3月2日
それは、極彩色で動めき回る物の、映像を見ているようだった。
目を閉じたまぶたの裏で、白ではない灰色がかった背景の中で、赤や黄色の不規則な形をした物体が、絶え間なく動き続けていた。
それは、昔見たアヴァンギャルド風な近未来を描いた映画の幻影のような、さらには、あのスペインの名映画監督、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』(1928年)の中の一シーン・・・椅子に座った女性の後ろに立っている男が、カミソリの刃を立てて、彼女の瞳を薄く切り裂いていく・・・という衝撃的なシーンまでも思い出したのだ。
しかし、現実的に手術台に横たわる私にとって、それは、まぶたの裏を、つまり眼球の表面をかき回されているような感じで、小さなピリリとした痛みも伴っていたが、“無事に終わりましたよ”という医者の声で、ようやく今ある自分に戻ることができた。
分厚い眼帯を目に張り付けられて、病室で一晩を過ごし、夜中にトイレに起きた以外は、その個室になっているベッドでよく眠ることができた。
翌朝、下の診療検査室に行って、そこで看護婦さんがやさしく眼帯を取り外してくれて、”目を開けてもいいですよ”と言ってくれた。
その時、私の目の前に広がった光景・・・私はこの手術の前に、何度も検査のために訪れていて、見慣れた部屋だったのだが、全く違った景色に見えたのだ。
”明るく、鮮やかにすべてが見えている”。
数台並んだ検査台も、それぞれの検眼表も、忙しく立ち働く数人の看護婦さんたちも、そして窓から部屋に入って来る朝の光も、家並みも、遠くに見える山々も、すべてがくっきりと見え、やさしく私を迎え入れてくれているようだった。
私は思わず涙ぐみ、大げさだがひざまづいて祈りたい気持ちだった。
私は保護メガネをかけて、タクシーと電車を乗り継いで、その間、車窓から見える田園風景と山々の姿を見あきることなく眺め続けて、1時間余りかけて家に戻った。
それが、数日前のことである。
その手術の2週間前、私は右目のほうの手術を受けていて、その時でも十分にその成果を感じていたのだが、いかんせん左目のほうは、まだそのままで、それは薄い黄土色のベールをかけられたような状態で、その違いは歴然としていた。
この手術の後に、医者が、その前と後の私の眼球写真を見せてくれたのだが、そこには、全くあぜんとするほどの差があった。
手術前の眼は、白い幕に覆われていたのだが、それが手術後には、すっかり取りのぞかれていて、私の瞳がはっきりと映っていたのだ。
医者が言うには、”よくこれほどひどくなるまで放っておきましたね”、と言うぐらいの病状の進行状態だったのだが、ただ本人からすれば、少しずつの進み方だから進行具合がわかりづらくて気づかなかったのだ。
とは言っても、免許の更新の際には何度も視力の低下を指摘され、夕方や夜間でのクルマの運転が見えづらく、光がまぶしくて見えなかったりと、自覚症状はあったのだ。
それは、例えば、レースのカーテンがあっても近づいて外を見れば見えるのだが、外側から離れて見ると白いカーテンの中は見えないということと同じで、暗くなればなおさらのことだ。
ともかく、それらの眼の不具合が、両目の手術が行われたことによって、見事にぬぐい去られて、新たにはっきりと見えるようになったのだ。
それは、当然のこと、外の景色や家の中だけにとどまらず、テレビの画面からパソコン画面にまで及んでいるのだ。
私は、カメラで撮る山の写真を、フィルム写真からデジタル写真に代えて、10数年になるのだが、特に目の状態が悪化してきたと思われる10年程前の写真を見て、はっとするほどの景色だったことに気づいたのだ。
あの時の山々の姿は、これほどまでにきれいだったのかと。
私は、むさぼるようにそれらの写真を見続けたのだが、その喜びとは別に、逆に言えば、私は今まで、何という景色を見ていたのかと思ったのだ。あの、かすんだ黄土色のベールをかぶったままの景観を、それが現実にある山の姿だと、何の疑いもなく見ていたのだ。
もちろん、今さらそれらの山々のすべてを登りなおすことなどできないが、それだけにこれからは、この新しくもらった目で、限りある私の山登り人生をじっくりと楽しみ味わっていきたいと思っている。
つまり、新たに眺める山旅の楽しみが、また一つ加わったような・・・まだまだ、そう簡単にくたばるわけにはいかないのだ・・・あの山々たちを見るためにも。
時代劇で、往生際(おうじょうぎわ)の悪い悪代官が、成敗(せいばい)されて、”くそー、まだ俺は死なんぞー”と画面いっぱいに形相が映し出されるように・・・これからも、風変わりな年寄りのよそ者として生きてやるぞー。
とは言っても、去年の秋にあの東北の焼石岳(’19.10.8~22の項参照)に登って以来、何ともう5か月も山に行っていないのだ。
もちろん、それは、その後立て続けに起きた体調の異変と目の手術のために、山に行くことができなかったからなのだが。
ただその代わりに、一月に二三回は、1時間半ほどかけて坂道の上り下りをしているのだが、果たしてそれで山で同じように歩けるだろうかとも思う。
もちろん、短い距離でも疲れたら戻ればいいが、心配なのはバランス感覚とふらつきなのだ。
最初は、歩きなれた九重の山に行くのがいいのだろうが、いつもは人がいないことを喜ぶ私だが、病み上がりの体では、私の異変に気付いてくれるような、人の多い山のほうが良いのではないのかと思っている。
ともかく、今までは、九重には雪の降った時を狙って、冬の間だけでも三四回は行っていたのだが、今年はかつてないほどの暖冬で、牧ノ戸峠のライブカメラで見る限り、しっかりとした雪山になったのは2週間ほど前の一度だけで、それでも平日にかかわらず、駐車場が満杯になっていた。
みんな、この日を待ちわびていたのだろうが、おそらく今年は、それが最初で最後の、九重の雪山になるだろう。
まあ私にしてみれば、今までに撮りだめてきた九重の雪山の写真が何枚もあることだし、それよりは、これから何とかして、春から夏にかけて、遠征登山のできる身体に戻さなければならないのだが、何ともこのぐうたらオヤジときたら、いつもの脳天気で・・・。
上の写真は、1週間ほど前の、庭のウメの花だが、今は満開になっていて、もう散り始めている。
いつもの年よりは、2週間ほど早いが、果たして今年はそのウメの実がなってくれるだろうか。
そのウメの実で作るウメジャムは、私を風邪をひきにくい体質にして、免疫力をつけてくれる特効薬なのだが、今流行りのコロナウイルスに効くかどうかは分からない。
他に書くべきことは、この2,3週間のことでいろいろとあったのだが、残念ながら割愛することにして、いつものことながら、私の”日本の古典文学”愛好癖から、いつもの短歌をあげることにする。
今は『万葉集』『古今和歌集』に続く、『新古今和歌集』を読み始めたのだが、後代の批判は、”技巧的に過ぎる”などと言われることが多いのだが、私は、中世の人々が歌の中に様々に読み込んでいたものに、むしろ現代人以上に繊細な思いと感覚を知って、ある種の親しみさえも覚えてしまうのだ。
ここではまだ読み始めなので、初めのほうの歌の中からあげることにする。
”沢に生ふる 若葉ならねど いたづらに 年をつむにも 袖は濡れけり”
(皇太后宮大夫俊成、自分なりに訳すると:沢辺に生える若菜をつんでいるからではないのだけれど、いたずらに年を重ねてきてと思うと、袖が自分の涙で濡れていた。)
”わが心 春の山辺に あくがれて ながながし日を けふも暮らしつ”
(紀貫之、自分なりに訳すると:私は春の野山に心ひかれて、長い長い一日を思い暮らしている。)
(以上:『新古今和歌集』巻第一 春歌上 久保田淳 訳注 角川ソフィア文庫)