ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(178)

2011-02-22 21:25:32 | Weblog

 




2月22日


 すっかり、暖かくなった。飼い主との毎日の散歩に行くと、道端には、冬の間雪の下で食べられなかった草が、新しい葉を伸ばしはじめていて、それを食べるのも楽しみの一つである。
 ベランダで、あるいは少し離れた草むらで、春の日を浴びて寝ている。いいなあ、春の暖かさは。

 今日は、日本のカレンダーによれば”猫の日”だそうだが、全く、ただの月日のごろ合わせだけで、勝手に”猫の日”だなんて決めて、とんだお笑いぐさだ。そうではなくて、1年365日、ワタシたちネコを可愛がる日であってほしいものだ。
 話は違うが、明治時代、まだ外国語の翻訳(ほんやく)が十分でなかった時代、あのドイツの文豪ゲーテのことを、発音表記がうまく表せずにいて、ギョエテとか書いていたこともあって、それを皮肉って、「ギョエテとは おれのことかと ゲーテ言い」、という川柳が作られたのだと、飼い主に聞いたことがある。
 なんだかなー。似た話のようにも思えるのだが。

 春めいてきた日差しとともに、日が暮れるのも遅くなってきた。それにつれて、ワタシのサカナをもらう時間も少しずつ遅くなってきた。お腹がすくのは、決まった時間なのに、それを考えてもくれずに飼い主は、夕方に食べるから夕食だと頭から信じこんでいる。
 ワタシが、ニャーニャー鳴いて催促しようものなら、あの鬼瓦顔で怒鳴るのだ。
 「おんどりゃー、何時だと思うてけつかんねん。まだ早いべやー。もう少し待たれんとか。」
 全く訳のわからない、関西弁に北海道弁、さらに九州弁までも入って、もうワタシの手には負えない。
 
 ワタシたち猫族は、共通のニャー語でどこに行っても通じるけれど、人間は同じ民族でも、地方によって少し言葉が違うし、ましてその民族や国が違えば、もうお互いに全く通じ合えない言葉を使っているのだ。
 つまり、あのバベルの塔の失敗以来、世界中は何一つまとまることなく、地球上の人間どもは、相変わらずそれぞれの言葉で自分勝手にわめきあっている。
 さらにその人間どもは、神からの教示でもある人間の嬌慢(きょうまん)さへの戒めを、何一つ学ぶことなく、恐るべき速度で科学を発達させて、限りなく続く自分たちの欲望のためだけに、ただひたすらに奈落へと向かっているような気もするのだが。

 私たち動物にとっての変化は、いわゆる進化程度の緩やかな歩みであるし、それだけで十分にやってこれたのだ。なのに、獰猛(どうもう)な欲望の塊(かたまり)である人間の、あのぎらついたあくどさはどうだ。
 2月22日は、”猫の日”ではなく、”猫を見習う日”、”動物を見習う日”としたらどうだろうか。

 飼い主が、ワタシを見ながら、あの恐ろしい鬼瓦顔に笑みを浮かべて、拍手をしている・・・。


 「すっかり春めいてきた。朝はまだー5度くらいあって、外では氷も張っているのだが、先日からの雪は、屋根の北側の下にかろうじて残っているくらいだ。
 日中の気温は、今日ついに14度までにも上がった。そんな春の初めの暖かさは、確かに気分がいいのだが、それとは別に少し寂しい気もする。というのも、今年のこの雪の多かった冬の季節に、山に行ったのは、ほんの2回きりだったからだ。
 やむを得ない事情もあったのだが、それは言い訳の一つで、年ごとに山に登るという強い気持ちが薄らいできているのかもしれない。
 しかし、それはそれで良い。私には、まだ他にも見たい知りたい未知のことが色々とあるからだ。そこに向かうのは、また新たな道をたどって山に向かうことにも似ている。

 その一つは、日本の古典文学である。日本人なら誰でも、どこかで知る機会があり、少しは読んだことがあるだろう日本の主な古典。古事記に始まり、万葉集、古今・新古今の和歌集、源氏物語に平家物語、日記文学から、枕草子に方丈記、徒然草、そして芭蕉の俳句に、井原西鶴の物語と近松門左衛門の戯曲集等など。
 しかし、私は恥ずかしながら、今までまだ源氏物語の全巻を読んだことがなかった。
 それで先日書いた、ミニノート・パソコンに古典文学サイト等から、その源氏物語のテキストをダウンロードして、少しずつ読んでいくことにしたのだが、その時調べていて、名前は知っていても、本として見たことのなかった他の古典作品をいろいろと見つけたのだ。

 私はとりあえず、さらに何本かをダウンロードした。
 電子図書化はしないと言っていた私だが、こうしてパソコンの中に古典文学の蔵書が増えていくのは楽しいものだ。それもお金もかからずに。

 次に相変わらず、テレビ録画に頼っている私だが、先日、大好きなバッハの演奏会の一つが放送された。
 2月20日、NHK・Hi 『2010年ライプツィヒ・バッハ音楽祭』よりアンドラーシュ・シフ(1953~)のピアノ演奏によるバッハの『フランス組曲』全曲他である。
 このシフというハンガリー出身のピアニストの名前は、早くから知っていた。1977年、当時の最先端録音技術とされていた、デンオンのPCMデジタル録音による、バッハの『二声のインヴェンションと三声のシンフォニア』を聴いた時からである。
 その後、レーベルはデッカに移り、そこで彼は上記の曲を再録し、さらに『パルティータ』『イギリス組曲』『フランス組曲』『ゴールドベルク変奏曲』そして『平均律曲集』と、主なバッハのチェンバロ曲をピアノで録音していった。
 もちろん、このバッハのピアノ演奏の分野には、一つの個性あふれる巨大なモニュメントがある。グレン・グールド(1941~2002)のバッハである。
 しかし、彼はグールドほどの内向的でエキセントリックな手法は取らずに、彼なりの流麗なタッチと流れるようなテンポというスタイルで、彼の思うバッハへと近づいていったのだ。

 私が、レコードで初めて聴いたのは、上記デッカの『インヴェンションとシンフォニア』であり、それまで主にドレフェスのチェンバロで聴いていた私は、シフの弾くピアノのタッチにすっかり魅せられてしまった。
 しかし、あろうことか、次に買った『ゴールドベルク』で、冒頭の有名なアリアの速さに、私は夢打ち砕かれた思いがした。私よりは若い彼に、ついて行けないのだと思い、以降シフのバッハからは少し足が遠のいていたのだ。

 そんな時に聴いたのが、テレビ放送によるこのシフの『フランス組曲』である。後半の『フランス風序曲』と『イタリア協奏曲』とともに、併せて2時間10分程の間、私はテレビの前に座り、暗譜(あんぷ)という驚異的な記憶力でピアノを弾き続けるシフを見ていた。
 若い頃のジャケット写真しか知らなかった私は、そのヘアスタイルは変わらないものの、すっかり白髪頭の中年男になってしまった彼を見た。彼の演奏スタイルも変わったのだ。というより誰もがそうであるように少しずつ変わっていったのだ。
 
 そして、彼の演奏が終わった後、私は、良いバッハを聴いたという思いに満たされていた。6曲の『フランス組曲』も『序曲』も良かったのだが、最後の『イタリア協奏曲』で、私はシフの音の中に、確かなバッハの思いを聴いた気がした。
 このイタリア協奏曲は、いわゆる急ー緩ー急の3楽章で構成されていて、弾き手によっては、自分のテクニックを発揮できる曲であり、そうした演奏が多く、なかなか私の思い描く演奏には巡り合えなかったのだが、今回のシフの演奏は間違いなく、私の理想に近い演奏の一つであったのだ。
 アレグロの出だしは決して早すぎず、その軽やかな流れは、次の思いを込めたアンダンテへと移って行く。何という夢のひと時・・・そして、プレストで再びの軽やかな流れに戻り、締めくくられるのだ。

 とここまで書いてきた時、ネットでシフのことを調べてみると、そこにはテレビでの演奏会ではなく、シフの生の演奏会の模様ばかりが書いてあった。そうなのだ、彼は最近来日しては東京で演奏会を開いていたのだ。何と、バッハの『平均律第2集』全曲、そしてシューベルトとベートーベンのソナタという三つのプログラムで・・・。
 こんな田舎にいて、ミャオがいて、私には都会に行くすべもないのだ。

 ただ、テレビで見て聴いただけだが、それでもシフのバッハは、十分に私の心を豊かにしてくれた。
 私は、若き日にヨーロッパを長期旅行したことがあるのだが、その時に、当時まだ東ドイツ内にあったライプツィヒにも足を伸ばした。そこで、バッハゆかりの聖トマス教会を訪れ、その前に立つバッハ像(当時の写真)を見上げて、思わず涙しそうになったことを憶えている。
 さらに、その聖トマス教会で、当時のカントール、ロッチェ指揮によるバッハのカンタータさえも聴くことができたのだ。ジーパン姿の異教徒のバックパッカーにすぎない私が・・・。何という夢のひと時だったことだろう。
 それは、再びシフの『イタリア協奏曲』のアンダンテへとつながって行く・・・。

 まだ書きたいことはいろいろとあって、例えば、民放の番組だが、あのサンデル教授が再度来日して、スタジオで日本のタレントたちを前に、例のスタイルで哲学の講義をしたのだが、そこには、日本と西洋の考え方の差を含めて、様々に面白い問題が見えていたのだが・・・。

 だらだら書き続ける悪い癖で、すっかり長くなってしまった。しかし、言えることは、ことほど左様に、人間にはそれぞれに様々な感性の違いがあって、それが面白いからこそ、何かを言いたくなり、さらに何かを考えたくなるのだろう。」


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