ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

ワタシはネコである(179)

2011-02-27 21:16:19 | Weblog



2月27日

 晴れて暖かい日が続いている。すっかり春の気分になり、ワタシも外に出てすごすことが多くなった。
 昨日は、一日中晴れていて、昼前の散歩から帰ってきた後も、ワタシは家の近くの草原や、木陰などで寝ていた。その時、飼い主が、歩いて出て行く姿が見えたが、クルマではないし、すぐに戻ってくるだろう。
 飼い主は、いつもはぐうたらオヤジなのだが、それでも少しは自分の健康のことが気になるらしく、時々思い立っては、1時間ほどの坂道歩きをしているみたいだ。すっかりメタボになった体を、今さら戻せないっちゅうのに。

 夕方、いつもの生ザカナをもらった後、飼い主の傍に行って毛づくろいをしようと思ったら、いない。庭の方で、煙が上がり、何かが燃えてパチパチという音がしていた。
 ベランダから庭に降りると、飼い主が、切り取った枝木を燃やしていた。ニャーと鳴いて傍に近づいて行く。
 かなりの炎が上がっているが、ワタシは怖くはないし、むしろ火の傍は暖かいくらいだから、そこに座り込んでは、飼い主が庭のあちこちから、木の枝や枯れ葉を集めて、火の中に投げ入れているのを見ていた。(’10,11.20の項参照)
 途中で、何度も呼びかけて家に戻ろうと鳴くが、飼い主は、ゴム手袋でワタシの体をなでては、まだダメだという。
 ワタシは、ひとりで家に行くのはいやだった。飼い主が、見える所にいたいのだ。

 というのも、数日前のこと、朝からクルマで出て行った飼い主が、夕方のエサの時間になっても戻ってこなかった。日はすっかり傾いて、やがては沈んでしまい、夕闇が忍び寄ってきた。
 今まで何度も繰り返してきたように、もし帰ってこなかったらという思いが胸をよぎる。この年になって、年寄りネコのワタシはひとり残されたら、どうすればよいのだ。
 しかし、ようやくクルマの音がして飼い主が戻ってきた。ワタシは、ギャーオギャーオと鳴き続けながら、飼い主を迎えたのだ。

 生きている者同士の、縁(えにし)。不思議なつながりで結ばれた縁こそが、生きることの必然性を示すものかもしれない。人の世では、無縁化社会への危惧が叫ばれているのだが・・・。
 しかし一方では、その人間たちが、出会いの縁にこだわりすぎて、相も変らぬ男と女のせめぎあいを繰り返し、その果てには命をかけてまでも争っているのだ、たかが色恋沙汰(いろこいざた)くらいで。
 飼い主が、今日もまた、テレビでそんな舞台の一つを見ている・・・。


 「夕方になって雨が降ってきた。すっかり雪の解けた庭には、もうオオイヌノフグリの小さな花さえ見えているし、木々にとっては、木の芽起こしの良い雨になることだろう。もっともこれで、冬が終わり、春になるとは思えないが。

 ところで私事ながら、去年からの仕事の手続きがなかなかはかどらない。そのために、時には遠く離れた町まで日帰りで行かなければならないこともある。
 どうしても帰りが遅くなってしまう。頭に浮かぶのは、ひとりで私の帰りを待っているだろうミャオのことである。
 ずっと一緒に家にいる時は、わずらわしくて、つい怒鳴ることさえあるくらいなのに、離れると心配になってしまう。

 それは、亡くなった母と暮らしていた時も、あるいは若い頃に女の子と一緒に暮らしていた時もそうだった。
 毎日の暮らしの中で、人はいつも知らぬ間に、大切な記憶の蓄えをしているのだが、その記憶の収入が消えて初めて気がつくのだ、もう何も入ってこないと。それまで毎日、何かしら積み重なって来ていたものが・・・。
 ミャオ、なんとか元気で長生きしておくれ。

 さて、この1週間の間、NHK・BSでは例のごとく、ニューヨークはメトロポリタン・オペラの昨年度公演のラインアップが組まれていた。
 20日 R・シュトラウス 『ばらの騎士』
 21日 ビゼー 『カルメン』
 22日 ヴェルディ 『シモン・ボッカネグラ』
 23日 トマ 『ハムレット』
 24日 ロッシーニ 『アルミーダ』

 それぞれにしっかりと録画したのだが、まだ全部は見ていない。
 それにしても、このメトロポリタンやミラノ・スカラ座のように、オペラの伝統を守って公演してくれる劇場があるということ、ましてそれが、ハイビジョンで放送されるということは、私のような田舎に住んでいて、いつまでも初歩的ミーハー的なままの、進歩のないオペラ・ファンにとっては、どれほどありがたいことか。
 保守的といわれるこの二つの劇場さえあれば、私は、革新的、現代芸術的オペラと称されている、ドイツ、オーストリア、フランス、イギリスの舞台を見ることができなくともかまわない。

 そんな、安心して見ることのできるメトのオペラではあるが、とは言っても、時には、今一つ満足できないものもあるのだ。例えば今回のシリーズでのそれは、今やメトの顔ともいえる大スター、ルネ・フレミングの歌った『アルミーダ』である。
 私は、ロッシーニのオペラが好きであり(’10.2.24の項参照)、今回も楽しみにしていたのだが、いかにモーツァルトやR・シュトラウスを得意にしているルネ・フレミングだとはいえ、フィオリトゥーラと呼ばれる、装飾音をつけての歌い方にはまだ十分に習熟していないようで、私にはそこが少し不満だった。
 というのも、私たちは、少し前のあのヴァレンティーニ=テッラーニや、今のチェチーリア・バルトリの歌声を知っているからだ。
 さらに、相手役のローレンス・ブラウンリーは、前にも同じメトの『チェネレントラ(シンデレラ)』にも出ていて、そこでも書いたことなのだが、ロッシーニ歌手としての歌声は素晴らしいのだが、もちろん私には人種差別的な偏見はないと断った上で言えば、その舞台上の小柄の黒人の立ち姿には、この作品としてはどうしても違和感を感じてしまうのだ。

 トマの『ハムレット』は、初めて見るオペラだったが、原作を大分変えて脚色してあり、簡潔な舞台の上に、さらに主演の二人とも知らない名前だったが、興味深く見ることができた。特にあのオフィーリア役のマルリース・ペテルセンの歌う”狂乱の場”は見ものだった。
 残りの『ばらの騎士』と『シモン・ボッカネグラ』はまだ見ていない。そして、ここで書きたいと思ったのは、ビゼーの『カルメン』である。

 それは、上演が終わった後、テレビの前で観客と一緒に拍手を送りたくなるほどの舞台だった。そして、何と言っても、そのカルメンを歌い演じきったエリーナ・ガランチャの素晴らしさに尽きるのだ。

 レコードの時代、カラヤン指揮ベルリン・フィルによる、アグネス・バルツァのカルメンとドン・ホセ役のホセ・カレーラスという、理想的な組み合わせの名盤があったのだが、確かに歌声だけを聴けば極め付きの1点だったのだが、映像としては少し不安な所も出てくるだろう。
 そしてDVDでいえば、あのカルロス・クライバー指揮ウイーン・フィルによるエレーナ・オブラスツォワとプラシド・ドミンゴの組み合わせによる名盤がある。しかし、この二人の歌声は見事なのだが、やはり舞台上の見た目から言えば、少し違和感を感じてしまう所もある。
 このDVDは、やはりあの若々しいクライバーの指揮ぶりを堪能(たんのう)するべき1枚なのかもしれない。

 そして今回テレビで見た、メトの『カルメン』。ガランチャ扮するカルメンが舞台に登場してから、私の目は彼女にくぎづけになった。
 それは、まさにメリメの原作通りの、タバコ工場で働くロマ(ジプシーは差別語にあたるので今は使われない)の女、カルメンのイメージそのままだったからである。目が青いことを除けば。(写真)
 特に素晴らしいのは、ガランチャのその眼力(めぢから)である。今までこのカルメン役を歌ったメゾ・ソプラノの歌手の中では、初めての原作通りの眼をした歌手だったのに違いない。
 ちなみに、メリメの小説『カルメン』の中では、以下のように書かれている。

 『特に彼女の眼は情欲的で、凶暴な表情を宿していたが、これはその後今日にいたるまで、私が人間の目には一度も見たことのないものだった。”ジプシーの目は、オオカミの目”、これはスペインのことわざだが・・・。』

 私は、昔行ったヨーロッパの旅で、このセビリヤのタバコ工場跡も訪れ、グラナダでは多くのロマの人々にも会った事があり、この『カルメン』の舞台と登場人物たちにも、ある程度の理解をすることができた。

 ガランチャの歌は、バルツァなどと比べればまだという部分もあったかもしれないが、それにふさわしい容姿と演技などを含めて見れば、もしかしたら、まさに歴史的なカルメン役だったのかも知れない。
 できればそんな彼女の場面ごとの、歌や演技、踊りなどを紹介したいところだが、とてもこのブログのスペースに収まりきれるものではない。
 一つ上げるとすれば、ラストシーン、嫉妬に狂ったドン・ホセに刺されて、死にゆくカルメン、すべてを受け入れ、永遠を見つめるような、死にゆく狼の目に・・・、私は思わず胸が熱くなってしまった。
 
 もちろん、このオペラはガランチャのカルメンがすべてではない。相手役は、あの当代きってのテノール、ロベルト・アラーニャであり、さらにミカエラ役は名ソプラノのバルバラ・フリットリだし、そして闘牛士エスカミーリョ役のテディ・タフ・ローズは、三日前の代役とは思えないはまり方で、それぞれに見どころが多かった。
 (代役ということで言えば、当初予定されていたこのカルメン役は、あのアラーニャの別れた妻、ゲオルギューだったそうだが、急きょ変更されてガランチャに代わったとのことだ。あの夫婦だった二人が名コンビだったことを思うと、何が幸いするかは分からない。)
 さらに、他の舞台装置、間奏曲中のバレー、指揮者についてもベストではないにせよ、大きな問題があったわけではなく、安心して、歌手達の演技と歌を聴くことができた。
 
 ところで、このバルト三国の一つ、ラトヴィア生まれのエリーナ・ガランチャ(1976~)は、先ごろ同じNHK・BSで放送された、『ベルリン・フィルのジルベスター・コンサート』の中でも、いわゆるスペインものを歌っていた。
 彼女が、オールマイティーに、メゾ・ソプラノ役のすべてを歌いこなせる訳でもないだろうが、少なくとも、この『カルメン』に関しては、彼女がベストのプリマだという思いは、今後も変わらないだろう。
  
 (これは、書かなくてもよい蛇足なのだが、彼女に似た顔の日本のタレントがいる。アイドル集団AKB48の秋元才加(さやか)である。ただ顔が似ているというだけで、全く他は比較にもならないのだが。)

 今回、このオペラ『カルメン』のことを書くにあたって、メリメの小説『カルメン』を少し読みなおしたのだが、そこで、巻頭(かんとう)に掲げられていた言葉を思い出したのだ。
 当時は、なるほどとひとり笑いしていたものだが、今ではセクハラだといわれるかもしれない。しかし、あくまでも作者のメリメがわざわざこの小説のために選んだ言葉である。

 『女は気むずかしいもの。おとなしいのは二つだけ、寝床の中と墓の下。』 
 (古ギリシャの詩人パラダスの言葉)

 ところで、その他のクラッシック番組では、あのおなじみのアバド指揮ルツェルン音楽祭管弦楽団による、マーラーの交響曲シリーズの第9番の、去年8月の演奏が放映された。今年で何と78歳にもなるアバドの、祈りにも似た最終楽章・・・。その消え行く先の長い沈黙・・・。マーラーを愛する、指揮者とオーケストラ団員と観客との間に生み出された、素晴らしいひと時の空間だった。
 (観客の中には『ベルリン天使の詩』(1987年)のブルーノ・ガンツと、『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997年)のロベルト・ベニーニの姿も見えていた。)
 アバドとルツェルンによるマーラー・シリーズは、これで残る1曲、『千人の交響曲』とも呼ばれる第8番だけなのだが・・・。」


(参照文献: 世界文学全集より メリメ作『カルメン』堀口大学訳 新潮社)