かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

ソウルの街の灯り――韓国の旅②

2008-05-22 00:53:16 | * 韓国への旅
 5月14日の夜、釜山から列車でソウルに着いた僕は、すぐにソウル随一の繁華街明洞(ミョンドン)に向かった。
 23年前も、明洞にあるホテルに泊まったのだった。
 そのときのことだ。夜、この通りを一人歩いた。新宿のようの猥雑さを感じて、僕は好きな街だと直感した。まだ街としては混沌としていたが、エネルギーが漂っていた。本屋には、日本のファッション雑誌が並んでいた。
 ぶらぶらと明洞の通りを歩いていると、若い男が近づいてきて「日本人ですか?」と訊いてきた。僕は、「どうして、僕が日本人と分かったのか?」と訊き返した。すると、その男は僕の足を指差して、少しにやりと笑って、どうですとばかりに言った。「その靴は、韓国では売っていません」。
 そのとき僕は、レノマのツートンカラーのカジュアルな靴を履いていた。そして、なるほど、こんなところまで見ているのかと、妙に感心したのだった。
 その頃、韓国人は西欧の風俗に飢えていたのかもしれない。かつての日本がそうだったように。

 今の韓国は、日本と同じでどんなブランドものでもあるだろう。
 いや、通りの露店では、ヨーロッパの有名なブランド品が日本では買えない超格安で売っている。いや正確に言うと、ブランドモドキであるが。
 明洞に、ユニクロもあった。何だか、高級品店の雰囲気である。まあ、ユニクロが銀座4丁目に進出する時代であるから、どこにあっても驚くことはないだろう。
 ソウルの発展は、ドラマ「冬のソナタ」の街並みで垣間見ることができた。
 明洞の通りを歩いていると、ここが韓国だということを忘れてしまうほどだ。行き交う人も顔も日本人と変わらない。ハングル文字だって、東京の赤坂や新宿・大久保通りを通れば氾濫している。

 明洞の1軒の料理店に入って、海鮮鍋を食べた。
 様々なキムチが付け出しとして、並べられるのがいい。
 韓国では、ご飯や麺を頼んでも、何種類かのキムチが自動的に付く。それに、このキムチはお代わり自由だから、なんとも嬉しい。インドでターリー(定食)を頼むと、何種類かのカレーのおかず皿が付くのと同じだ。
 キムチは当然辛いので、ビールが美味い。いや、ビールがすすむ。
 でも、韓国のビールは少し水っぽいと感じる。料理が辛いからばかりとは言えない気がする。アルコール度数は、4.5度と表示。
 明洞の夜は、いつまでも暮れないのではと思うように、ネオンがきらめいていた。(写真)

 翌5月16日は、明洞から南西にある南大門の方へ歩いてみる。
 南大門は、韓国国宝1号(事務上の意味だが)で、今年放火で門の上の建物が消失したところだ。
 行ってみると、復元修復のため囲ってあり、その囲いには元の姿の絵が描かれていた。車で通り過ぎたなら、そこにそんな建物があっただろうと思わせるような、おそらく原寸大の絵なのだろう。復元までには22億円の費用と数年を要するそうだ。
 南大門の近くには市場がある。
 ここはすごい。アメ横をもっと路地裏っぽくした感じで、露店がひしめいている。それに、安い。特に、海苔は小さな箱入りになっていて、抱えるように積まれて日本円で500円とかの値段だ(さらにもっと安い値段のところもあるようだ)。

 南大門から北に歩いて行くと、徳寿宮があった。
 正面に、大漢門が聳えている。秀吉の壬辰の乱(文禄の役)で、一度すべての宮殿が焼かれたのだが、その後、皇宮となったところだ。
 いきなり、古式豊かな服を着た将校の行進が始まった。旗を持ち、剣を持っている。服装も華やかだ。あの「チャングムの誓い」の王の将校のようないでたちである。
 守門将交代式が行われたのだった。
 通行人や観光客はみんな足を止め、門の前は通行止めになるほどの人だかりとなった。
 モナコの王宮でも、定刻にこの式が行われるが、規模と華やかさでは韓国が勝っている。
 日本の皇居でも行われれば、観光としてもっと人気になるのではと、思ってしまった。

 夜は、再び明洞に戻り、プルコギにキムチである。
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