昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

<木炭バス>・長兄の想いでから

2005-12-17 18:40:33 | じゃこしか爺さんの想い出話
 
 先日の道新の朝刊に「釧路の80年を再現」と云う大見出しの記事があり、良く見ると丸井今井釧路店で「懐かし展」が開催されていることを知った。
 その記事の中にあった、「木炭バス」の文字に、遥か70年前にもなる樺太時代の少年の日を思い出していた。

 当時樺太にも交通手段として鉄道が在りましたが、それも東海岸が主で、国境近くの軍関係の施設が集まる町まで伸びていた。しかし、その鉄道は私の住んでいた西海岸にも一応敷かれていたものの、南部の途中で途切れたままでした。 
 だからそれより以北での移動は、乗り合いバスを利用するより他は無かった訳です。ところが、戦前にはそのバスの台数やまた燃料なども潤沢でしたが、末期の頃になると衣食住などに関わる物品はもとより、機械動力の燃料なども全て軍関係が優先され、民間用は極端に減らされて仕舞った。
 やがて街の中からは普通の乗り合いバスの姿が見られなくなり、何時の間にかバスの後部に、木炭罐を取り付けた、いわゆる木炭バスと呼ばれた、奇妙なバスが見掛けられるようになったのでした。
 
 それは確か昭和十八年の秋口の頃であった。長兄の出征が翌年の二月と決まり、その報告かたがた六里(24キロ)ほど離れた伯母の家に、泊り掛けで出掛けた時の帰りの日ことです。
 その時伯母への処への往き帰りに乗ったのが、その木炭バスで、それが初めてのことだった。伯母の家での土産物を両手に提げて乗り込んだバスは、途中の拠点都市で点検整備を終えて順調に走り続け、やがて私たちの炭鉱町に通ずる国道の峠の少し手前まで来た時でした。それまで順調だと思っていたのが、突然おかしな音を立てた途端にエンジン音が止まり、そのままバスは動かなくなって仕舞ったのです。
 運転手は何度か始動を試みたのですが、肝心のエンジンは空回りするだけで動く気配は一向にありません。
 次第に焦って来た彼は、前のエンジン室に頭から身体を入れたり、或いは後部の木炭罐によじ登ったりして、再始動を試み続けましたが、依然として動かず、今度は空回りの音さえもなくなって仕舞ったので。なおも懸命に立ち回る運転手の顔は、気の毒にも汗と油に汚れて真っ黒でした。
 乗客たちは始めこそ黙って座っていたのですが、次第にしびれを切らし始め、やがてあからさまに文句を云う者が出て来て、それに続くように一人増え二人増えてゆく内に、その中には不安感からか凄い剣幕で食って掛かる者まで出て来る始末で、車内には更に険悪な空気が強く漂い始めた時です。私の隣に座ってただ黙って事の成り行きを見守っていた長兄が、突然立ち上がって運転手に近付き、暫らくして話し合った末に、先ほどの運転手同様にエンジン室を覗き込んで、運転手のもとに戻って何かを伝え、今度は運転手を席に座らせ、再度エンジン室に身体を入れて何か操作をしてから、手を上げて合図を送り、運転手がそれと同時にスイッチを入れると、それまでうんともすんとも音を立てなかったエンジンが、大きな音と共に回転をし始めたのです。
 二人の動作のタイミングが余程良かったのでしょう。後は全く順調でした。一斉に拍手が湧きあがり、長兄への賞賛の言葉が寄せられ、長兄ばかりか私さえもすっかりいい気分になっていました。
 後で知ったのですが、長兄が卒業後就職した先は炭砿の用度課で、その見習い期間中にトラックの助手をしていたことがあったそうです。その時に厳しく教え込まれた整備技術が、思わぬところで役立った訳です。そのように自動車に詳しい長兄は、何故か運転免許証は生涯持ちませんでした。その訳は長兄の場合、特に「赤・青」の区別が付かない「色弱症」色盲だったとのことでした。
 その長兄は約20年前に、還暦を目前にして心臓発作で他界しました。