あるブロガー仲間の方が、「石狩挽歌」について触れていたので、それに触発される形で、急にこの曲のことが「気になって」、色々と調べてみたくなりました
(^.^)
元々、この曲が発売された当時も、リアルタイムで聴いていて、「印象的な歌」だと思っていました。
その後、この歌を作詞した「なかにし礼」氏は、小説家としても活躍されたので、数々の作品の中から、「兄弟」という自伝的小説を読んで、なるほど、なかにし氏の生い立ちの中に、この曲の中の「風景」が鮮明に残っているらしい…ことがわかりました。
なかにし氏は、元々「満州」で生まれ育ち、裕福な環境で過ごしていたらしいです。でも、やがて父親は兵隊に取られ、ソ連軍が参戦してきて、危なくなったので、家族は、引き上げて、どうにか日本に辿り着き、親戚のあった「小樽」に、しばらく住んでいたそうです。
そこで、歳の離れた「お兄さん」が、ニシン漁にも関わり、色々あったそうで、当時まだ小学生くらいだった「なかにし氏」の記憶に、その頃の風景が残っていたようですね。
先日、「徹子の部屋」に、この曲を歌った「北原ミレイ」さんが出ていて、この曲に関するエピソードを、色々語っていました。
まだ、未完成だった頃の、この曲を聞いた時は、「こんな歌を、私が歌うの?」と、疑問に思ったそうですが、やがて、編曲が終わり、イントロを聞いた瞬間に「鳥肌」が立ち、「カッコイイ! ぜひ歌いたい!」と思ったそうです。(^.^)
その後、レコーディングとか、完成してから、「現地の風景を見た方がいいだろう」と、小樽方面へ連れて行ってくれたそうです。そこで、歌詞に出てくる場所の景色を見て、更に、印象を強くした…とのことでした。
「曲を歌う前から、連れてきてくれたらいいのに!」とも思ったそうですが。(๑˃̵ᴗ˂̵)
♪ 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ )の ヤン衆が騒ぐ ♪
小樽付近は、とにかく「ニシン漁」が盛んだったそうで、江戸時代末期頃〜昭和初期の頃まで、かなり賑わったそうです。(^^)
網元のお宅は、裕福で「ニシン御殿」が建つほどで、ニシン漁が盛んとなる「春先」の頃には、他所の地区から「出稼ぎ」の漁師たちが集まり、その人たちのことを「ヤン衆」と呼んだそうです。
そして、彼らの着ていた「作業着」のようなモノが「筒袖(つっぽ)」だそうです。
♪ 雪に埋もれた 番屋の隅で わたしゃ夜通し 飯を炊く ♪
「番屋」とは、その「ヤン衆」たちが寝泊まりする建物のことで、そこには「賄いの女性」が雇われたりしていたそうです。(^-^) なので、この曲の主人公は、この仕事をしていた女性…ということでしょうか。
小樽辺りの「番屋」は、網元のお宅の敷地内に建てられた「離れ」みたいなケースが主流だったそうですが、前述のブロガー仲間「sono さん」の解説によると、茨城県内の日立辺りの漁港にも、「番屋」は存在していたそうです。しかも、あの大震災が起こる前(約10年前)辺りまで、実際に使われていたそうなので、驚きです。(・・;)
(日立市内の漁港にある「番屋」だそうです。(^^) この写真は、ブロガー仲間のsono さんが撮影されたモノです。)
♪ あれからニシンは どこへいったやら 敗れた網は 問刺し網か 今は浜辺で オンボロロ オンボロボロロ ♪
その盛んだったニシン漁も、「乱獲」のせいか? 「気候」や「潮の流れ」のせいか? ある時から、パッタリと取れなくなったそうで…。
♪ 沖を通るは 笠戸丸 わたしゃ涙で ニシン曇りの 空を見る ♪
ここに出てくる「笠戸丸」とは、「船」のことですが、いやはや、この船は、まあ「色々あった」船で、ある意味「歴史的な存在」なのですネ。(°_°)
ザッと調べただけでも、1900年にイギリスで作られ、その後ロシアに売られ、やがて日本の所有となり、ブラジル移民などの輸送にも使われ、その後「イワシ漁の船」となり、最終的には、終戦の年「1945年8月9日」に、参戦したロシアの爆撃によって撃沈したそうです。(*´-`)
この船は、「日本海」を通っていた時期もあったそうで、その頃の光景を、歌詞に込めているんでしょうね。
興味のある方は、書籍も多数出ているようなので、ぜひ調べてみてください。(^-^)v
「ニシン曇り」とは、春先に小樽付近で続く「曇りがちな天気」のことだそうで、そういう時に、ニシンの群れが現れることが多かったので、そう呼ばれていたそうです。
♪ 燃えろかがり火 朝里の浜に 海は銀色 ニシンの色よ ソーラン節に頬染めながら わたしゃ大漁の網を曳く ♪
「朝里の浜」は、具体的な地名。「海は銀色 ニシンの色」とは、春先にニシンの群れがやってきた時に見られる「群来(くき)」という現象のことだそうです。(^^)
この事については、長くなりそうなので、次の記事で触れたいと思います。
ここで「ソーラン節」が出てくるのは、そもそも「ソーラン節」は、ニシン漁が盛んだった頃に、辛い力仕事しながら歌った「労働歌」から生まれた歌らしいです。
♪ あれからニシンは どこへ行ったやら
オタモイ岬のニシン御殿も 今はじゃ寂れて オンボロロ オンボロボロロ ♪
「オタモイ岬」の「オタモイ」とは、アイヌ語で「砂浜のある入江」のことだそうで、昔は、そこの断崖の上に「ニシン御殿」が建っていたそうです。
(この写真と記事は、北海道在住の「はる」さんのブログより、引用させていただきました。)
♪ 変わらぬものは 古代文字 わたしゃ涙で 娘盛りの 夢を見る ♪
ここで出てくる「古代文字」とは、明治の初め頃、小樽市内の洞窟で発見された「壁画」というか「文字」らしきモノのことだそうです。
この曲には、「さりげなく?」北海道小樽市付近の「名物」や「地名」が多数登場してるので、ある意味の「ご当地ソング」と言えるのかもしれませんネ。^_−☆
この曲について、調べているうちに、「ニシン漁のその後」についてや、かつては茨城県内の「涸沼」でも、一時期「ニシンが取れた」との話を聞いたので、その話は次回に書きたいと思います。(^_^*)