ミャオの家より

今はいないネコの飼い主だった男の日常

よどみに浮かぶ

2019-11-12 20:55:54 | Weblog




 11月12日

 穏やかな秋の日、ベランダの椅子に座り、そうしてゆったりとしていることができるだけでも、ありがたいことだとつくづく思う。
 数日前に九州に戻ってきた。
 里の紅葉が、盛りの時を迎えようとしていた。(写真上)
 しかし、私の身の上はそれどころではなかったのだ。

 北海道を離れる日も、あわただしく決めてしまうことになって、そのためにやり残したことも多くあったのだが、九州のわが家に着いてからも、自分の不注意から半ば寝込んでしまうことになってしまい、ここまで夢うつつの日々を過ごしていたのだ。
 その上に、前々回に書いたような年寄り特有の病気にかかっていたから、もう最悪の状態で、体は不快感と弱い痛みを訴え続けていて、自分の意識はただ自分の身体にあるばかりで、山のことも、「万葉集」のことも、音楽や映画のことも何も考えられず、ましてや哲学のことなど、あの無益な学問についてのことなど何も考えられず、枕もとを訪れるのは夢の中の母や女たちの顔ばかり。

 後になって思ったのだが、本当にお迎えが来るのはその先のことだろうと思う。
 まずは、日常の雑多なことや煩雑(はんざつ)なことは頭から離れて行って、ただ自分の体調だけが、病室に移る心電図のように流れて行って、昔の人々の顔があちこちに見えてくるようになり、やがては彼女らにいざなわれて向こう岸に渡っていくことになるのだろうが。
 生きている時に、自ら考えで生み出していた余分な負担は、体の感覚だけを残して消え去り、それは楽になれるようにするための、ある種の催眠導入に似た防御反応なのかもしれない。

 ともかく、病院に入院したわけでもなく、ただ体の不調で、自宅で何も考えずに、というよりは考えられずに痛みに耐えながら、日々を送っていたというだけのことなのだが。
 ブログの間隔があいた、この二週間もの間、書くべきことはいろいろとあったのだが、たとえば、北海道のわが家の林の豪華な紅葉や、十勝平野の澄んだ青空の下に並ぶ初雪の日高山脈、W杯ラグビー決勝戦イングランド対南アフリカの、意地をかけたチーム同士の緊迫した闘い、WBSSバンタム級の決勝での井上とドネアの、二人の男の意地をかけた壮絶な打ち合い、その一方で沖縄の心と言われていた首里城のあまりにもあっけない焼失事件、台風19号とその後の豪雨による被害の数々、千曲川流域のリンゴ農家の悲劇などなど。
 私にできることは、あまりにも少なく、私にできないことは、あまりにも多い。

 しかしそれらのことも、病に倒れて夢うつつの中にいた私には、すべてこの世の遠い世界でのことであり、むしろそうして、何も考えられないことのほうが当然のことであり、そうして最後には、自分一人の身になって、空に昇って逝くのではないのかと。
 俗世での様々な考え悩みを、自分の身だけに代えて振り払っていくからこそ、ある意味での”無垢(むく)な身体”になって天国に召されるようになるのではないのかと。


 ” ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。”

(『方丈記』鴨長明 小学館 日本古典文学全集)


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