冷たい雨が降った16日の金曜日は慌てて炬燵を出しましたが・・・
その後は気持ちの良い秋晴れが続いています
鎌倉のお寺の小さな霊園墓地を買い求めましたが、ようやく墓石が出来上がりました。
旧盆以後はお寺や石材店との交渉や手続きに追われてバタバタ
今は11月上旬に予定している夫の「納骨式」の準備に奔走しています。
親戚関係が20人以上集まりそうなのに、お食事処が七五三とかぶって
満足なお店の予約が取れませんでした
そんなこんなでブログのUPも滞りがちですが・・・
9月29日に行った「東京路地裏・ブラ歩き」(入谷から浅草へ)の後半を続けます。
「新吉原」
その1でご紹介した「鷲神社」から歩いて、遊郭で有名な「新吉原」に向かいました。
吉原遊廓とは、江戸幕府によって公認された遊廓です。
始めは江戸日本橋近く(現在の日本橋人形町)にあり、明暦の大火後、浅草寺裏の日本堤に移転し
前者を元吉原、後者を新吉原と呼んだそうです(ウィキペディアより)
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1618年から売春防止法が施行される1958年(昭和33年)まで、 340年も続いたという遊郭街
現在の台東区千束4丁目あたりの、これが「新吉原」と呼ばれる現在の風景です。
表通りのお店の前には必ず黒い背広の男性が立っていて・・・
とてもカメラを向ける勇気がなく、もっぱら路地裏の撮影となりました。
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「見返り柳」とは旧吉原遊郭の名所の一つで、
遊び帰りの客たちが後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで
吉原を振り返ったということからこの名が付いたとか
徳川家康が計画的に作った江戸の街は、圧倒的に男性が多かったから
この様な施設ができるのも仕方がなかったとも思いますが・・・
スター並みの有名花魁も出現して華やかな世界でもありましたが
親の借金などで身売りされてきた少女たちのことを思うと、複雑な心境になりますね。
「山谷」
次に訪ねたのが新吉原のお隣の「山谷地区」
東京・山谷、横浜・寿町、大阪・あいりん地区は日本三大寄せ場と言われていて
日雇い労働者の街として知られています。
高度経済成長を支えた労働者達も現在は平均年齢65歳以上・・・
日雇い労働者の減少で、簡易宿泊所の経営者は設備を一新し、
2000年頃から外国人のバックパッカーやビジネスマン向けのホテルに方向転換し
今では一般向けにリフォームしたり・・・
建設ラッシュで新しいホテルも次々でき、昔とはずいぶん違うようです。
現在は「山谷」という地名は消滅しているそうで
小汚い街でも危険な街でもなく、ごく普通の街でした。
「秋の交通安全運動」のイベントで子供たちが楽器の演奏をしたようで
幼稚園児と親たちが集まる平和な風景が見られました。
スカイツリーのお膝元「隅田川・桜橋」
山谷から更に歩いて、少年野球チームが試合をしているグランドを見ながら進むと
スカイツリーが見えてきました。
隅田川にかかる、歩行者専用橋の桜橋が見えてきました。
橋の上には、中央で向かい合うように配置された 「双鶴飛天の図」 というオブジェがありました。
原画が平山郁夫で彫刻が細井良雄です。
写真を撮り忘れましたのでご興味のある方はこちらでご覧ください。
隅田川堤の整備された散策用テラスから、昭和の面影が残る
古い商店街を通り抜け、東武「曳舟駅」でこの日のブラ歩きは解散しました。
殆どの人が電車で「浅草」まで行きました。
「浅草寺」
まずはお馴染みの仲見世通りを歩きます。
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たくさん歩いたので皆喉がカラカラ・・・
まずはビールを飲もうと、リーダーさんが案内する海鮮居酒屋に行きましたが
20人一緒には座れません。
地元で育ったT氏が「美味しいウナギ屋さんに行こう」と、山小屋さんに言い
ブログ仲間のうさきちさんと私も一緒に案内されました。
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普段は簡単な食事で済ませている私、一週間分の栄養を補給した感じです。
とても美味しゅうございました。満足!満足!
食後4人で浅草寺をお参りすることにしました。
この伝通院通りの画像をA4に印刷し、他の4枚と一緒にカメラクラブに持って行ったら
「今月の私の一枚」はこの画像が選ばれて、コミニティーセンターのロビーに
仲間の皆さんの写真と一緒に飾られていますわ。
門の左右に金剛力士(仁王)像を安置する宝蔵門をくぐると・・・
右手に「スカイツリー」が見えてきます。
そして左手には「五重塔」
ご本尊の聖観音像を安置するため観音堂とも呼ばれる「本堂」をお参りしました。
そして再び仲見世を歩いて戻り、入り口の大きな提灯が有名な「雷門」から
地下鉄で上野に出て、お別れしました。
ワンゲルの会のお仲間たちと、東京の下町を23000歩あるいて・・・
最後は浅草で美味しいウナ重とビール
楽しい楽しい一日でした
お仲間の皆様、お世話になりました。ありがとうございます