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小説 人生の最終章(11)

2007-04-28 13:18:31 | 小説

14

 最後の診察に病院に行ってから、早いものでもう一週間が過ぎようとしていた。香田のことは時折思い出しているが、まだ踏ん切りがつかない。京子に痛いところを突かれた。
「あなたが変に気を回して、相手の誘いをすぐセックスに結び付けているんじゃない。もう少し素直になって、ドライブでも楽しんでらっしゃいよ。考えすぎというものよ」
言われればその通りで、反駁の余地はない。その言葉がきっかけで、ようやく香田にメールを送る気持ちが決まり始めていて、パソコンの前で文案を考えていた。積極的な気持ちが少し欠けていて、文案の出来栄えが今ひとつの状態がしばらく続いていた。
 完成を見ない文案を一まず置いて、コーヒーを淹れにキッチンに入り出来るのを待った。窓から見える海は、今日も青くすこし霞がかかった空気に包まれていた。頭の中で考えるともなく文案の断片を転がしていると、一気に形になった。
「香田様 今、窓から海を眺めています。青い空に青い海、遥か向こうで一体になる様子が見える気がします。これを眺めているととても心が和み、お誘いのドライブをしてみたくなりました。ご返事お待ちしています。浅見けい」
 送信ボタンにマウスをあわせ一瞬のためらいののち、思い切ってクリックする。もう事態は動き始めた。後戻りは出来ない。とはいっても、香田が返事をくれればの話だけれども。そこではっとして、文案に「遥か向こうで一体になる様子が見える気がします」の中の「一体」が曲解される恐れを感じて身がすくんだ。もうどうしょうもない。が、しばらくすると開き直った気持ちが心を落ち着かせてくれた。

 香田の日課は大体決まっていた。朝七時に起きて夜十一時に就寝というパターンだった。長い休暇の真っ只中を過ごしているようなもので、会社という組織になんの義理も義務もそれに権利もない状況は、まるで川面に浮かぶ枯葉のような心許ない思いをさせられている。
 そこで始めたのが、ジョギングやウォーキング、サイクリングそれにキャンプ、インターネットのブログだった。これが香田の性(しょう)に合ったのか長続きしている。
 
 それに読書や映画鑑賞、たまに料理も作っている。この料理は、フランス料理の本を買ってきて試してみるというもので、妻から見ればお金のかかる迷惑な料理なのである。時間に縛られないという生活は、誰でも一度は夢見るだろうが、どっぷりとその環境に浸(つ)かってしまえば、思うほど快適ともいえない。だらだらとしていると、体がしゃきっとせず食事が不味(まず)い。自己管理が重要になってくる。運動はその点で格好の趣味となった。
 読書を長く続けたおかげで、文章にも興味が出てきて、パソコンで少しずつ小説らしきものを書き始めている。
 今日も近くの遊歩道でウォーキングを終えて、昼食のあとパソコンを起動した。決まって行う作業は、ブログを開いてアクセスしてくれた数の確認、次いでメールを確認する。ブログへのアクセス数は、いつものように十件ほど、メールは数十件ある中に浅見けいのメールが混じっていた。諦めていたので、じっと目を凝らし、確かめるように目を細めた。
ほかのジャンク・メールはすべて削除して、残ったただ一つのメールを開いた。
「香田様 今、窓から海を眺めています。青い空に青い海、遥か向こうで一体になる様子が見える気がします。これを眺めているととても心が和み、お誘いのドライブをしてみたくなりました。ご返事お待ちしています。浅見けい」
 
 香田は大きく息を吐いた。頭の中は、いろんな思いが交錯していた。気持ちが揺らぎ落ち着かない。突然の返信は何を意味しているのだろうか。あるいは、単に気持ちの整理がついたので、なんの意味もない気楽な返事だったのかもしれない。いずれにしても香田の気持ち次第だった。しばらく考えてみることにして、大リーグのサイトに飛んだ。
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小説 人生の最終章(10)

2007-04-25 11:26:57 | 小説

13

 香田は午前九時半に車で自宅を出た。診察の予約時間は十時半になっているが、途中何が起きるか分からない。事故で渋滞したり自分の車が故障したりするかもしれない。
 香田は現役時代、会社に出勤するのは一番早かった。通勤電車の遅延を考えているのと、皆が出揃ったところへのこのこと顔を出すのが嫌いなせいもあった。家族からはA型人間だと揶揄された。
 季節は六月に入っていて、今日も汗ばむほどの陽気になるという天気予報になっている。フォックスファイヤー・ブランドの、胸に二つのポケットがある白のコットンシャツにブルージーンズを合わせた服装は、少しでも若々しさが欲しいという願望の現われだった。いずれも着続けていて、かなり古びて見える。
 車のオーディオにMDディスクを差し込み、エディ・ヒギンズ・トリオのピアノ・ジャズを聴きながら、病院の駐車場に滑り込んだのは、午前十時十分頃だった。

 けいは、香田が薦めてくれて読んでいたヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」から顔を上げて廊下の先を見つめた。丁度香田がこちらに向かって歩いて来るところだった。顔を下げて知らん振りをしようかと思ったが、なんだか卑屈な気がしてじっと見つめて待った。
近づいて気がついた香田が
「おはよう。お変わりないですか」と笑顔で問いかけてきた。けいはメールの返事をしていない負い目も一瞬に吹き飛んで
「ええ、ありがとう。香田さんもお元気そうですね。それに若々しい」なんと調子よくお世辞まで言っていた。香田は苦笑いを浮かべながら
「ありがとう。あなたもシックですよ。なかなかいい配色だ」けいは、部屋で着ている男物風の白のコットンシャツと脚にフィットした黒のスラックス姿だった。シャツは第三ボタンまで外された襟ぐりが見え、首から茶色っぽい素朴なネックレスが覗いていた。

 周囲の人は、中高年の男女が若者のような歯の浮いたお世辞を言い合っているというような目つきで眺めていた。けいの隣の人に横にずれてもらって、けいの跡に香田は腰を下ろした。けいの体温で席が暖かく、厭でもけいの肉体を想像してしまう。さらに並んで座ると、肩が触れ合い薄着の季節で、一層妄想が湧き上がり息苦しくなる。それを振り払うように
「いい季節になりましたから、この間、妻と日光の方に行って来たんですよ」けいは香田が、いい季節になりましたからと言ったとき、瞬時に誘われるのではと身構えたがそうではなかったのでほっとしていた。同時に「そうですか、それは良かったですね。行楽シーズンで混んでましたか?」と言っていた。
「ウィークデイですから、それほどでもなかったですね。あなたは如何なさっていたんですか?」香田は横目でちらりと見ながら言った。
「私は、ジムに行ったり友人とジョギングをしたりしていましたわ」と言いながら顔を香田に向けた。
「ほう、そうですか。実は私もジョギングをするんですよ。短い距離ですが」ちょっとはにかんだ表情だった。
そのとき、けいが呼ばれて「お先に」と香田に言葉をかけた。香田は少し中腰になってけいを通した。けいは、ほのかな花の香りを残して診察室に入って行った。

 取り残された香田は考えていた。やはり誘うべきか。自分の決断に従えば、誘わないのがいいのは分かっていた。しかし、こうして直(じか)に顔を合わせ、小さな部分ではあるにしろ触れ合ってみるとその決心が揺らいでくる。
 アナウンスは香田順一の名前を呼んでいる。薄暗い診察室の前の椅子で待っていると、担当医から名前を呼ばれ、名前の分からない機械の前に座り、眼底や眼圧を調べて前回と同じ薬の処方で終わる。
 カーテンを引き開けて、見渡してもけいはいなかった。処方箋を持って精算に行き、病院の前にある院外薬局で薬を受け取る。毎回同じことの繰り返しをしている。うんざりするが、この程度の病気であることにある意味で安心感をもつべきなのだろう。
 駐車場に引き返す途中、もう一度院内に戻って会計前の椅子席に、けいを探すがやはり姿は見えない。残念だけど諦めるしかない。そう思うと、決然と駐車場に向かった。

 会計窓口からのびるカウンターの奥にある廊下の角からけいは密かに見つめていた。なぜだか自分でも分からないが、香田がどんな行動をとるのか確かめたい気持ちがあった。明らかにけいを探しているのは間違いない。
さて、どうしよう。香田を嫌っていないことは確かだし、むしろ好感を持っているといってもいい。が、今結論を出すこともない。今夜あたりゆっくりと考えてみよう。
 けいはモノレール駅へ歩き始めた。病院からゆっくり歩いてモノレール駅までほぼ十分の距離だが、汗がにじみ出てくる。なんとなく体がしゃきっとしない。この六月の気だるい空気のせいなのだろう。
 夕食の惣菜を求めてデパートの地下に降りて行った。一人身になると料理が億劫になる。だからといって、出来合いの惣菜を買う気がしない。最近では若い人に限らず、年齢に関係なく、買う人が増えている。そうはいっても簡単料理になりがちだ。誰か食べてくれる人がいるのとは大違いだ。
 午前中ということもあって、客はそれほど多くない。食品売り場をゆっくりと歩きながら、山のように積み上げられているのを見ると、全部売れるのだろうかと心配になってくる。世界には飢えで苦しんでいる地域や国があるというのになんと恵まれていることか。
 けいは、多くを作らず作ったものは全部食べることで、苦しんでいる人たちに何も出来ない自分の感情と折り合いをつけている。さて、今夜はエビフライにブロッコリーのアリオリソースをかけたものにしようかなどと、頭の中で独り言を呟いていた。

 香田が自宅に帰り着いたのは正午少し前だった。窓を大きく開け放たれたリビングの窓から入ってくる蒸し暑い風に、不快な気分にさせられる。妻の丸子は、昼食の支度で鍋がじゅうじゅうと音を立て、まな板で何かを切っている音が聞こえてくる。
 テレビのスイッチを入れる。NHK・BSの大リーグ中継にチャンネルを合わせる。セイフィコ・フィールドでのロイヤルズとマリナーズの試合を放送している。試合は始まったばかりで、三回の表マリナーズの攻撃の場面だった。イチローはすでにヒットを打っているようだ。
 マリナーズは今年も、三番四番打者の不振が続いていて、今後に不安を残している。かつての大リーグ中継を見ていたような、どきどきする興奮が薄れてきたように香田には思えてならない。
 十一年前、ドジャースに入団した野茂英雄のデビューは鮮烈に覚えている。ドジャー・ブルーのユニフォームがカリフォルニアの青い空の下でまぶしく輝いていた。
 先駆者となった野茂に続いて、多くの日本人メジャーリーガーが誕生した。それにつれて大リーグ中継は、日本人選手中心の編成になり、大リーグへの幅広い視野が狭められたように香田には映る。何も日本人選手だけがメジャーリーガーではないという反発も含めて、見たい選手が見られない不満を抱え込む格好になっている。そんなことを考えていると、妻から「お昼ご飯ですよ」と知らされた。
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小説 人生の最終章(9)

2007-04-22 13:06:39 | 小説

11

 香田は朝起きたとき、今日は図書館に行く日になっているのを思い出した。借りた本を返すこともあるが、この辺で心に響くものを読みたいとも思っていた。
 中央図書館は車で三十分ほどの距離にある。まだ新しい建物で、生涯教育関係や子供のための映画会など、催しものにも力を入れている。本棚の間はゆったりとしていて、人とぶつかることはない。
 香田は、はじめにデータベース検索機で本のありかと在庫状況を調べて、本棚に向かうことにしている。新しい本は貸出中の表示が多い。
 今日はヴァージニア・ウルフの〝書評は役に立つか?〟とか〝病気になったときに読むには、どんな本がいいか?〟など皮肉とユーモアに満ちたエッセイと短編を収めた「病むことについて」を借り出した。
 ヴァージニア・ウルフの著作は、「ダロウェイ夫人」「灯台へ」「ヴァージニア・ウルフ短編集」と読んできて、中には難解な文章に阻まれ、読解力を試されているような気分にもなったが、ウルフの文体は何故か人を惹きつける。

12

 昨夜は夢を見なかった。ワインをボトル二本も京子と空け、彼女が帰ったのは午後十一時ごろだった。タクシーを呼んで帰ってもらった記憶がある。
 結構酔っていて、お互い言いたいことを言ったようだった。これっぽっちも覚えていないが。それにいやに頭が痛いので、二日酔いなのだろうとけいは思った。顔を洗っても歯を磨いても一向にしゃきっとした気分にならない。
 朝食のことを思うと吐き気がして、とても食べる気がしない。子供のころ父が言っていたのを思い出した。二日酔いに迎え酒がいいとか。じゃあ試してみよう。
 冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを取り出して飲んでみると、最初の一口は、うっとして胃の中のものが戻ってきそうだったが、二口三口と重ねていくと、すんなりと喉を通るようになった。と同時に体内のアルコールを誘い出したのか、一本の缶ビールが二本の効果を見せ始めた。
 不思議に頭痛もしないし胃のむかつきも気にならない。おまけにほんわかといい気分まで連れて来てくれた。
 深呼吸をして窓の外を見ると、初夏の光に海は輝いて見えた。その風景は、ますます高揚した気分をもたらした。京子が無事帰宅したのか確かめたくなり、指は京子の電話番号を押していた。三度目の呼出音で京子が出た。
「吉田です」駆けてきたのか声は弾んでいた。
「浅見です。無事に帰ったのね。きのう飲み過ぎちゃったみたい。頭が痛くて胃がむかついていたの。缶ビールで迎え酒をしたら大分良くなったわ」
「そお、かなり酔ってたわ。私にキスをしようとしたわよ。いつもそうなの?」
「まさか、でも覚えていないわ。何か変なこと言わなかった?」ちょっと心配そうでぶっきらぼうに訊ねる。
「言わなかったと思う。私も酔ってたからうろ覚えなのね。でも、これだけは言えるわ。浅見さん、いい相手を早く見つけることがいいようね」
「どうして?」
「はっきり言わせてもらえば、浅見さん、欲求不満なんでしょう。そのように見えたもの」そうかも知れないしそうでないかも知れない。けいは、計りかねていた。
 再び夜が訪れた。今日も夏日だった余韻が残っていて、扇風機の風が心地よい。東京湾は、すでに黒に染まり、かすかに京浜の明かりが朧に見える。
キッチンの壁に貼ってあるカレンダーをぼんやりと眺めていると、六月二日金曜日で焦点が合った。もう少しで忘れるところだった。病院にいく最後の日だった。
 ふと、香田のことが脳裏に浮かんできた。メールの返事をしていないし、明日病院で顔を合わせるのが苦痛に感じられる。
 でも、いまさら悔やんでも始まらない。明日彼がどんな対応をするか見てみるのもいいかもしれないし、一度くらい日帰りのドライブに付き合っても――という考えが浮かんで消えた。
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小説 人生の最終章(8)

2007-04-19 13:12:26 | 小説

10
 広大な海浜公園は、花の美術館、テニスコート、野球場、サイクリングセンター、プール、ヨットハーバーがあって、家族連れや若者で賑わっている。今日はウィークデイということもあって人はまばらだった。
 京子のペースに合わせるにはかなり無理を強いられる。そこで、自分のペースでということになり、別行動をとり駐車場で待ち合わせることで意見の一致を見た。
 けいは、白のTシャツと黒のショート・スパッツそれにスポーツサングラスで決めている。その姿は、女の子のグループからも注目を浴びていた。
 今日の気温は、二十五度近くまで上がって夏日の予報になっている。ゆっくりと走り始めるが体が重い。京子のあの軽やかさが、うらやましくて仕方がない。三十分ほど走って大汗をかき、おまけに足がだるくなって駐車場のベンチで京子を待つ。それから三十分が経って、京子が上気した顔で戻ってきた。時間を充分かけたストレッチで筋肉をほぐしている京子に
「夕食の献立を考えているんだけど何かお好みがある?」と聞くけい。
「わたしは何でもいいわ。あまり脂っこいものやステーキなどは敬遠したいけど」
「そお、じゃあ豚肉の包み焼きと具が入っていないパスタでいかが?もちろん白ワイン付きよ」
「それで充分、聞いただけでお腹が鳴り出したわ」

 二人は来た道を自転車で引き返し、食材とワイン調達のため、途中にあるスーパーマーケットに入っていった。全国どこにでもあるこのスーパーには、午後五時前ともなると買い物客で賑わい出す。豚ロース肉、生クリーム、シャンピニオンと冷えたイタリア産白ワイン二本を買って帰る。帰り着くとけいは京子にシャワーを勧め、自分は献立の下ごしらえに取り掛かった。
 
 豚肉の包み焼きは、フランス料理の本から、あまり手間のかからないものを普段から作っている料理で、小麦粉をつけた豚ロース肉をフライパンで両面を焼き、アルミフォイルに包んでシャンピニオンのクリーム煮をかけ、さらにチーズを乗せてオーブンで焼くという簡単料理だ。
 具のないパスタは、文字通り具がない。ニンニクと鷹の爪しか入っていない。これのポイントはパスタの茹で加減に尽きる。今日も美味しく出来ればいいんだけど。

 シャワー室の扉が開いて、バスタオルを胸から巻きつけ頭にもタオルで覆った京子が出てきた。
「お先に、ああさっぱりした。浅見さんのマンションは設備がいいのね。海も見えていい眺めだわ」
「その通りよ。今あなたが言った点が気に入って買ったの。じゃあ、シャワーを浴びてくるから。オーブンに豚肉を入れてあるけどそのまま置いといて」
 べとつく汗を流し、さっぱりとした気分で、深海を思わせる濃いブルーのTシャツに白のスラックス、女同士だからノーブラという気楽な装いでキッチンに戻る。
 パスタが茹で上がると同時にオーブンの料理もちょうどいい具合に出来上がった。それぞれ大きめの皿に取り分けて、ベランダのテーブルに並べる。冷えたワインを入れたグラスをかちりと合わせて、二人同時に「お疲れさま」
「フー、冷たくて美味しい!」京子の感嘆の声を聞きながら、赤味がかった西日が海面や遠くを行く船に射している。風のない穏やかな夕暮れも近いこの時間、路上の車の音がなければ、世界が停止しているのではないかと錯覚するほど、なにもかもが静かさの中にあった。その静寂を破ったのは、京子だった。
「ああ、穏やかで気持ちがいいわ。この瞬間がずーと続いて欲しい気がする。ところで浅見さん、ここでお一人お住まいなんでしょう。広くてうらやましいわ。でも、寂しくないですか?」
「もう慣れちゃったから、むしろ気楽でいいわよ」心ならずも少々の強がりでけいは答えた。
「何年になるんですか? ご主人を亡くされてから」
「ほぼ四年ね」と思い出すような表情になる。
「私は生き別れなんです。別れて二年になりますけど、最初は寂しい気がしました。一人が寂しいという意味ですけど、そんな日が続いていたとき、甘い言葉に負けちゃいました。その人とは今も続いていて、今日もデートなんです」と言うがあまり嬉しそうでない。
「そお、楽しんでいらっしゃい。でも、まだ若いから再婚を考えている?」
「考えているんですが、こぶつきでは難しい面があって、ずるずると関係しているってのが現状です。その彼も家庭があるので、結婚なんてとても考えられないことなのです」と京子は溜息を漏らす。
「浅見さんはどうなんです?」
「再婚のこと?」
「ええ」
「再婚は考えていないわ。色恋沙汰なんて煩わしいわ。よほどの男でない限り」ちょっとぶっきらぼうな言い方になったかもしれない。けいは少し苛立っているようだ。
「そうですか。それじゃ少し立ち入ったことをお聞きしますが、浅見さんの年齢で性的欲求はあるんですよね」
ふざけんな! そんなことを聞くものじゃない! たとえ立ち入ったことを聞くようですがという断りの言葉を添えても。けいは一瞬怒りで顔が赤くなったように思った。ワインのボトルは二本目を消化している最中だった。結構飲んだんだ。顔が赤いのは、ワインのせいだった。
 それに、京子もワイン好きで飲んでいたから、抑制が効かなかったのだろう。歳を取ったらセックスはどうなるのかと言う疑問も普通のことだ。母親に聞くのも気が引けるだろうし、けいが格好の対象となっただけのこと。むっとするのも大人気ない。
「もちろんよ。生身の人間ですもの」
「それじゃあ、ボーイフレンドは……」
「残念ながら、いないわ」
「そうですか。母の友人に中高年の結婚紹介業者を通して、幸せにめぐり合えた人がいるんです。そこで、私考えていたんですが、人は幾つになっても人の肌が恋しいのだろうと」京子は真剣な顔を向ける。
「人それぞれというところかしら。私もめぐり合えたらどうなるんでしょうね」
「あら、まるで他人事のようね。チャンスは掴まなくっちゃ、それにセックスは体にいいんですよ」京子がにやりとして言う。
「どうして?」
「精神の解放があるから」
「それ、誰が言ったの?」
「わたし」と京子は澄まし顔で言う。それには、けいも笑わずにはいられなかった。
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小説 人生の最終章(7)

2007-04-16 11:35:54 | 小説



 香田は、妻の丸子と日光の半月山にドライブをした。この丸子という名前は、生まれたとき丸々と太っていたのを見た父親が丸っこいなあと言って、そのまま丸子になったとか。冗談のような本当の話しを聞いたことがある。
 香田はもともと登山が好きで、妻とはよく山歩きを楽しんだものだが、去年筑波山に登ったとき、妻の急病で筑波大付属病院に緊急入院してから登山とは疎遠になっている。
 緊急入院の原因は、ウィルスによる心膜症で、肩の痛みと胸が苦しくなる症状が出る。車の中で症状がひどくなったときの妻の表情は、香田にとって忘れられないものとなっている。
 香田の結婚は、友人に紹介された見合い結婚だった。香田の性格が短気でわがままなところがあって扱いにくい男である。そんな男に三十五年以上も連れ添った妻の忍耐には、香田も心の中で感謝以外のすべはなかった。
 妻が姉妹の家に行って留守の間、妻に先立たれればこの部屋で、二度と姿を見ることがないと思うと、いたたまれない寂寥感に襲われる。

 そのくせ今、浅見けいに異常な関心を寄せている。勝手な性癖は直っていないか。やはり、浅見けいのことはあきらめるのがいいのだろう。そう、もうメールはしないと心に誓った。
 半月山山頂から中禅寺湖を眺めながら、顔にしわが増えているが屈託のない笑顔を見せて、昼食の弁当を美味しそうに食べている妻に笑顔を返す。踏ん切りがついたので心からの笑顔だった。帰りの車中は、次の旅の話に費やされた。
「今度は一泊がいいかな」
「一泊でも二泊でも、美味しいものを食べて、きれいなお花があればいいわ」妻の頭の中は、食べ物と花のことで一杯なのだろう。
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小説 人生の最終章(6)

2007-04-13 11:27:34 | 小説



 けいは、夢を見ていた。男に抱かれている夢だった。激しいキスと乳首の愛撫、愛撫の手は茂みの下の、敏感な部分に下りてきた。あっという声に目を覚まして、見ると自分の手がまさぐっていた。
 肩で息をするほどの激しさに驚いてもいた。この歳になってどうしたことなのだろう。夫が亡くなってから四年が経つ。生前の夫との夫婦生活は、夫が病気をする少し前までは順調で、セックスに不満はなかった。
 よく言われるように、男は自分が果てると、妻のことなど見向きもしないのが多いと聞く。夫はそうではなかった。妻が十分満足するのが当然で、夫婦円満の極意はセックスにあると信じて疑わなかった。
 そのためかなり好色な面があって、セックスに関する本を読み、それを実行した。けいも、夫によって多くの性感帯を開発された。かつての貞操観念の強すぎる女はどこにも存在しなくなった。そして今、忘れかけていた快楽が甦りつつあった。それは、香田という男の誘いに刺激されたためなのか。まだ、判然としていない。
 
 パンティに股間の湿り気を感じて脱ぎ捨て、姿見に映った体を恐る恐る見つめる。体形の崩れはあまりなさそうだ。乳首を摘まんでみると、さっきの夢の余韻が残っていたせいか快感が全身を流れる。
 その感覚を振り払うように、急いでTシャツに短パンを身につける。ほっとして時計を見ると、午前七時を指していて外は五月晴れの好天に、東京湾もきらきらと輝いて見えた。ハムエッグとトースト、コーヒーの軽い朝食にして、新聞を読みながらゆっくりと摂る。特別興味のある記事はなかった。相変わらず事件や事故の多さに、厭な気分にさせられる。

 朝食後は、掃除と洗濯に費やされ、いつものようにパソコンの前に座ったのは、昼食を済ませてからになった。
 電源を入れて立ち上げ、メール確認の画面を開く。ここも相変わらず、いろんなところからいろんなメッセージが書き込まれて届けられている。一度でもインターネット・ショッピングを利用するとメールが送られてくる。削除のためチェックを入れていくと、あの人香田からのメールが入っていた。チェックを入れたメールをすべて削除して、香田のメールを開く。
 予想したように、この間の誘いの返事を求めている。あの昼食のとき、メールはしないと決めていたがどうしたものだろうか。けいは迷い始めていた。

 うじうじと考えていても、何の解決にもならない。体を動かして何かに集中して発散するのが、体にも精神的にも一番いい。彼女は決断すると行動は素早い。
 午後三時にはスポーツバッグを引っつかんで、ジムのガラス・ドアを押し開けていた。
 受付の吉田京子が魅力的な笑顔で迎えてくれた。彼女はトレーナーで、本来午前の担当なのに、今日は珍しく午後になっている。
けいが、「あら、午後に変わったの?」と聞くと
「いいえ、今日だけ交代したの。明日は午前になるわ」京子は学生時代からのアスリートで、ランニングなら一キロ三分半で二十キロは軽くこなす。
 そもそも、けいがジョギングを始めるようになったのも、京子が勧めたからだった。何度か近くの海浜公園で一緒にジョギングをしたことがあるが、基礎を叩き込まれた走る姿の美しさには、惚れ惚れと見入るしかない。しかも、彼女はいわゆる八頭身で、身長百六十センチのすらりとした体躯は、アスリートそのものだった。年齢は四十代始めだろうか。けいと一回り近く年齢差がある。

 ロッカールームでジョギングに使っているショート・スパッツに履き替えていると、肉感的で胸の谷間をこれ見よがしにして、あれこれとうるさく聞いてくる女がトレーニングを終えて入ってきた。顔見知りで挨拶をしないわけにはいかない。
「いいわね。あなたのスタイル。私と違って贅肉が付いてないようね。うらやましいわ」
「そうでもないけど、ただ運動と食事のバランスを考えていることは確かね。アルコールは控えめ、美食はしない。タバコは吸わない」とけい。
「あら、それじゃあ、人生楽しくないじゃない?」と女はのたまう。
「決してそんなことはないわ。わたしは十分楽しんでいるわ」と言ってけいは、ジムに向かった。その背中に「いい男がいるのでしょうね。あなたには」
「ありがとう。いずれ見つけるわ」と言ってドアを閉めた。そこで、いやな女はかき消されてしまった。

 ストレッチのあと、自転車漕ぎから足や腕の筋肉強化、腹の贅肉落しなど女性向のコースをこなし、シャワーでさっぱりする。今でも耳の中でこだましているのは、あの女の言った「いい男がいるのでしょうね。あなたには」という言葉だった。
 受付カウンターで吉田京子にカードを返す。「お疲れ様。浅見さん、久しぶりにジョギングをご一緒にお願いできないかしら。明日の午後だけど。母が娘を預かってくれるの。だから大いに楽しもうっていうわけ」
「あら、娘さんがいらしたの?」
「私、言わなかったかしら」
「ええ、そうだけど、ご一緒してもいいわよ。今思ったのだけど、そのあと、家で夕食というのはどう」
「いいわね。ご迷惑でなければ」
「迷惑だなんてこれっぽっちも。じゃあ、それで決まりね。時間はいつでもいいから、そちらで決めてもらって、電話をくださいな」けいは、手を振ってジムを後にした。
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小説 人生の最終章(5)

2007-04-09 13:09:50 | 小説



 季節はどんどん移り変わり、爽やかな風を感じていたのが、もう夏日と言う言葉も聞かれるようになった。沖縄地方はすでに梅雨に入っていて、関東地方も近々(ちかぢか)雨の季節を迎える。
 けいも夫の死後、自分一人分のこまごまとした雑事は、あまり時間をとらない。例えば食事、夕食も大げさな献立はなくなった。イタリア料理にワインを楽しむというのも過去のものとなった。洗濯にしても掃除にしても、このマンションに越してきてからは、一時間もあれば十分だった。
 時間に余裕が出来て体を動かさなくなったので、健康のため近くのスポーツジムでトレーナーの指導を受けて鍛え始め、ジョギングも短い距離を楽しむようになった。
 今日も二十五度という夏日で、ジョギングをすると汗が浮き出てくる。ゆっくりと五キロのジョギングを終えてシャワーを浴びて、鏡に映る体を見ると五十一歳とはとても見えないほど張りがある。
 ふくよかな胸や弾力性のある太ももはまだ魅力を失っていない。ただ、ウエストと下腹に贅肉のかけらがつき始めている。オスはこの肉体を見ると、必ず奉仕するはずだ。そんな自信を少しは持っている。
 ふと、先日の香田の言葉が甦ってきた。外房に行こうと言っていた。外房は亡夫の実家があったところで、よく行ったものだ。こんな季節、海で過ごすのも悪くない。誘いにのるか乗らないかで、ずいぶん逡巡してきた。なぜなのかはよくわかっている。亡き夫に悪いと言う気持ちのためだった。ずいぶん古風なと思われるかもしれないが、浅見けいはそういう女だった。とは言うものの、体の片隅では、寂しさを癒すある種の温もりを求めているのも確かだった。



 香田はメールを送ろうか、どうしょうかと何度も考えていまだに決めかねている。浅見けいを誘ってから、もう一ヶ月近くも経つが、彼女からも何の音沙汰もない。男はある程度強引さがないと、女も応えないのではないかとも思う。それは若くて向こう見ずな年代ならば許されるのか。いや、そうではあるまい、情念というのは年齢に関係はない。
 返事がなければ、こちらから返事を求めればいい。メール・アドレスを教えてくれたのは、交信を否定しているものではない。

「浅見けい様
その後いかがお過ごしですか。よもや風邪などの病に侵されて、臥せるということはないでしょうね。先だってのお願い、いかでしょうか。ご返事をくれぐれもお願いいたします。
                              香田 順一」
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小説 人生の最終章(4)

2007-04-05 13:11:03 | 小説



 香田の帰宅の車の中は、彼女の残像で満たされ、特に病院の裏門で手を上げた挨拶が目に焼きついていて、いやでもにやりとさせられる。それに、彼女のコートの中の肢体を想像して、危うく追突しそうになって冷や汗をかいた。
 それから何度か顔を合わせているうちに、正午にあと十分ほどというとき、「お昼をご一緒しませんか?」と香田が誘ったのがそもそものきっかけだった。



 今日は四月の末なのに初夏の陽気になりそうだと、天気予報は伝えている。浅見けいは、大きく開口をとったリビングからテラスに出て、朝の新鮮な空気を吸い込み前方の海を眺めると、その色はあの寒い季節の鉛色から明るいブルーに変わったようだ。こういう海を眺めていると、元気だった頃の夫とよく海に行ったことを思い出す。
 ぼんやりと考えを巡らせていて、あの香田という人とこれ以上付き合ってもいいものか、心が揺れ動いている。夫に悪いという後ろめたさが、どうしても離れない。かといって浅見けいの男関係が、亡き夫一筋だったわけでもない。
 彼女ほどの美貌とプロポーションの持ち主であれば、幾多の男遍歴があってもおかしくない。ところが、傍(はた)が考えるほどでもなかった。
 結婚まで二人の男と付き合ったが、彼女の貞操観念が強く、男たちは苛立ちとともに去って行った。
 亡き夫を心から愛した彼女は、いま心の虚空がとてつもなく大きなものになっているのを感じていた。かといって、いまから再婚を考えるというのは、一考に値しない。なぜなら、五十一才と言う年齢のこともあるが、それにまつわる雑事、特に手持ちの資産の行方に気を使うのには耐えられない。
 そんな考えを振り払いながら、朝食のトーストとベーコンエッグ、コーヒーをテラスの小さなテーブルに運び椅子に座る。今日のような日、海を眺めながら一人で摂る食事には、慣れてきたとはいえ、寂寥感が忍び寄っていることも確かだった。 香田から、今日診察が終わったら、お昼を一緒にしようと誘われている。その席でどんな誘いをするのか判然としないが、誘いには乗らないと決めていた。

 診察を終えた二人は、駅近くの和食料理店に腰を落ち着けた。ランチセットを注文する。待つほどのこともなくランチセットが運ばれてきて、ゆっくりと食事を摂りながら、話題はあちこちと飛び跳ねて二人にまとわりついた。香田が唐突に
「ところで、インターネットはお使いですか?」と聞く。
「ええ、二年ほど前、息子がパソコンを買ってくれて、使い方も教えてくれました。それで列車や飛行機の時刻を調べたり、乗車券や搭乗券の購入をしたりして重宝していますわ」
「そうですね。調べ物に便利で私もよく使います。それにメールも便利ですね。ああ、そうそう、これが私のメール・アドレスです」と言って香田は名刺を差し出した。香田はパソコンで個人用名刺を作っていた。
 浅見けいの手が出てこないので、テーブルに置いた。彼女は、うつむき加減で考え込んでいるようだ。
「もう一枚いただけますか」香田は予期せぬ言葉に戸惑いながらも
「いいですよ。さあどうぞ」と言ってけいに手渡す。けいはその裏に自分のメール・アドレスを書いて「これが私のです」と言って香田に返した。
「じゃあ、これからは何か連絡したいときはメールにしましょう」と香田が付け加えた。
 けいは、メールのやり取りは一度もないだろうと考えていた。会話は途絶えて何か落ち着かない雰囲気になってきた。香田は誘いの言葉をどこで切り出すかタイミングを計っていたが、息苦しくなってくるようで、この一瞬を逃せば一生悔やむことになるのではという焦燥が拍車をかけた。グラスの水を一気に流し込み
「近いうちにご一緒していただけませんか? 外房の海を見るというのは――」
けいは困惑の表情を浮かべた。目をしばたたきながら
「主人を送ってからまだ時間が……。今すぐご返事と言われても……」
「いや、すぐと言うわけではないんです。ご一考いただければと思います」それからの時間は、ぎこちなさに包まれていた。
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小説 人生の最終章(3)

2007-04-02 12:55:38 | 小説



 浅見けいは、手袋をしていても身に凍(し)みる寒さに震えながら、マンションのドアを開けた。室内は外と比べると少しは暖かく感じるが、早速エアコンのスイッチを入れる。
 郵便の束をキッチンのテーブルに置いて、手袋を脱ぎコートを着たまま郵便物をあらためる。請求書やPRなどのいわゆるジャンク・メールがほとんどでゴミ箱に放り込む。その中に一通、市からの健康診断結果の通知があった。肺のレントゲン検査に影があるので医療機関で精密検査を受けるようにというものだった。以前、胃の再検査で胃カメラを呑んで異常がなかったこともあったので、うんざりした気分になった。
 寝室のクローゼットから伸縮性のあるぴったりとした黒のパンツにワイシャツのような襟の白のブラウスそれに濃い黄色のセーターを取り出して着替え、キッチンでお湯を沸かしながら、窓から東京湾を眺める。雪でも降りそうな天候のせいか海の色もどんよりと濁った鉛色で精彩がない。
 もともと海の近くで育ったせいか、海が見えないと落ち着かない気分になる。夫の実家も千葉の一宮で海が近く、二人して海が大好きだった。夫の転勤の多い仕事の関係で必ずしも海の近くに住めるとは限らなかった。
 夫は六十才の定年になると同時に脳卒中で他界した。ストレスの多い仕事のせいかもしれなかった。千葉市に七部屋の瀟洒な居宅を残してくれたが、一人息子の恭一は結婚して東京の月島のマンションに住んでいるので、一人住まいには広すぎるし何かと不用心に思われた。
 そこで居宅を処分して、海を眺めリゾート気分のマンションというキャッチ・フレーズに惹かれて、十階建ての最上階の3LDKを購入した。暖まってきた部屋から見る海は気分を滅入らせるが、春の晴れた日を想像すると自然に笑みがこぼれてくる。
 ふと、今日の病院での出来事を思い出し笑みがつながる。門を出るとき、彼に右手を上げての挨拶に、彼も軍隊式敬礼で答えてくれるという、まるで若者の仕草ではないか。いや、忘れていた軽妙な気分が湧き起こったのだった。
 年格好は、いくら若く見えるといっても六十代は確かなようだ。そんな年代なのに、年齢を感じさせないほど溌剌としている。それにキアヌ・リーヴスが老けるとこんな感じなのかと思わせるようなハンサムで、身長は一七○セインチぐらいか。ちょっと気になる人ではある。

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小説 人生の最終章(2)

2007-03-29 14:36:42 | 小説
 


 始まりは冬、その年の一番寒い日で、眼科の待合室だった。うつむき加減で読んでいた本の向こうに影がよぎった。その影は、斜め向かいの椅子に腰を下ろした。この病院の眼科待合室は、受付を挟んで左右に四人掛けの椅子が広がっている。壁に沿って長椅子が所々置いてあり、その一つに香田は座っていた。
 白い壁には絵もなくポスターもないただの平面が広がっているだけだった。彼女を見たのは、今日で二度目だ。二週間前に見かけて以来である。男物のような白のブラウスの襟を立て加減にして、黒のふんわりとした光沢のある布地と裾にグレーのレースを飾りつけたスカートを細身の体にまとい、黒のブーツで決めていた。
 歳は、五十になったかならないかというところ。少し長めの髪をゆるくカールさせ斜めに前髪を流し、知性と女らしさが卵形の顔によく似合っている。黒目の部分が多い瞳と薄めの唇へと流れる頬は気品に溢れている。もうこれは中年女性の色香というほかない。
 若い女性でも、これほど人の目を惹きつける人を見かけた記憶がないほどだ。彼女は単に美人というのでなく、内面からにじみ出る何かが魅力的にしているのだろう。それは、教養であり生い立ちであり人生経験やその人の考え方が、ほのかに立ち昇る爽やかな香りのように、周りの人たちを幸せな気分にさせている。それは良質の音楽や絵画、それに映画、小説に出会う喜びにも似ている。
 香田は本を読んでいる振りをしながら、上目使いで彼女を観察していた。すると不意にこちらを向くことがある。予期せぬ動きだからどぎまぎする。右隣に座っていた人が呼ばれて立ち上がって診察室に向かった。顔を上げると彼女と目が合った。考える暇もなく頬を緩めてうなずいていた。彼女も笑顔で応じてくれた。何かきっかけが出来たようで、安堵感が広がっていった。しかし、どう言葉をかけるのかと思うと早くも暗礁に乗り上げた気分になった。
 そんなことを気にかけても仕方がない、なるようにしかならない。本に目を落とす。しかし、心が乱されて集中できない。まるでニキビ面の若者にでもなった気分だ。考えてみると、こういう気持ちになったのは数十年無かったことだ。いったい俺はどうしたのだろう。
 「香田順一さん、二番からお入りください」と名前を呼ばれている。「ハイ」と返事をしても相手はスピーカーからの声で応答はない。二番のドアを開けて暗い診察室に入った。すぐに診察が始まるわけではない。一番から五番まで、カーテンで仕切られた個室があり、それぞれの担当医がそこで診察をしている。担当医からの呼び出しを待つ人が、明かりが乏しく暗い部屋に十人ほど腰を下ろしているのが見える。
「お変わりないですか?」「どうしました?」「しばらくこのまま様子を見ましょう」などという担当医の言葉が漏れてくる。患者は高齢者が圧倒的に多く、白内障や緑内障手術後の診察が多くを占めている。
 しばらくそんなやり取りを聞くともなく聞いていると名前を呼ばれた。担当医は若い女の先生で、いつもの儀式に取り掛かった。眼球の中を覗く機械にあごを乗せて、瞼を一杯に見開く。瞼をいっぱいに開いているつもりが歳のせいで十分ではないようだ。先生の手が伸びてきて、瞼を押し開けて機械のレンズを当てる。どうやら問題はなさそうだ。次が眼圧の測定。二種類の薬を目に落としレンズを覗き込む。左目十七、右目二十一。右目がいつも高い。手術をしたがなかなか正常範囲に収まらない。いつものように二ヶ月先の予約と同じ薬の処方で終わる。
お礼を言って辞去すべく引き戸のドアを開けかけたとき、なにやらドアが軽く感じられて引き開けると、彼女が入ろうとドアに手をかけていた。とっさに言葉にならずただ笑いながら「今からですか?」が精一杯だった。彼女は笑みを浮かべ軽く会釈して部屋に入った。
 会計で費用を支払い、病院の前にある薬局で目薬を受け取って駐車場に向かった。病院の建物はかなり古く白っぽいコンクリート造りで潤いのない建物だ。今日のように気温の低い日は特に。ここで大腸がんを内視鏡で摘出、緑内障の手術をしたことを思い出していた。
 駐車場にも何かもの足りなさがある。木々は大きく枝を伸ばしているが、その下はアスファルトで固めてある。目に映る風景に潤いがないのは、その辺が原因なのだろうかなどと思いつつ車の鍵のボタンを押した。ほとんど同時にうしろから声がした。
「病院は時間がかかりますね」振り返ると笑顔と白い息を伴って彼女が立っていた。吐く白い息が妙に色っぽい。今まで並んで立つ機会がなかったので気づかなかったが、香田の背丈より少し低い程度だった。彼女は百六十五センチほどだろう。道理ですらりとしていると思った。
「本当にそうですね。いつも午前中がつぶれますよ。まあ、一日つぶれたとしても、何の問題もないし。それに二ヶ月に一回ですから」あと何か付け加えたいと頭を回転させていると彼女が
「私は一週間毎なんですの」と言う。早く何か言わなくっちゃ、こんなチャンスは早々ないぞ!
「いずれ二週間毎から二ヶ月毎になって、病院に来なくていいようになりますよ。私なんか今度来るのは、四月ですから」
彼女は皮の手袋をした手でコートの襟をかき寄せた。かなり寒い。
「今日は本当に冷えますね。雪になるかも」と彼女は曇り空を見上げながら、独り言のように言った。寒さで赤く染まった頬を眺めながら、なんて美しい人だろうと魅入られていた。そして、この人に恋をするだろうと確信を抱いていた。
その彼女は、顔を香田に向けもせず唐突に
「それじゃ、また」と言ってモノレール駅のほうへ歩みだした。
「ええ、お大事に!」と香田は、彼女の背中に言葉をかけてしばらく見送っていた。
やがて彼女は裏門に着き、振り返り右手を上げてサヨナラの挨拶を送ってきた。なんと若々しく親しげな、それでいて好ましい振る舞いだろう。香田もとっさに軍隊式敬礼で応えた。
香田は軍隊の経験はないが、太平洋戦争中の中学生の軍事教練で教えられた。間もなく彼女は建物の影に消えた。寒風が追い討ちをかけた。香田の口元に自然に笑みがこぼれ出る。今冬一番といわれる寒さなのにあまり感じない。アドレナリンが放出される興奮状態なのだろう。身も心も若者に返ったようだ。車に乗り込みキーを捻ると、この寒さにめげず元気よく息を吹き返した。病院の門から出てデッキのスイッチを押すと、ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影」の穏やかな曲が流れてきて、それはまさに香田の気分にぴったりだった。
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