写真エッセイ&工房「木馬」

日々の身近な出来事や想いを短いエッセイにのせて、 瀬戸内の岩国から…… 
  茅野 友

最終コーナー

2020年11月06日 | 生活・ニュース

 新聞の読者投稿欄に「秋のウオーカー」と題して、71歳の男性が書いたエッセイが掲載されていた。退職後、奥さんと2人でウオーキングを始め、自然から思いがけない多くの発見をして楽しんでいるというものである。

 そのエッセイの締めくくりに「人生も既に最終コーナー、日々を楽しむ工夫をしたい」と結んでいる。「最終コーナー」とは、よく使う言葉であるが、人生では一体、何歳くらいから使ってもいいものかを考えてみた。

 そもそも「最終コーナー」とは何なのか。どうやら競馬場での「第4コーナー」のことのようである。競馬では、1周が2000m強のコースで、スタート地点を移動させることによって、走る距離を1500m~3500mの範囲で変えることが出来るようにしている。

 ゴールはメインスタンドの真ん前に固定してあり、その位置は第4コーナーを出たところから直線距離で約500mの地点である。長い人生を生きてきた人を、天皇賞という3200mの長距離を駆けるサラブレットに例えて計算してみる。最後の直線距離500mは、全長の約15%にあたる。

 人生においての最終コーナーを周り切り、残り15%とは何歳くらいに相当するか。男の平均寿命を81歳とすれば、残り人生は約12年。年齢でいうと69歳のころとなる。

 エッセイを書いたこの男性は71歳。であれば「人生も既に最終コーナー」と書いているが、「最終コーナーを周っている最中」ではなく「最終コーナーを周り切って最後の直線距離に入ったばかり」の状態である。まだまだ人生の行方は分からない、ここからが長い人生の総仕上げ・勝負どころである。

 ところで79歳が目前のこの私、直線距離の計算上は残すところ、あとわずか80mの地点となる。しかし、我が人生を81歳ではなく100歳とすると、残す距離は3200*0.21=672m、94歳とすると500mとなり、最終コーナーを出て最後の直線に入った所となる。

 とすれば、今の私は多分最終コーナーは周り切り、最後の直線のどこかを走っているところであろう。鼻の穴を大きく膨らませて、鼻息荒くゴールを走り抜けて、ウイニングランとはいかないまでも、元気で駆け抜けていくという高い目標を掲げて頑張って生きてゆきたい。


線香のあげ方

2020年11月04日 | 生活・ニュース

 先日、新聞の読者投稿の欄に投稿していた「線香占い」という短いエッセイが掲載された。仏様に線香をあげる時に、1本を2つ折りにして香炉に立てるとき、私がこだわっていることを書いたものである。

 

 このエッセイが掲載される日の前日のことである。新聞社の担当者から電話がかかってきた。「線香を折って立てるというやり方は、そちらの地方の風習ですか?」と聞かれ「いいえ、単にお坊さんがやっておられることを真似ているだけです」と答えておいた。


 掲載されたエッセイを読んだ数人の知人から「読んだよ」というメールが来たり電話がかかってきた。いずれの人からも「私はこうしてあげている」という自己流の線香のあげ方の話があった。

 線香をあげるという動作は、幼いころから数えきれないほどやってきてた。正式にはどんな作法があるのか一切知らず、我が家の仏さまには火災防止の意味で、1本を折って短い2本にして立てている。 

 

 このエッセイを機会に、ネットで正式な線香のあげ方を調べてみると、宗派ごとにきちんと作法があることを知った。

 天台宗・真言宗………3本を立てて置く

 臨済宗・日蓮宗・曹洞宗・浄土宗………1本を立てて置く

 浄土真宗………1本を2つに折って火が左横になるように寝かせて置く

 真宗………1~2本を折って火が左横になるように寝かせて置く

 

 我が家は浄土真宗なので、1本を2つに折るまでは正しいが、これを香炉に立てるのではなく、寝かせて置くのが作法であることを、線香をあげてもらうような年になって初めて知った。そういえば、お坊さんは2つに折って寝かせて置いていることを思い出した。

 しかし、肝心なこの「香炉」のことを我が家ではずっと「線香立て」と呼んでいて、文字の通り線香は立てるものだと思い込んでいた。ああそれなのに線香を立てることなく寝かすとはこれ如何に。これからは線香立てのことを香炉と呼ぶことにして、2本を寝かせるようにして置き、門徒として恥ずかしくないようにしていきたい。

 

 

 

 

 


恋する灯台

2020年11月03日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 10月16日に現役の4灯台が重要文化財に指定された。その灯台は犬吠埼(銚子市)、角島灯台(下関市)、六連島灯台(下関市)、部埼灯台(北九州市)。いずれも明治初期に英国人技師の指導で建設された。現役灯台の重要文化財指定は初めてで、山口県からは2基の灯台が選ばれた。

 その一つ角島灯台は、下関市の北西、響灘から日本海へ廻る交通の要衝にある角島に建っている。2000年(平成12年)には角島に渡る長さ1780mの角島大橋が開通し、コバルトブルーの海士ヶ瀬をまたぎ、景観と調和した雄姿は、北長門海岸地域随一の景勝地となっている。

 角島灯台は、日本海側に最初に設置された洋式灯台で、明治9年に初点灯した。総御影石造りの灯台で、140年以上経った現在でも現役で点灯しており、歴史的文化財的価値が高いAランクの保存灯台のひとつである。高さは30mあり、レンズは日本でも5か所しかない特大のフレンネルレンズという通常のレンズを同心円状の領域に分割し、厚みを減らしたレンズを使用していて、光達距離は34㎞もある。

 105段あるらせん階段を昇れば、目の前には360度のパノラマ風景が広がる。白い砂浜とエメラルドグリーンの海があり、日本海とは思えない南国のような光景が広がる。楽園のようなどこまでも続く青い空と海は、恋する2人に見てほしい絶景で、日本ロマンチスト協会と日本財団が共同で実施しているプロジェクトで「恋する灯台」の一つにも選ばれている。

 10年も前、まだハートリーが元気だったころに行ったことがあるが、このたび重要文化財に指定されたのを機に、もう一度行ってみようと思っている。「恋する灯台」の名のように、久しぶりにロマンチックな景色に浸ってみたい。 

 


伊根の舟屋

2020年11月02日 | 旅・スポット・行事

 天橋立は丹後半島の東の付け根にある。そこから車で30分ばかり半島の東海岸を北上すると、伊根町という漁村に着く。言うまでもなく「伊根の舟屋」として知られ、テレビの旅番組などでよく紹介される地域である。

 伊根の家屋は直接海に接していて、1階は船を収蔵するためのガレージ、2階が居住スペースになっている。漁業と生活とが一体となって発展した舟屋の町並みは大変めずらしく「国の重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。

 約230軒の舟屋に囲まれた伊根湾は
日本海側にありながら南に開けており、三方を山と島で囲われているため波も穏やかで、ゆったりとした情緒ある景観を楽しませてくれる。

 車で伊根町に入った所に「遊覧船乗り場」という看板が目に入る。何台か車が駐車場に止まっているのに誘われて、車を止めた。丁度10分後に、湾内への観光船が出発するという。取り急ぎ乗ってみる。

 30分かけて湾内の舟屋を見ながら、解説付きでゆっくりと遊覧した。乗船客だけでなく、船の周りにはカモメとトンビが客の投げ与えるエサをもらおうと、同じ速度でつきまとう。まさに鳥と一体となっての観光である。

 車社会になったころから、各家には車のガレージが設けられるようになってきた。それと同じ発想で、伊根湾の各家には、間口一杯に舟屋が設けられている。まるで家々が海に浮かんでいるように見える。見たことのない珍しい光景が広がっていた。

 町をゆっくりと歩いてみたい気がしたが、本来の目的地の城崎温泉に向かうため、丹後半島をさらに北上して一周しなければいけない。日本海に沈もうとしている夕日に追い立てられながら旅を急いだ。
 





 

 


邸宅美術館5

2020年11月01日 | エッセイ・本・映画・音楽・絵画

 先日、久しぶりに幼馴染で女流画家として活躍している坂井幸子さんから電話がかかってきた。「お宅に、また絵を飾らせてくれませんか」という。「ありがとうございます。ぜひお願いいたします」と、二つ返事で答えた。

 11年前のことであった。岩国の絵画クラブの作品展を見に行ったとき、坂井さんの描いた大きな絵が展示してあった。「こんな絵を家に飾ってみたいですね」と本人に言っておいた。直後、その絵を我が家に運んできてくれた。

 それ以後、数年おきに絵を取り換えてくれ、我が家の居間を「邸宅美術館」に変えてくれた。「邸宅」とは本来は家、住まいのことをいうが、特に構えが大きくて、りっぱな造りの家をいう時に使う言葉のようである。邸宅と呼ぶにはほど遠い我が家であるが、「庭園美術館」といわれるものに対抗して、単に「邸宅美術館」と言ってみただけである。

 2年前、坂井さんが個展を開催するのを機に、我が家に展示していた絵を持ち出した後、邸宅美術館は閉館状態となっていた。

 今回持ってきてもらったのは、50号の「睡蓮」の絵である。真っ白い睡蓮が静かな水面に浮かんでいる。モネの睡蓮を彷彿とさせる気持ちが落ち着くようないい絵である。

 このお陰で、我が家は急きょ、モネの睡蓮の絵が展示されている「オランジュリー美術館」に変わった。時まさに「芸術の秋」である。