5月16日(金)、日も暮れて暗くなった頃、仏国寺からホテルのある慶州のバスターミナルに戻った僕は、食事をするところを求めて灯りのある通りを散策した。
バスターミナル周辺が、慶州の街の中心だろうか。いくつも交錯する路地には、ぽつりぽつりと灯りが点り、食堂や小さなお店やコンビニが点在するのだが、人通りが少ない。歩いて感じるのは、若い人が集まる店がないのだ。だから、華やかさ、陽気さがない。
やはり、この街は遺跡や寺院を見てまわるところなのだ。僕のように、街の猥雑さに引かれて旅する者には物足りない。
路地を歩きまわった末に、地元の人間が何人か食事している食堂に入った。玄関の上の壁には、何種類かの料理の写真が並んでいる。地元の人間が食べている店だから、まずくはないだろう。
店に入ると、壁にハングルと値段が書いてある紙が貼ってある。しかし、見てもさっぱり分からない。テーブルに座った僕が、主人にメニューないかと言うと、主人は玄関を指さした。あの壁に貼ってある写真を見ろというのだ。
美味そうな鍋の写真を指さし、あれをくれと言うと、主人はあれはやめた方がいいというジェスチャーをした。
僕は、テーブルに戻りガイドブックを取りだし、写真によく似たキムチジョングル(キムチ鍋)を指さし、これはないですかと訊いた。
すると、主人は、これは4人前で、1人は無理だと重ねて言った。主人が話すのは韓国語だから、意思伝達がもどかしい。散々やりとりをしたあと、主人が勧める○△□にした。
出てきたのは、小さな鍋で、豚の骨付き肉と野菜をキムチ味の汁で煮込んだカムジャタンのようなものだった。ご飯とキムチが出され、鉄の箸とスプーンが置いてある。一人用にはちょうどいい量だ。
僕が、豚の骨付きをかぶりついていると、僕が店に入ってきたときからずっと僕を見ていた、前のテーブルにいた男が、こうして食うのだと箸を持って、手本を示そうとする。男には連れの別の男がいたのだが、もう話すこともなく飽きていたところに、僕が入ってきたのだろう。すでに、相当焼酎も飲んでいるようだ。野卑な顔だが、悪い人間ではなさそうだ。
僕が、うんうんと頷くと、皿にご飯はこの鍋にスプーンで入れるのだと、男は僕のテーブルまでやって来て、僕の手にスプーンを握らせようとする。
僕も、面白いから、彼の言葉としぐさに頷いていたら、彼は僕に焼酎はどうかと勧めた。僕はビールを飲んでいたので、断わった。それでも、彼は僕の食べるのをまじまじと見るのをやめず、どうだコリアン、グーだろうと、目が合うたびに女お笑い芸人のように「グー」を連発した。
そのうち、男の連れも帰り、僕もあまり見られるのにうんざりしたので無視を決め込んだら、男は名刺を取りだし僕に渡した。それをうんうんと受け取って見たが、FM○○と数字番号がいくつか書かれていたが、どんな職業かよく分からない。想像するに、書いてあるのはFMラジオの周波数で、運転しながらそこに合わせるための数字で、長距離運転手ではないかと、勝手に思った。
彼は、連れもいなくなり、僕も反応(対応)しなくなったので、やることがなくなり、酒ももういっぱいになったようで、「テレフォン、テレフォン」と僕に言って出ていった。
店の主人は、苦笑いをしていた。
慶州の街をよく知らずして、その夜はホテルに帰って寝ることにした。バスの運転手が紹介した僕が泊まるホテルは、モーテルである。
やはり、モーテルはカップルで入るところかなと思った。というのも、ベッドの前の台に避妊具が置いてあるではないか。何だか複雑な気持ちでベッドに入った。
でも、運転手は何の注釈もなく、好意で僕にこのモーテルを紹介したし、受付のお姉さんも、何の違和感も抱かせず、にこにこと受け付けた。
韓国では、モーテルは、シングルでもカップルでもいいのだろう、多分。そして、車でも徒歩でも。
*
慶州は、長年、新羅の王朝があったところである。
日本がまだ倭と呼ばれていた時代、朝鮮半島は、百済、任那と新羅がしのぎを削っていた。そして、北の方からは高句麗が進出してきていた時代である。7世紀、新羅は朝鮮半島(北の方を除き)をほぼ統一する。
紀元前1世紀から10世紀、新羅が高麗に取って代わられるまで、慶州に都があった。当時は金城といっていて、高麗太祖によって935年、慶州となった。
ところが何と、歴史を紐解くと、987年から1012年まで慶州は東京と改称している。その後、再び慶州と戻したが、東京のまま今日までいたなら、日本の東京(明治に江戸から改称)はなかったであろう。
だが、よく調べてみると、ベトナムのハノイが歴史的に東京城と呼ばれ、ヨーロッパ人がトンキン王国と呼んでいた時代があった。
ちなみに、北京、南京は中国にあり、東京は日本である。残りの西京は、どこにもないようだ。
室町時代、京都の西で栄えた山口を、明治期に遷都した東京に対し京都を、それぞれ西京と言ったことがあるようだが正式名称ではない。
慶州は、あちこちに遺跡が残っている。
バスの中からでも、あちこちに円墳が見える。
慶州の古い街並みと、仏国寺は、両方とも世界遺産である。
23年前に来たときは、遺跡を見てまわったが、今回は慶州の遺跡巡りはやめて、仏国寺を見るだけにした。
翌、5月17日(土)、慶州から三たび仏国寺に行った。
仏国寺は、新羅時代に建てられた韓国第一級の名刹である。当時の建物は、文禄、慶長の役で消失したが、その後再建されたものである。
世界遺産だけあって、広い境内にいくつかの寺院と多宝塔があり、そのいずれもが美しい。
韓国の寺院は、日本の寺と違って、軒先のます組や垂木、破風などの装飾に緑と橙色を使った色彩豊かなものが多い。
建物の間を歩いていると、「チャングムの誓い」の世界だ。
仏国寺を見回ったあと、慶州駅に行き、15時29分発の列車で釜山に行くことにした。釜山には、17時37分着の予定だ。
バスターミナル周辺が、慶州の街の中心だろうか。いくつも交錯する路地には、ぽつりぽつりと灯りが点り、食堂や小さなお店やコンビニが点在するのだが、人通りが少ない。歩いて感じるのは、若い人が集まる店がないのだ。だから、華やかさ、陽気さがない。
やはり、この街は遺跡や寺院を見てまわるところなのだ。僕のように、街の猥雑さに引かれて旅する者には物足りない。
路地を歩きまわった末に、地元の人間が何人か食事している食堂に入った。玄関の上の壁には、何種類かの料理の写真が並んでいる。地元の人間が食べている店だから、まずくはないだろう。
店に入ると、壁にハングルと値段が書いてある紙が貼ってある。しかし、見てもさっぱり分からない。テーブルに座った僕が、主人にメニューないかと言うと、主人は玄関を指さした。あの壁に貼ってある写真を見ろというのだ。
美味そうな鍋の写真を指さし、あれをくれと言うと、主人はあれはやめた方がいいというジェスチャーをした。
僕は、テーブルに戻りガイドブックを取りだし、写真によく似たキムチジョングル(キムチ鍋)を指さし、これはないですかと訊いた。
すると、主人は、これは4人前で、1人は無理だと重ねて言った。主人が話すのは韓国語だから、意思伝達がもどかしい。散々やりとりをしたあと、主人が勧める○△□にした。
出てきたのは、小さな鍋で、豚の骨付き肉と野菜をキムチ味の汁で煮込んだカムジャタンのようなものだった。ご飯とキムチが出され、鉄の箸とスプーンが置いてある。一人用にはちょうどいい量だ。
僕が、豚の骨付きをかぶりついていると、僕が店に入ってきたときからずっと僕を見ていた、前のテーブルにいた男が、こうして食うのだと箸を持って、手本を示そうとする。男には連れの別の男がいたのだが、もう話すこともなく飽きていたところに、僕が入ってきたのだろう。すでに、相当焼酎も飲んでいるようだ。野卑な顔だが、悪い人間ではなさそうだ。
僕が、うんうんと頷くと、皿にご飯はこの鍋にスプーンで入れるのだと、男は僕のテーブルまでやって来て、僕の手にスプーンを握らせようとする。
僕も、面白いから、彼の言葉としぐさに頷いていたら、彼は僕に焼酎はどうかと勧めた。僕はビールを飲んでいたので、断わった。それでも、彼は僕の食べるのをまじまじと見るのをやめず、どうだコリアン、グーだろうと、目が合うたびに女お笑い芸人のように「グー」を連発した。
そのうち、男の連れも帰り、僕もあまり見られるのにうんざりしたので無視を決め込んだら、男は名刺を取りだし僕に渡した。それをうんうんと受け取って見たが、FM○○と数字番号がいくつか書かれていたが、どんな職業かよく分からない。想像するに、書いてあるのはFMラジオの周波数で、運転しながらそこに合わせるための数字で、長距離運転手ではないかと、勝手に思った。
彼は、連れもいなくなり、僕も反応(対応)しなくなったので、やることがなくなり、酒ももういっぱいになったようで、「テレフォン、テレフォン」と僕に言って出ていった。
店の主人は、苦笑いをしていた。
慶州の街をよく知らずして、その夜はホテルに帰って寝ることにした。バスの運転手が紹介した僕が泊まるホテルは、モーテルである。
やはり、モーテルはカップルで入るところかなと思った。というのも、ベッドの前の台に避妊具が置いてあるではないか。何だか複雑な気持ちでベッドに入った。
でも、運転手は何の注釈もなく、好意で僕にこのモーテルを紹介したし、受付のお姉さんも、何の違和感も抱かせず、にこにこと受け付けた。
韓国では、モーテルは、シングルでもカップルでもいいのだろう、多分。そして、車でも徒歩でも。
*
慶州は、長年、新羅の王朝があったところである。
日本がまだ倭と呼ばれていた時代、朝鮮半島は、百済、任那と新羅がしのぎを削っていた。そして、北の方からは高句麗が進出してきていた時代である。7世紀、新羅は朝鮮半島(北の方を除き)をほぼ統一する。
紀元前1世紀から10世紀、新羅が高麗に取って代わられるまで、慶州に都があった。当時は金城といっていて、高麗太祖によって935年、慶州となった。
ところが何と、歴史を紐解くと、987年から1012年まで慶州は東京と改称している。その後、再び慶州と戻したが、東京のまま今日までいたなら、日本の東京(明治に江戸から改称)はなかったであろう。
だが、よく調べてみると、ベトナムのハノイが歴史的に東京城と呼ばれ、ヨーロッパ人がトンキン王国と呼んでいた時代があった。
ちなみに、北京、南京は中国にあり、東京は日本である。残りの西京は、どこにもないようだ。
室町時代、京都の西で栄えた山口を、明治期に遷都した東京に対し京都を、それぞれ西京と言ったことがあるようだが正式名称ではない。
慶州は、あちこちに遺跡が残っている。
バスの中からでも、あちこちに円墳が見える。
慶州の古い街並みと、仏国寺は、両方とも世界遺産である。
23年前に来たときは、遺跡を見てまわったが、今回は慶州の遺跡巡りはやめて、仏国寺を見るだけにした。
翌、5月17日(土)、慶州から三たび仏国寺に行った。
仏国寺は、新羅時代に建てられた韓国第一級の名刹である。当時の建物は、文禄、慶長の役で消失したが、その後再建されたものである。
世界遺産だけあって、広い境内にいくつかの寺院と多宝塔があり、そのいずれもが美しい。
韓国の寺院は、日本の寺と違って、軒先のます組や垂木、破風などの装飾に緑と橙色を使った色彩豊かなものが多い。
建物の間を歩いていると、「チャングムの誓い」の世界だ。
仏国寺を見回ったあと、慶州駅に行き、15時29分発の列車で釜山に行くことにした。釜山には、17時37分着の予定だ。