。ああ、何としたことだ。
 戻るしかない。
 戻るとなると、予約したチケットは無駄になり、計画を立て直さないといけないと思った。
 佐賀駅から肥前山口を経由して家に戻ったとき、時計を見たら8時30分だった。このまますぐ次の8時42分発の列車に乗り、肥前山口で特急に乗り換えても、博多駅着は9時53分で、博多港の出航時間10時15分に間に合わないだろう。
 船の案内書を改めて見たら、出航45分前にチェックインを済ませるように、30分前に出国審査を済ませるように、15分前までに乗船口に入るようにと記載されている。
 そして、船の時刻表を見たら、あいにくその日(水曜日)の次の便は15時発までなく、それに乗ると18時ごろに釜山着で、その日のうちにソウルに行くのが難しくなる。
 それで仕方ないと思い直し、次の便の席が空いているかどうか、家に着いて船の予約センターに電話を入れた。
 「すみません、10時15分発の船に乗る予定なのが遅れまして、電車が博多駅に着くのが9時53分で、それからそちらに行ったのでは、出航手続きは無理ですよね。間に合いそうもありませんので、キャンセルしたいのですが」
 すると、電話に出た受付の人が、「当日キャンセル料の払い戻しは出航時間の10時15分前までに申し出てください。間に合うかどうかは、私のほうでは分かりませんから、来てからにしてください」と、意外な返事が返ってきた。
 要するに行ってみることだ、と思わせた。いや、一瞬そう思った。
 僕は、もう一度時間を巻き戻すように、再び家を出て最寄りの駅に走った。
そこから肥前山口9時7分の特急みどり6号に乗り換え、博多駅に着いたのが定刻通り9時53分。
 すぐに駅前でタクシーを拾って、運転手さんに「すみません、10時15分の船に乗りたいのですが、博多港国際ターミナルまで急いでくれませんか」と言うと、運転手は「10時まであと2分しかないので、それは大変ですな」と他人事のように言いながら(まあ、他人事であるのだが)、追い越し車線を要領よく突っ走ってくれた。
 博多港に着いたのが、10時5分。
 走って、乗船カウンターのところへ向かった。見えるのは、受付け嬢がカウンターに3人並んでいるだけで、もちろん客は誰一人としていないがらんどうだ。
 「10時15分の船に乗りたいのですが」とカウンターで僕が予約チケットを差し出すやいなや、受付嬢は船内に電話連絡している。指示されるまま、僕にしては迅速で無駄のない動きで矢継ぎ早の出国手続きを行い、完了が10時10分。
 汗をかきながら船に乗ったのは、出航4分前だった。
 出航は、定刻通り。
 何はともあれ、諦めかけていた予定の船に乗れたのだった。
 やれやれ、出発前から波乱含みであった。

 *

 13時10分、船は釜山港に滑り込んだ。
 23年前の「釜山港へ帰れ」の哀愁はない。
 あのときはハングルも分からず(今でも分からないが)、英語も日本語も通じないであろうという不安が胸をよぎっていた。それに、一人何の目的もなく、ぶらりとバッグを下げて船を降りる人間もいなかった。

 港内の銀行で、適当な額をウォンに両替して(円との交換比率は、100円が973ウォン(W)であった)、港を出た。
 釜山の街は一変していた。遠く、高層ビルが筍のようににょきにょきと聳えている。
 とりあえず、ソウルへの高速列車(KTX)やセマウル号の発着駅である釜山駅に行くことにした。それには、地下鉄が一番便利なようだ。地図を見ながら、近くの地下鉄中央洞駅に出た。
 地下鉄の改札口の自動販売機の前で、ぼんやり路線図を見ていたら、すぐに「どちらへ行くのですか」と訊いてくれる人が出てきた。そして、こうするのだと、やり方を示してくれた。路線図は、ハングルのほか漢字も併記されているので分かりやすい。
 韓国の地下鉄は、まず路線図で行き先の料金を確認して、ボタンを押して金額が表示されたら、お金を入れるというものだ。初乗りは大体1,000Wか1,100Wである。
 コインしか通用しないところもある。そういうところでは、窓口で買えばいい。
 改札は、チケットを切符穴に入れて、ハンドルのようなバーを回転させて中へ入り、出てきたチケットを取るというもの。あのパリのメトロと同じ、古いタイプだ。

 釜山駅に着いた。
 駅も、近代的な建物に豹変していた。
 駅ビルの中の本屋で、すぐに時刻表を買った。韓国の時刻表は、表の左渕にハングルで、同じ行の右渕に漢字で地名が載っているので分からないことはない。
 列車は速ければいいというものではないが、夜あまり遅くならないうちにソウルに着きたかったので、KTXに乗ることにした。KTXは、フランスのTGVシステムを導入した高速列車で、ソウルと釜山を結んでいる。ソウルからの帰りに、ゆっくりした普通列車に乗ればいい。
 窓口で、ソウルまでのKTXのチケットを頼むと、「14時台は無理なので、15時30分発はどうですか」と係りの女性が言った。そして、「通路側ですがいいですか」と訊いた。
 僕が、「窓側はないですか」と頼んでいると、僕が日本人だと分かった隣りにいた年配の係りの女性が、僕に応対していた係りの席に近づいてきてパソコンをいじりながら、「この列車は座席が後ろ向きになりますが、次の15時50分の列車でしたら前向きで窓側が取れます。それに、ソウルに着く時間は大して変わりません」と、日本語で口出ししてくれた。
 時刻表を見ると、20分遅れの発車なのに、到着は3分遅れにしか過ぎなかったので、その列車に決めた。
 韓国人の親切なおせっかいもいいものだ。

 KTXは、車幅は普通列車と変わらなく通路を挟んで2座席ずつだ。赤いジャケットを着たアテンダントが車内を案内する。
 僕の隣に座ったのは中年のおじさんで、すぐに茹でたスルメを取り出して食べだした。大分食べてから、僕にどうですかと裂いて渡した。僕が結構ですと断ると、バッグからお菓子(ビスケット)を取り出して、それを渡した。僕が、またいいですと断るジェスチャーをすると、彼はバッグから同じ菓子を取り出し、まだあるんだよという素振りをして笑った。僕は、今度は快く受け取った。
 そして、おじさんは名刺を出して、自分の仕事のことを韓国語とかたことの英語を交えながら喋りだした。僕は、時折頷きながら、車窓に目を取られていた。
 釜山を離れると、美しい田園がここかしこに広がった。流線的な不規則な棚田が、アナログ的な韓国人の人間性を表しているように見えた。
 KTXは、釜山から東大邸、大田に停まっただけで、ソウルに18時33分に着いた。
 ソウルに着くと、すぐに地下鉄で明洞(ミョンドン)に行き、その近くでホテルをとった。ソウルは、明洞から始まると言っていい(と思っていた)。

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