昭和ひとケタ樺太生まれ

70代の「じゃこしか(麝香鹿)爺さん」が日々の雑感や思い出話をマイペースで綴ります。

使っても使っても

2005-12-03 16:02:29 | 日々の雑記
 「使っても使っても」などと云うと、有り余るほどの財産をまるで「湯水の如く」濫費と思わられがちですが、私の場合は決してそんな大それたものでなくて、現役引退後の身体のあちこちに、ガタの来たした一老人が、日頃から持て余している時間のことなのです。

 振り返ってみれば、幾ら在ってもまだ足りなくて、まさに寝る間を惜しんでの毎日を送っていた現役時代の時間は、惜しみに惜しんで如何に遣り繰りしたところで、時間が足りず、その日の仕事を翌日に繰り越していた。
 言うなれば「時は金なりで」、その時点での稼働時間は、まさに金で一時間幾らの対価であった。しかし稼働時間が給料に換算されようと、毎日繰り返される日常の業務だけでも、定時ギリギリのところへ、何の前触れも無く飛び込んでくる予定外の業務までを、その日の内にこなすのは至難の業であり、まさに地獄の苦しみであった。
 今にして思えば、良くぞ遣り遂げたものぞ・・・と、自分ながらの満足感に浸る懐かしさと、もうコリゴリだとの感慨で一杯である。

 そんな感慨とは別に、現在は如何であろうか。現役を引退したら、あれをしようとか、これにも挑戦してみようとかの、希望は人並みに抱いていたのだったが、思わぬ体調の変わりように戸惑うばかりで、以前予定していた事は何一つとして叶わず、それらは今後永久に手に届かぬ夢物語になって仕舞った。

 現在私の日常の持ち時間は、大まかに云って朝八時の起床から就寝の零時までで16時間になる。この内三度の食事時間は2時間、ウォーキングに2時間、昼寝に1時間、パソコン2時間(ドクターストップ・連続でこれが限度)、テレビ読書雑用で2時間、これらを合わせて9時間、残りの時間は7時間である。
 
 さてこの残り時間が問題であって、この時間こそが私に与えられた、使い放題叉は湯水の如くに使って良い、云はば身に過ぎるほどの贅沢ものなのである。
 しかし良く考えてみると、この時間は無意識にまた、無為にただぼうっと過ごしている時間であるが、とかく日頃から時間不足で悩んでいる人たちから見れば、贅沢三昧湯水の如く時間を濫費している、ある種の果報者に見えるだろうと、独り悦に入っているこの頃です。・・・とは云って見たものの、良く考えると何の事は無く、恒産なども無く高が年金暮らしの老人の痩せ我慢で、それも「まだらボケ」の一つの現象に過ぎないのである。