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デジカメ持って小旅行「坂東三十三箇所霊場5番札所勝福寺(しょうふくじ)」

2009-06-15 09:37:10 | 旅行

           
 小田原市飯泉(いいずみ)にある勝福寺へも少し迷って着いた。厚木市の長谷寺からは、有料の小田原厚木道路を走った。この道路、なんと制限速度が70キロではないか。一般国道でも60キロのところが多いというのに、料金を取ってたった10キロ増しとはあきれて物も言えない。最近のニュースで、国道の制限速度を80キロにするとかしないとかという記事を読んだ。この70キロは、まったく浮世離れした制限速度だ。一般国道でも制限速度の60キロで走っている車はほとんどないと言っていい。
 小田原厚木道路に乗り入れた車は、きれいに並んでせいぜい80キロから90キロのスピードで走行車線を整然と走っていた。途中目にした覆面パトカーに捕まっている車を見かけて、みんな自重しているのだろうと勝手に思うことにした。
 まあ、それでも信号のない道路ということで、瞬く間に小田原東インターを降りた。そして勝福寺への道のりは、迷ったせいもあって長かった。しかも寺の門前まで狭い家並みを潜り抜けるように走ることになった。
 何でこんなに狭いのか。何もこの小田原だけではない。首都東京でも都庁の近辺の住宅街でも、車一台がやっとという道が一杯ある。近代都市東京とは到底思えない状況だ。ましてや地方のここ小田原は、致し方ないのかもしれない。
 江戸時代に車を押し込んだ日本の道路事情は、なんとも情けない気がしないでもない。そんな愚痴っぽいことも、勝福寺の駐車場に乗り入れたときはもう忘れていた。
 説明板や小田原市のホームページ、ウィキペディアの記事から寺暦を抜粋してアレンジすると、飯泉山勝福寺(通称飯泉観音)は、十一面観音を本尊とする真言宗東寺派のお寺である。創建は奈良時代といわれ、弓削道鏡(ゆげのどうきょう:奈良時代の法相宗の僧)が流されて下野に赴くとき、女帝の孝謙天皇より贈られた唐国伝来の観音像を安置したと伝えられる北千代田台(小田原)に建立した千葉山弓削寺の東院堂ともいわれている。
 この道鏡は有名人で、道鏡が孝謙天皇の寵愛を受けたことから、平安時代以降の学者によって、天皇と姦通していたとかそれに加え巨根の持ち主などの噂があるようで、日光の金精峠に建つ金精神社はそれを代表するものらしい。しかし、具体的資料が乏しく真偽のほどは不明のようだ。
 という余談はさて置き、のちに千葉山弓削寺が焼失し、現在地に移されて現在の名称になり、小田原城の鬼門鎮守の道場としてあがめられた。神奈川県指定文化財の本堂は、棟札(むなふだ:棟上げの際、施主、施工者、年月日、工事の由緒などを記して棟木に打ちつける札。棟木に直接書いたものもある)によれば、宝永3年(1708年)に再建されたもので、江戸初期頃の古式をとどめた地方色豊かな建物である。また、お寺にまつわる伝承として、曽我兄弟が仇討ち祈願のために日参し、五郎が百人力、十郎が十人力を受け富士の裾野で仇討ちに成功したことや講談で有名な雷電為右衛門が田舎相撲の大岩大五郎を倒したこと。また、二宮尊徳が少年時代、旅僧から観音経を聞き一念発起した地であるといわれている。
         
         
          吽形仁王像
         
          阿形仁王像
 小田原市が指定した文化財の一つに仁王門がある。したがって説明版も建ててあって、わたしのように仁王像に興味のある向きにはありがたかった。文化財としての指定そのものが少ないせいか、どこのお寺も仁王門や仁王像についての説明が殆んどない。その説明板によると、宝暦8年(1758年)に造営されたもので、全体に木割が太く、二重虹梁蟇股式(にじゅうこうりょうかえるまたしき)の妻架構が堂々とした外観を構成しています。また、八脚門としては県下でも最大級で格調の高い門です。と言われても建築用語を理解していないと、すんなりと頭に入らない。
 それに仁王像については何の言及もない。というのも、地元の人の作品で詳細不明といったところだろう。二重虹梁蟇股式というのは、虹梁と蟇股を用いた構架式の一つ。虹梁と大虹梁を重ねその間に蟇股を用いたもの。引き続いて、虹梁とは、社寺建築における梁(はり)の一種で、虹のようにやや弓なりに曲がっているもの。蟇股というのは、社寺建築で梁や桁の上に置かれる、輪郭が山形(かえるが股を広げたような形)をした部材。大虹梁(だいこうりょう)は、二重虹梁の場合に、下方の大きいほうをさして言う語。ついでに、八脚門とは、門の形式の一つ。一重の門で本柱四本の前後にそれぞれ控え柱が合わせて八本あるものをいう。大寺院や宮城の門に用いられる。これでハイ分かりましたとは言えない。どうやら現場で解説が要るようだ。
          
          青銅水鉢
 他に小田原市指定文化財として、青銅水鉢がある。この水蜂は、青銅製で竜頭船の形をしている。船尾に十一面観世音菩薩の坐像が一躯あり、水鉢の全体に多数の銘文が刻まれている。
 銘文によれば、作者は江戸神田の鋳物師小沼播磨守藤原正永とあり、江戸時代の宝永元年(1704年)七月と記してある。この水鉢は、水鉢として形などが珍しく、その造りも優れている。全長274㌢、幅45㌢、高さ37㌢である。という説明板がある。形などが珍しくとあるが、わたしも幾つかのお寺で見たが、十一面観世音菩薩の坐像があるのはここが初めてだ。
         
            
            烏枢沙摩明王
 それに、このお寺には初めて見るものがあった。俗な言葉で言えばトイレの仏様にお目見えしたということだ。普通のトイレの建物に「烏枢沙摩閣(うすさまかく」の看板がかかってあり、内部にお手洗いの仏様「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう」の姿を彫ったものが掲示してあった。
 烏枢沙摩明王は、不浄潔、除穢(じょえ)、火頭(かとう)などと訳す。汚れを清浄に変える徳のある明王。
         
 男女の入口には、「東司(とうす)」と表示してある。東司は、禅寺で厠(かわや)の別名。本来は東序(雑事や庶務を処理する僧)が用いる便所。わたしたちは、うやうやしく使わせていただいた。
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