ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

近しき冥界

2019-11-25 20:52:36 | Weblog




 11月24日

 戻って来た時に始まっていた、里の秋の紅葉は、このところ盛りの時を迎えていたが、昨日今日の雨で、それも散り始めている。
 家の周りを散歩するだけでも、それぞれの家の庭に植えられたモミジや林の中の紅葉がきれいに見えるし、わが家の庭にある数本のモミジやカエデの他にも、カツラやコナラなどの黄葉もあって、それなりに、家にいるだけでも十分に楽しむことができる。
 上の写真は、ずいぶん昔に植木市で買ってきて植えていた、ヨシダモミジの鮮やかな紅葉だが、この木の葉は、春から秋を通じて赤いままで変わらないのだが、特に新緑とこの晩秋のころは、さらに輪をかけて鮮やかに見える。
 それは、繰り返し見慣れた色でも、思わず見とれてしまうほどであり、写真に写っているウリノキの黄葉と、さらにそれらを際立たせる青空と相まって、今の私の何もない心の色をどれほど鮮やかに染めてくれたことだろう。 
 生きていることは、ありがたいことだ。

 それで、もう2か月もの間、山に登っていない。
 もちろんそれは、私の体調が悪くてそれどころではなかったからではあるが、それだけではなく、そもそも出かけていく気力さえ起きなかったのだ。
 前回書いたように、この九州の家に戻ってきて、すぐに病の床に臥せて、一週間の間、寝たり起きたりの夢うつつの状態だったからだ。

 その時、何を考えていたのか。
 何も考えられなかったのだ。
 苦痛、というほどではなかったのだが、絶えずどこかにある鈍痛と不快感に、白い霧の中にいるような感じで、うつらうつらとしながら、耐えているだけだったのだ。
 もちろん、それが、緊急性の高い痛みなどに襲われていたならば、何としてもタクシーを呼んででも、病院にまで行っていたことだろうが、それほどまでにひどい状態ではないと自分では思っていたのだ。
 ただ何とか、簡単な食事はとっていたし、それでも体重は、一気に5㎏ほど減ってしまい、それはそれで、山に登るためにはもう少し体重を減らさなければと思っていた私には、願ってもいない減量方法になったのだが。(体重が5㎏減ということは、担ぐザックが5㎏軽くなったことを意味するからだ。)

 ともかく病院に駆け込むほどではないにしても、北海道にいた時に起きた、脂汗を流すほどに激変した体調悪化に始まって、九州に戻ってきた時に起きた転倒事故で頭を打って、さらには軽い風邪をひいて、それらが重なって、寝込むことになったと思われるのだが。
 ネットで調べてみると、該当するものがある。
 硬膜下血腫。
 しかし、そこに書かれているほどに、吐き気やめまい、神経症状などは起きてはいないし、ただ、ふらつきと意欲の減退という項目が一致していた。
 さらによくある例として挙げられていることは、クルマの事故などで頭を打って、その時は大丈夫でも、2、3週間後に倒れるということがあるということで、治療は外科手術で、頭蓋骨に穴をあけて血腫を取り除くしかないということだった。
 もう、あれから3週間近くになるが、幸いにも、そうした症状が起きてはいない。

 それだからこそ、病院で検診を受ける必要があるのだが、もともと悪い歯の治療を含めれば、五つの病院診療科にも及ぶし、そのことを考えるだけでおっくうになってしまい、いまだにどの病院にも行っていない。
 というのも、離れた大きな町の病院に行くまでが心配だし、それぞれの病状が落ち着いている、今の半ば自宅療養しているという、状況を変えたくないという思いもあるし。
 何より、病院に行って、新たな重大な病気が見つかり、そのまま即入院になり、ついには病院のベッドで最期を迎えることになるなんていうことは、とても私にとっては耐えられないことだ。
 もっと長く生きられる可能性があるにせよ、もう私は自分の人生を、十分に味わっては愉(たの)しんできたのだからという思いもある。

 最期の時を迎えるのなら、母やミャオとの思い出が詰まったこの九州の家か、あるいは自分の後半生を賭けた北海道の家で、と思っているからだ。
 別にひとりで死んでいくことに、大きな不安はない。
 ただ上に書いたように、その時には、半覚醒の中で、何も考えられないような鈍痛と不快感の中にいることは避けられそうにもないが、最期には、”トンネルを抜けて明るく開けたお花畑に出る”という、臨死体験者たちのある種の法悦(ほうえつ)の状態を信じているのだが・・・。
(「臨死体験」立花隆 文春文庫、「死ぬ瞬間」E・キューブラー・ロス 中公文庫 )

 死後、何日かたって私が発見されようが、構わない。
 もうそれは私ではなく、すべての精神が滅びた後の物体でしかないからだ。
( 「人は死ねばゴミになる」伊藤栄樹 小学館文庫。元検事総長だった人の闘病記 に書かれていた言葉、”人は、死んだ瞬間、ただの物質、全くのゴミみたいなものと化して、意識のようなものは残らないだろう” )

 もちろん私は、こうした即物的な考え方、一時流行ったプラグマティズム(実用主義)的な考え方に、全面的に同意するわけではなく、人々の心の救済という面からみれば、それぞれの宗教の力というものも信じている。
 たとえばそれは、痛みに苦しむその心の霧の中で、ただひとえに仏様や神様の名を呼び続けることは、それが大いなる救いになるだろうと思うし、自分が長年携わってきた、人物や物事を、死のその時まで思い続けることは、またそれも大いなる救いとなるだろうし。
 つまり人々はだれでも、それぞれの心のうちに自分だけの”ロザリオ”を持っていて、それが最期を迎える時の、心のよりどころになるだろうと思うのだが。
(それにしても、被爆地の長崎・広島を訪れたローマ教皇、その世界に向けて語りかけたメッセージは、何という良心に満ち溢れていたことだろう。)

 はたして、私が今回体験した何も考えられない白濁の霧模様の中から、浮かび上がってくる一つのものは何なのだろうか。
 あの日高山脈のカムイエクウチカウシ山か、北アルプスの黒部五郎岳か、それともバッハの「マタイ受難曲」の響きか、フェルメールの「牛乳を注ぐ女」の絵なのか、はたまたあのベルイマンの名作「第七の封印」なのか、それとも「万葉集」からの一首なのか「徒然草」の一節なのか、フランスの詩人による「ジャム詩集」の祈りなのか、そして、今まで私の人生にかかわってきた様々な人々の顔が浮かび上がってくるのか・・・。

 こうして、死を意識しながら、近しき冥界(めいかい)を意識しながら、今ある生をいとおしむこと・・・人生の終末時の喜びは、ここにあるのではないのか、とさえ思ってしまうのだが。
 
 


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