自分が若い頃に現実から逃げ出したキム・ロッシ・スチュワート演じる父親ジャンニ。
その現実とは恋人の死と引き換えに障害を持って生まれてきた息子パオロの存在とそんな息子を見捨てたという事実。
そして15年という時間を経てそれまで避けてきた現実を直視するべく息子のパオロと会うこととなるジャンニ。
最初、自分自身で正直になれず戸惑うばかりのジャンニが、後ろめたい15年の空白を何とか埋めようと葛藤しつつ努力し、徐々にパオロと心が通じ合うようになる姿が、決して楽観的にではなく、そしてもちろんお涙頂戴的にでもなく、丁寧に描かれるその様子に、個人的にいろんなことが胸の中に浮かんだこともあって、何とも言いようのない思いが募った。
そしてもう一人の主役、シャーロット・ランプリング演じるパオロより重度の障害がある娘のために20年という長き時を捧げてきた母親ニコールがふと漏らす「時には死んでくれれば」と思うことさえあるという気持ちは、間違いなく現実なんだろうし、そうした立場にいないものが決して言葉を挟めない重い言葉だ。
ただこう書いてしまうと、陰陰滅滅ですっかり気が滅入ってしまう映画を想像しがちだけど、決してそんな気持ちにさせない「明るさ」がこの映画にはあった。
それはハンディキャップの人に対して必要以上に特別視しない目線の自然な高さから来るものでもあるだろうし、親と子供という家族の絆そのものが映画の主題となっていて、心温まるとっておきのエンディングを含めて二人の成長物語になっているからでもあるとも言え、そういった意味でとても素直に感じ入って観ることが出来る素敵な映画だった。
それにしても実は今日はちょうど未熟児で生まれて来た次男の15回目の誕生日(パオロと同じ年齢だ)。人並み以上に成長した彼を見るに付け、いろんな思いが浮かぶ「15の夜」であります。
その現実とは恋人の死と引き換えに障害を持って生まれてきた息子パオロの存在とそんな息子を見捨てたという事実。
そして15年という時間を経てそれまで避けてきた現実を直視するべく息子のパオロと会うこととなるジャンニ。
最初、自分自身で正直になれず戸惑うばかりのジャンニが、後ろめたい15年の空白を何とか埋めようと葛藤しつつ努力し、徐々にパオロと心が通じ合うようになる姿が、決して楽観的にではなく、そしてもちろんお涙頂戴的にでもなく、丁寧に描かれるその様子に、個人的にいろんなことが胸の中に浮かんだこともあって、何とも言いようのない思いが募った。
そしてもう一人の主役、シャーロット・ランプリング演じるパオロより重度の障害がある娘のために20年という長き時を捧げてきた母親ニコールがふと漏らす「時には死んでくれれば」と思うことさえあるという気持ちは、間違いなく現実なんだろうし、そうした立場にいないものが決して言葉を挟めない重い言葉だ。
ただこう書いてしまうと、陰陰滅滅ですっかり気が滅入ってしまう映画を想像しがちだけど、決してそんな気持ちにさせない「明るさ」がこの映画にはあった。
それはハンディキャップの人に対して必要以上に特別視しない目線の自然な高さから来るものでもあるだろうし、親と子供という家族の絆そのものが映画の主題となっていて、心温まるとっておきのエンディングを含めて二人の成長物語になっているからでもあるとも言え、そういった意味でとても素直に感じ入って観ることが出来る素敵な映画だった。
それにしても実は今日はちょうど未熟児で生まれて来た次男の15回目の誕生日(パオロと同じ年齢だ)。人並み以上に成長した彼を見るに付け、いろんな思いが浮かぶ「15の夜」であります。
たまたま僕は病院始まって以来の未熟児で、とても命は持つまいと、親戚一同思っていたみたいです。
その反動で、幼いときは、病気病気の連続だったようですけどね。