「鎌倉文学館」から7~8分歩くと「光則寺」の標識が見えてきます。
大きく書かれたその先の「長谷寺」の案内表示板からみれば目立たないものですが、私はこのお寺に寄ってみる事にしました。
樹齢200年の「カイドウ」が有名な日蓮宗のお寺です。
すぐ近くにアジサイで有名な「長谷寺」や「成就院」があるせいでしょうか・・・
普段は静かなこのお寺も、大勢の人々で賑わっていました。
鉢に植えられた「ヤマアジサイ」が、山門から奥の本堂まで続いています。
特に本堂前にたくさん並んだ、千葉の清澄山に咲くという「清澄沢」と命名されたヤマアジサイが見事でした
この10日前に、「鎌倉古陶美術館」のヤマアジサイを見学して、そのあとすぐにヤマアジサイについて色々調べたのですが、今一よく分りませんでした。
でもこの日、「光則寺」のヤマアジサイを見て、感覚的に少し理解できたような気がします。
普通のアジサイより華奢で小さく、派手さはありませんが何となく素朴な風情が感じられますね
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ソロソロ終りの「ヤマアジサイ」ですが、一番印象に残ったのは赤い装飾花の「クレナイ」
長野県伊那地方に咲くヤマアジサイだそうです。マウスオンで正面からの姿もご覧下さい
このお寺には日本全国の「ヤマアジサイ」がところ狭しと並んでいました。
non_nonさんのソースをお借りして並べましたのでご覧下さい
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一枚目の白いヤマアジサイには「富士の白額」という名前が付いていて、他にも関西系の「田の字」とか、鳥取・大山の「紫変化」などの名札が付いたお花がありました。
写真を撮っていると、団体様ご一行の講師らしい人のお話が聞こえてきました。
「ここのヤマアジサイは鎌倉に住む達人が集めて増やしたものです。最初は自宅のお庭で公開をしていたのですが、大勢の人が見に来るようになり隣近所に迷惑がかかるという事で、この時期だけ光則寺の境内に置くようになったのです」
ナルホド!ナルホド!
親切そうなおっちゃんが「こっちに珍しいものがあるから覗いてごらん」と声をかけてきて、連れて行ってくれた所には、虫眼鏡付きの鉢植えがありました。
「ウサギ苔」と書かれた小さな名札が立っています。
虫眼鏡で見てみると、名前の通り耳の長いウサギのようなお花が見えました。
5mm位の大きさでしょうか・・・
苔のお花もよく見ると可愛いのもですね~
「もっと珍しいのがこのお花だよ」と、おっちゃんはその近くのナツツバキの下に咲いている赤いお花を指差しました。
「突抜忍冬(ツキヌキニントウ)というスイカズラ科のお花で、花のすぐ下の葉だけは2枚がくっついて1つの長蛇円形になり、この葉から突き抜けて花が咲くからこの名前になったんだよ」
「へぇ~」
「おじさんはこのお寺の人?」一緒に聞いていた若い娘が聞きました。
「いいや、毎日のようにここに来ている見学者さ」
「凄く詳しいですね」周りに居合わせた皆が感心しました。
こういう物知りの方、親切に教えてくださる方があちこちにいらっしゃるようで・・・
いつぞやは、ご近所仲間3人で東京谷中の下町見物に出かけた時、まるでガイドさんのように詳しく説明してくれたおじさんがいました。
一度別れても、すぐに叉自転車に乗ってどこからともなく現れて、結局午前も午後も案内してくれましたよ。
さして広くない光則寺の境内は、大勢の見物客で溢れていましたが、私は「土牢→」と書かれた標識に従って山道を登っていきました。
鄙びた感じのこのお寺が好きで、若い頃から何度か訪ねていますが、光則寺といえば「土牢」が思い浮かびます。
人の姿もまばらな山道には、やはり「ヤマアジサイ」が似合いますね。
このアジサイの葉っぱはガクアジサイのようにも見えますが、お寺に確認したら、あそこにはガクアジサイもヤマアジサイも植えてありますとのことでした。
違いはよく分りませんが、風情で感じることに致しましょう・・・
(山小屋さん流に言えば、山で咲くガクアジサイはヤマアジサイですね)
控えめなブルーのお花が続く階段を5分も登れば、緑深い中に「土牢」はありました。
こんな所に何ヶ月も閉じ込められたら、よほど強い精神力が無い限り気が狂ってしまいそうです。
流石に体がザワついて早々に引き揚げました。
日蓮上人が佐渡へ流された時、高弟子・日朗が捕らえられて鎌倉幕府第五代執権・北条時頼の重臣・宿屋左衛門尉光則の邸内の土牢に監禁されました。
しかし光則は日蓮上人が自らの不運を嘆くことなく、弟子の身の上を案じる心に打たれ、次第に日蓮宗に心を寄せる様になります。
そして日蓮上人放免後は、邸を寺として日朗を開山と仰ぎ、文永十一年(1274)にこのお寺が創建されたそうです。
日蓮上人の著した「立正安国論」は光則の父・行時から、文永元年(1260)に北条時頼に建白されました。
それが禅宗の熱心な信者だった時頼の怒りをかい、日蓮は鎌倉幕府から様々な迫害を受けるようになり佐渡に流されたようです。
そんな鎌倉時代の歴史を偲びながら、光則寺を後にしました。