2月17日
雨が降っている。5日続いた雪の日の後、昨日はなんとか、雲が多いながらも晴れてくれたのだが、今日はまた天気が崩れて、朝からの雨模様だ。
せっかく少し春めいてきたのかなと思っていたのに、先月と変わらない寒い雪の日が続いていた。今日の雨でもまだ、その雪は残っている。もちろん冷たい雪よりは、暖かい雨の方が良いのだが、外に出られないのは同じことだ。
飼い主もあまり外に出ないで家にいるから、退屈なワタシは、相手をしてもらいたくなり、かまってもらいたくなり、ニャーニャーと鳴きかける。
こうして長い間ずっとふたりっきりでいれば、どうしてもお互いのわがままな所が出てきてしまう。飼い主は、ワタシの鳴き声にも知らん顔して、新聞を読み続けている。
子ネコのころならともかく、その新聞の上にあがってまで相手をしてほしいとは、とても言えない。そんなことでもしようものなら、あの怖い鬼瓦顔の口先から、どなり声が出てくるからだ。仕方なく、ワタシはストーヴの前で横になる。あーあ。
ネコは、やることがないから、ヒマだから寝てばかりいるのだという、あるネコ学者先生の言葉を受け入れざるを得ないのだ。
しかし、飼い主はそんなワタシを見て不憫(ふびん)に思ったのだろう。雨の合間を見計らって、散歩に連れ出してくれた。20分ほどの、小回りのコースだったが、雪の残る道のあちこちで臭いを嗅ぎまわり歩いて、ワタシは満足だった。
家に帰ってくると、すぐにまた雨が降り出して来た。ワタシは、飼い主の顔を見上げてニャーと鳴いた。
「 雪の日が続いた後に、昨日は久し振りの晴れ間が広がっていた。明日の予報が雨のこともあって、出来るならすぐに雪山を見に行きたいとも思ったが、結局行かなかった。
数日間、降ったりやんだりの雪は、毎日10cm、3cm、5cm、15cm、5cmと積もったのだが、特に後の方では雪が里雪(さとゆき)型になって、風もなく静かに降り積もっていたから、恐らく山の上では風紋などできていないだろうと思った。
長年、冬の山に登っていると、その雪景色の一つにさえぜいたくを言うようになる。その昔、中学生の時初めて登った雪山は、標高800mほどの低い山だったが、深い所で数十センチもの積雪があり、その雪だけで大喜びしたのを憶えている。
つまり、初めて出会った景色の感激も、慣れてしまえば当たり前のことになり、さらに高い感動の景観を求めてしまうのだ。何という、ごうつくばりな、際限ない欲望にかられるのだろうか、人間という生き物は。
例えば、ほんの1ヵ月前に、モバイル・アクセスを使ってインターネットの速度が上がったことに大喜びをしていて、もうこれで十分だとさえ言っていたのに(1月19日の項)、使い続けているうちに、その速度は、いつもの同じ速度でしかなく、例えば、YouTube などの映像が途中で何度も止まってしまうのを見ると、やはりもっと早い速度のインターネットならばと思ってしまうのだ。
しばらく前に、北海道の友達に、「ダイアル・アップの時と比べれば、はるかにネットの速度が上がって最高、もうこれで十分だ。」と話した時、電話口の向こうで、彼は、「そうかな。上があれば、また欲しくなるんじゃないかな。」と言っていたが、今思えばその彼の、皮肉めいてニヤリと笑う顔が目に浮かんでくる。
人は、その時の出会いに感激して、美辞麗句(びじれいく)をあげて誉めたたえるが、その後にさらに上なるものに出会うと、途端に消え入るような言葉で、自分の前言を翻(ひるがえ)す他はなくなるのだ。
とはいっても、モバイル・アクセスでネットの速度が速くなったことの利点はいろいろとあるし、さらに例のただでもらったキャンペーン期間商品のミニノート(ネットブック)では、いろいろと便利なことができて楽しませてもらっている。
まず最初に考えていたのは、山旅に出かけた時の、デジカメ写真のバックアップ用ストレージ(保管場所)としての利用だ。数年前から、いつもの民宿で会うプロの写真家の人が、当時は普通のノートパソコンより遥かに値段の高かった、モバイル・ノートパソコンを持ってきていて、その日に撮った写真をモニターで見ながら取り込んでいた。
それだと、何枚ものメモリーカードを持ってこなくてすむし、すぐにその日のうちに写真をバックアップしておくことができるからだ。
しかし、私が今このミニノートで楽しんでいるのは、寝る時に横になって見ることのできるスライド・ショーだ。あの時に登った山々の良い思い出に浸りながら、安らかな眠りに入って行けるようにと。
つまり、この小さな10インチ画面のミニノートは、例えばもし病気やケガで入院することになった時には、気楽に枕元に置いておけるし、そこに外付けのDVDプレイヤーをつければ、今まで録画してきたたくさんの映画やドキュメンタリー番組の、DVDを見ることができるし、音楽CDさえも聴くことができる。
さらに思いついたのは、例のネット上の青空文庫だ。
久し振りにその一覧を見て、確実にその数が増えていることに気がついた。それは、普通の一般的文学書のラインアップからすれば、かなり偏(かたよ)ってはいるが、逆に今では読むことのできない作品も数多くあるのだ。
その中には、例えば、加藤文太郎の『単独行』や松濤(まつなみ)明の小品(『風雪のビバーク』は作業中)などのように、昔買った本で、あちこち変色しシミが出ていて買い替えようと思っていたものまで含まれている。
この二冊は、最近、山と渓谷社から文庫本として復刻発売されていたのだが、残念なことに、近くの大きな本屋でも置いてなかった。それで、いつか東京に出た時にでも買おうと思っていたのに、この青空文庫の中に『単独行』の名前を見つけた時には嬉しかった。
何はともあれ、この青空文庫に載せるべく、作業をしてくれた人たちに感謝するばかりだ。
ただし、そこには、私の好きな古典文学の作品が少ないけれども、他のサイトで見ることもできるから、とりあえずは十分だと思う。
さてまずは、それらの文学作品の中から幾つかをダウンロードして、縦組み変換ソフトで読みやすいように変えて、このミニノートに取り込む。後は好きな時に、好きな作品を立ち上げて、寝る時などに読むことができるというわけだ。
最新の本など読みたいとは思わない私には、何も今流行りの iPad などを買う必要もないのだ。タッチパネルかどうかの違いだけだし。
念のために書いておけば、私はすべての本をこうしてデジタル図書化していくつもりはない。やはりちゃんとした紙の本を書棚に揃えて、これからも読んでいきたいと思っている。
と、ここまでミニノートに写真や小説などを入れてきたから、これでよし、もし何かあって、入院することになったとしても大丈夫だ。
つまり、後は、この年になるまで、払いっぱなしだった国民健康保険金(積算すれば信じられないほどの高額に達している)を取り戻すべく、病院に行くことだ。
そこではいつも、きれいな看護婦のおねえさんたちが、ひとり寝ている私の所へ来てくれては、いろいろと面倒を見てくれるだろうし、もう最高ではないのか。
大分前に、お笑い番組で、足をケガして歩けない患者に扮したお笑いタレントが、きれいな看護婦さんにベッドの上でシビンをあてがってもらって、全く幸せそうな顔をしていた。そうだ、すぐにも病院へ行こう。
待て、今の私には、何の病気もないし、痛めた肩も腰も治りつつある所だし、行く理由がない。第一私が病院にいる間、あの哀れなミャオの面倒を誰が見てくれるのだ。
こうして、私の極楽病院入院計画は、あっけなく頓挫(とんざ)するのでありました。むしろ、そんなしょうもない話を考えるアホな自分の頭を、何とかする方が先なのだろう。
所で、今日ミャオと散歩に出かけた時に、家に近くにある一本のネムノキの幹に大きな傷がついているのを見つけた。(写真)
それは、直径40cm、高さ10mほどもある大きな木で、毎年枝先にたくさんの明るいぼかし色の花をつけていたのに、無残な姿になっていた。これだけ皮がはぎ取られてしまえば、やがては枯れてしまうだろう。
幹に残った歯形は、間違いなく皮を食べたシカのしわざだ。先日、山登りに出かける時にも、家の前で二頭の立派な角を生やしたシカ(ホンシュウジカ)に出会っていた。それは、北海道のエゾシカほどに大きくはないが、それでもかなりの体格だった。
それまで北海道の家では、庭に植えていたリンゴやライラック、カエデなどの幹や枝がかじられて、何本も、枯れてしまっていた。
時々テレビ新聞で、シカの被害が報告されているが、特に北海道などではその被害は深刻であり、田畑の作物だけでなく、山の木々や高山植物までも滅ぼすことになりかねないのだ。
野生動物の保護は大切なことであるが、一方で高齢化により狩猟人口が減り、天敵がいなくなった山野では、こうしてシカやサル、イノシシがわがもの顔に辺りを跋扈(ばっこ)することになる。
すべて、その彼らが悪いわけではなく、もとをたどれば、人間たちの様々な不始末のせいなのだが・・・。
このネムノキは家の木ではないし、誰も気にも留めないのかもしれないが、このまま枯らすには余りにも惜しい。私はもちろん樹医でもないのだが、前にも経験はあるので、何とか自分で、この木の傷の手当てをしてみたいと思っている。
春が来れば、木々は多くの水分を吸い上げるようになるから、皮をはがされた幹からは栄養を含んだ水が流れ出し、やがては枯れてしまうだろう。
何とか今のうちにやらねばと思う。そのためには、二三日でも晴れた日が続いてくれればいいのだが。
今日は一日雨が降ったり止んだりで、積もっていた雪も大部分が溶けてしまった。そして、長い間雪の下にあった草も、日の光を浴びて、緑の新しい葉を出すことだろう。
そうすれば、もうシカたちは、あんなうまくもない木の皮なんぞを食べなくてすむようになるのだ。
シカも、ミャオも、そして私もそれぞれの春を待っているのだ。」