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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

1947クリスマス B町子供会

2024年12月25日 12時03分25秒 | 水戸今と昔
1947クリスマス B町子供会



本日(12月25日)はクリスマス。
イエス・キリストの降誕を記念する祭で、主には第二次大戦終了(1945年)後に祝われるようになった。
日本においては宗教的行事よりも「歳末・クリスマスセール」などケーキやチキンを食べプレゼントを交換する商業的な意味合いが強い。
映画や音楽の世界も便乗して盛り上がるようにはなったが、神道や仏教の影響が濃い日本においては祝い事の意味合いは薄い。

この写真は1947年(昭和22年)12月に撮影された「水戸市備前町北区子供会」の記念写真で、77年前のことだ。
終戦から2年足らずで異国の風習が町中で行われるようになった。
子供から大人まで、焼け残ったか或いは再建された個人のお宅に60人位が集まっている。


私は2列目の中央辺りに顔を覗かせている。
満6歳で少学1年生、同じ年頃の友人で現在も住んでいるのは他に2人だけとなり、ほぼ後期高齢者で小学生を含めた子供はいない。


第30回「水戸でコーヒーを楽しむ会」 2024年9月29日(日)@水戸市民会館3階大会議室

2024年09月30日 21時39分56秒 | 音楽
第30回「水戸でコーヒーを楽しむ会」
2024年9月29日(日)@水戸市民会館3階大会議室





茨城大学名誉教授・高妻孝光さんの「健康・美容の秘訣はコーヒーにあり」との講演はコーヒーのアンチエイジング効果が優れていることを科学的に証明された。
日本コーヒー文化学会副会長の鈴木誉志男サザコーヒー会長は水戸黄門(徳川光圀)も明の儒学者・朱舜水を通し、珈琲を飲んだに違いないと推測し、イエメンのモカをメインにブレンドして「黄門浪漫珈琲」として発売に至った経過を面白く話された。



同じコーヒーを自由に何杯でも飲めるサーバーを設置し350人の参加者は何杯も試飲を繰り返し味わった。



講演の終了後は水戸出身の尺八奏者・小林鈴勘さんによるジャズの演奏。



水戸葵社中による「黄門さまご一行」5名が入場・退場に花を添え、会場内を一巡し挨拶するなどで座は大いに盛り上がった。

「黄門浪漫珈琲」の豆150グラムのパックが、参加者全員にお土産と配られた。
皆様のご感想いかがだったでしょう?

Cazuko Art3つの展覧会@水戸市民会館2F展示室 9月28日(土)~10月2日(水) 10:00-19:00

2024年09月29日 08時41分29秒 | 音楽
Cazuko Art3つの展覧会@水戸市民会館2F展示室
9月28日(土)~10月2日(水) 10:00-19:00





国際的に活躍するひたちなか市在住の人形彫刻家・戸田和子さんと仲間たちの展覧会「Cazuko Art 3つの展覧会」が9月28日から10月2日まで、水戸市泉町の市民会館2階展示室で開催されている。
立体造形やレリーフなど約120点が展示された(入場無料)







40年に渡り人形彫刻に取り組まれている戸田和子さんは国際的にも活躍されています。
全仕事ともいる作品群と仲間達並びにお弟子さんたちの作品には圧倒されました。

プラトーサトミの風力発電風車 @常陸太田市里川町

2024年09月26日 22時27分36秒 | 音楽
プラトーサトミの風力発電風車 @常陸太田市里川町

茨城県と福島県の県境に位置する旧里見村は町村合併で常陸太田市の一部となった。里川に沿って平坦な土地もあるが、多くは里山が占めている。
特に、福島県に連なる最北部は標高780メートルの高原で、那須連峰や秋から春にかけては富士山を望むことが出来るらしいが、訪ねた日は小雨交じりの曇り空、ガスが掛かって雄大な景色は望めなかった。





東日本大震災の前は丘の斜面での放牧場や「プラトーさとみ」という宿泊観光施設が在り、キャビン、BBQハウス、20センチメートルの屈折望遠鏡を備えた天文台などを併設されていたという。
福島の原発事故の際は汚染された気流が流れ込む被害を受けたようだが、コロナ以降は全て閉鎖されたらしい。







それに代わり、何時から始まったかは分からないが高さ100m位の風力発電の風車が7基稼働している。


常陸山、生誕150周年祝うシンポジウム @水戸市立城東小学校

2024年09月26日 12時58分47秒 | 音楽
常陸山、生誕150周年祝うシンポジウム @水戸市立城東小学校





明治から大正期に活躍し「角聖」とたたえられる茨城県水戸市出身の第19代横綱・常陸山(本名市毛谷)の生誕150周年記念シンポジウムが出生地に近い水戸市立城東小学校で9月25日(水)午後1時から開かれた。

城東小学の児童によるダンスや「城東の史跡」「相撲」『常陸山』についての発表がなされたのちにトークセッションが開催された。
市歴史文化財課の関口慶久さんが司会を務め、その他のゲストとして県近現代史研究会の市村眞一名誉会長、同小の酒葉誠教諭、市立博物館の藤井達也学芸員が招かれた。



茨城県出身で4人目の横綱となった元・稀勢の里の二所ノ関親方は、大の里の大関昇進伝達式後に駆け付け「常陸山の生涯成績が150勝15敗22分け」と紹介されると「ちょっと考えにくいくらい強いですね。今は年間90日。当時は一番一番の重みが違うし、すごいこと。大関が6割7分、10勝5敗くらいで昇進しているので勝利9割はさらに上の上をいっている」と先輩横綱の驚異的な強さに感心しきりだった。

常陸山の得意技「泉川」(相手のかいなを両手ではさみ極める技)の披露。
小学校の先生を相手に壇上で詳しく解説し「きめてから相手の顔を見る。それがセオリー。今は照ノ富士が得意としています手を振りながら」と説明した。

講演後は観客の間を手を振り挨拶しながら、退場するなど明るく親しみやすい人柄がにじみ出ていた。
将来の相撲協会理事長を嘱望される親方が茨城出身で阿見町に部屋を構えるのは嬉しいことだ。



10月19日~11月24日まで水戸市立博物館で『常陸山谷衛門-角聖の生きた時代』展が開催される。

滝川渓谷で蕎麦を食べる@福島県矢祭町

2024年09月24日 08時10分58秒 | 音楽
滝川渓谷で蕎麦を食べる@福島県矢祭町





佐藤洋照さんとの常陸太田里見地区の旅で、念願であった「阿寺・持方」を訪ねることが出来た。木村謙二のお墓を探しに行き、あわや里山で遭難か、と思えるロスタイムもあり、予想以上の時間が経ちそろそろ昼「食事はどうしましょう?県境に滝川渓谷というところに蕎麦屋が在りますが、そこ如何でしょう」とのこと。
特別な蕎麦喰いではないが、新たな蕎麦屋は、ぜひ試したい。
国道349号「棚倉街道」は福島に向かって集落沿いの狭隘部を走る県境ルート。
チョット走れば福島県だ。
滝川渓谷の登り坂を1時間ほどハイキングして到達し、味わうのが常道らしい。
我々は車だから、あっという間に山頂のお休みどころ迄。



前日の雨、この日もパラついたりしていたので、水は濁っていたが渓流の幅は狭い。蕎麦に遊歩道が整備されている。
遊歩道を歩いても渓流を歩いても良いらしい。
勿論、渓流歩きはそれなりの装備が必要となる。
両岸にはモミジが植えられているから新緑や紅葉の時期は最高だろう。



十割蕎麦の店
通常なら並んで待つようらしいが、この日は天候が優れなかったので、待たずに入店できた。近所のおばさんたちが共同で運営しているらしい。
山登り・沢登の後に、ここでの食事が最高らしい。



心太と味噌おでんと野菜の天婦羅蕎麦を注文。
久しぶりのトコロテンは美味しかった。
味噌おでんは大きく、味もしっかり、食べ応え充分だった。
久しぶりの味噌おでんと特に茄子の天婦羅が美味しかった挽ぐるみ十割蕎麦。
天婦羅も蕎麦も美味しかったが、食べるのに気合が入って写真を撮り忘れ。
大きな味噌おでんの写真だけ。

秋の紅葉の頃は渓谷沿いのモミジが素晴らしく、観光客がたくさん来るようだ。
その時期に再訪したい。

安寺・持方(あでら・もちかた)@常陸太田市

2024年09月22日 17時33分18秒 | 
安寺・持方(あでら・もちかた)@常陸太田市



「にほんの里100選」に選ばれて建てられた持方集落の記念碑。

県北の男体山や武生山などの山々に囲まれた人里離れた山奥の村(旧安寺村・旧持方村)は現在・常陸太田市となり道路が整備され、容易に訪れることが出来るようになったが、茨城県で最後に電気が引かれた地域といわれるほどだ。
平家の落人伝説や藩主が巡視に来られた際にできたと思われる民話なども伝わる秘境の地だといえる。
民俗学者の柳田国男も取材に訪れた。

道路が整備されたとは言え、片側1車線で崖をぎりぎりに通る山道は容易ではない。この地に対して土地勘がある佐藤さんの運転だから、なんとかたどり着いたが、カーナビ・携帯なども圏外の恐れがありそうな山間の里である。

安寺・持方と並べて言うが、多少は離れており、安寺の集落は脇を通過しただけで持方の集落だけを訪ねた。



碑の反対側に、特産のコンニャクの畑があった。
コンニャク(蒟蒻)はサトイモ科の植物、あるいはその球茎から製造される食品。



腰掛石
水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が藩内巡視の折に腰を掛けて休まれた石。
神社などにある、さざれ石(小さな石が固まった石)なので運び込んだと思われる。



おそれ多くも腰かけてみた。

北方探検家・木村謙次の墓所@常陸太田市天下野

2024年09月20日 23時08分21秒 | 
北方探検家・木村謙次の墓所@常陸太田市天下野



北方探検家で儒学や医術を学び農政にも通じていた木村謙次(1752~1811)は常陸国久慈郡天下野村(現・常陸太田市天下野)で農家の4男として生まれた。

水戸在住の美術家・佐藤洋照さんは常陸太田市徳田(旧里美村)にアトリエを借りて、常陸太田と水戸を行き来している。
アトリエを訪問し作品を拝見したいと思っていたところ、9月19日に行きますが、ご一緒しませんか?行きたい所があればリストを挙げて下さい、とのこと。
幕末の水戸藩の北方探検家・木村謙二の出身地が近いので訪ねたいと伝えたら「生家はないが墓所は在るようです」とのことだ。



天下野(けがの)という集落を訪れ、住民の方に木村謙二の生家はと問えば係累は居ないが、墓地は在るとの答えだ。
「木村謙二の墓所200m➡」という案内板を見つけ辿ってみることに。
同じ案内板に何度も会うが、一向にそれらしいところはない。



村はずれの道辺に彼岸花も咲いていた。
暑い夏だったが、彼岸近くになれば季節の花が確かに咲くのは自然の理だ。



直ぐ近くと思っていたら、次は山道となり上り下りを繰り返してもそれらしきところが見当たらないので、だんだん不安になった。



かなり歩いてからやっとのことで墓地を探し出すことが出来た。
農村の墓地と言えども、これほど山の中というのは珍しい。



脇に案内板が建っていたが、旧水府村時代の物で文字もかすれて読めない。
歴史的にも重要な人物であり功績を伝える意味でも、常陸太田市は新しいものに作り変え、道案内板なども分かりやすい場所に増設すべきと思った。
集落への道路工事が進行中だったが、暫くかかりそう。
完成に時を同じくして道順や説明版の新設を願いたい。



墓地には歴代の墓碑銘があったが、謙二の係累の方は集落にお住まいではない。とのことだった。

*木村謙次は1752年(宝暦2年)に久慈郡天下野村(現在の常陸太田市)に生まれた。幼いころから読書に励み、16歳のときには水戸の学者立原翆軒について学問を学び、谷田部東壑について医術を修めた。その後、京都や水戸藩の名医について修業を積み、多くの学者と交友を重ねているうちに政治や社会の動きにも関心を持つようになった。
34歳のときに松島・仙台を旅したのち、奥羽地方や蝦夷地を何度も調査した。
1793年(寛政5年)、水戸藩の密命を受けて松前を調査し、報告書『北行日録』を仕上げた。これは、当時の奥羽や蝦夷地の状況を知る好史料となっている。
択捉島タンネモイに建てられた木標「大日本恵登呂府」の文字は木村が書いた。
しかし、北方4島のロシアからの返還はなされないまま。
現在の日ロ関係を考えてみてもこの問題の解決は望めそうにないのは残念だ。
農政問題の改革を論じた書物も出版し、水府村一帯の特産である「しみこん」や「和紙」製造の方法を教えるなど数多くの功績も残している。
1811年(文化8年)に没した。

江戸では大黒屋光太夫(1751~1828)がロシア情報を収集して『江戸日記』を執筆し『北槎聞略』としてまとめられた時と同じ頃だ。
木村謙二の再評価が望まれる。


シーボルト記念館(長崎紀行・其の6)

2024年05月31日 12時40分51秒 | 
シーボルト記念館(長崎紀行・其の6)





フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(ドイツ語: Philipp Franz Balthasar von Siebold、1796年 - 1866年)は、ドイツの医師・博物学者。
江戸時代の日本に西洋医学や博物学を伝え、科学的な総合調査にもとづきヨーロッパに日本を広く紹介した。
本館は、日本の近代化に貢献したシーボルトを顕彰するために国指定史跡シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)の隣接地に長崎市が設置したもので、平成元年(1989)10月1日に開館した。
建物の外観はオランダ・ライデン市のシーボルト旧宅を、玄関はシーボルトの祖父カール・カスパル宅をイメージした。





国指定史跡シーボルト宅跡(鳴滝塾跡)。



アジサイは、世界で広く親しまれている日本産の落葉低木。
シーボルトは数ある植物の中でもアジサイを愛したようで、彼の著書『日本植物誌(フローラ・ヤポニカ)』には、彼が日本で知り合った「オタキさん」という女性の名前からつけられたといわれる「Hydrangea otaksa(ハイドランジア オタクサ)」という学名でアジサイが紹介されている。そのような縁で長崎市の花は「アジサイ」が選定されている。
今回の旅、市内のあちこちでアジサイを見ることが出来た。



シーボルトは江戸時代に長崎・出島のオランダ商館の医師として日本へやって来た。
日本人医師の育成をする傍ら、日本の風物や植物などを世界に広く紹介したことが知られている。シーボルトは医師でありながら、自然科学などの分野にも非常に高い関心があり、様々な功績を残している。
*シーボルトはオランダ人と思い込んでいたが、サザコーヒーの鈴木誉志男さんから「ドイツ人ですよ。当時の航海では多くの人命が失われ人手不足、ドイツ人も雇用されたのです」と御教授頂いた。





1階ホール・ロビーの大きな壁面に「狩野春湖」の「出島図」(水府明徳会・彰考館蔵)
掛け軸の原画を拡大してタイル絵として復元したらしい。
長崎まで来て、水戸に出会えたのは嬉しかった。











2階の
常設展示室では、シーボルトの生涯と功績を6つのコーナーに分けて展示されてある。



シーボルトが使用したと伝えられる「コーヒーカップと皿」
多分「伊万里焼」だろうと、鈴木誉志男さんからのアドバイス。
大量の伊万里焼がヨーロッパに輸出された。

建設中の「長崎スタジアムシティ」を外から眺める。

2024年05月30日 21時33分37秒 | 水戸ホーリーホック

建設中の「長崎スタジアムシティ」を外から眺める。







今回の長崎行きの大きな目的は、ジャパネットホールディングスが長崎市で開発を手掛ける複合施設「長崎スタジアムシティ」が2024年10月14日に開業するので事前にどのようなものかを見てみたいとの思いがあった。

水戸ホーリーホックを応援することのきっかけは「街起こし」として「ホーム&アウェイ」(双方向で町を訪ねる)であること。

勝敗はともかく、応援という名目で見知らぬ街を訪ねることが出来る。

が、旅好きに私に向いている。と感じたから。

水戸でも独自のスタジアム計画が有るようだし、行けば何かしら得るところがあるかも。

と、出かけたのだ。






完成予想図


長崎スタジアムシティは三菱重工業の長崎造船所幸町工場跡地の再開発で、敷地面積は約7万5000平米。収容人数約2万席のV・ファーレン長崎のサッカースタジアムを中心に、同約6000席の長崎ヴェルカのアリーナ、地上7階建て約90店舗の商業棟、同14階建て243室のホテル、同12階建てのオフィス棟で構成する。

延べ床面積は約19万4000平米。

数字を並べてもピンとは来ないが、近づいてみると巨大な複合施設だ。

ニッポンハムファイターズの「エスコンフィールドが話題を呼んでいるが、それ以上の内容に感じられる。

連絡道路も整備中だが、道路の間際までビルが建っていて、市街とスタジアムが共存している。






長崎駅から市電で2つ目の「宝町駅」が最寄駅で、長崎駅から徒歩でも15分位で歩けそうな距離だ。

*EYストラテジー・アンド・コンサルティングが算出によれば「長崎スタジアムシティ」の経済効果は、建設時が約1,436億円、開業後は13,000人の雇用により、963億円と推計している。

また、スタジアムシティの年間利用者数は850万人(目標)を想定している。


国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎紀行・其の4)

2024年05月30日 17時32分10秒 | 音楽
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館(長崎紀行・其の4)

1945年(昭和20年)8月9日の長崎市に投下された原子爆弾により死亡した人々や、その後に亡くなった被爆者を追悼し、世界平和を願う施設で2003年(平成15年)7月開館した。長崎市における国の追悼施設は同館が初めてで、長崎平和推進協会が運営・管理を行っている。(入館は無料。)









地下2階建でスロープ状の坂を下るようにして時代が逆戻りして展示空間に達する。
追悼施設としての静寂な空間を保ち、爆心地周辺の景観を建築物で遮蔽しないようになっている。



長崎型原爆・ファットマンの模型。
今ならこの位の性能でどのくらいの大きさなのか?









40年前頃に長崎を訪れ「長崎市立長崎原爆資料館」を見学した。
展示物が語りかける迫力に圧倒された思い出があった。
今回、爆心地公園からエレベーターに乗って着いた入り口が当然のこととして「長崎市立長崎原爆資料館」と思い込み入館した。
明るい展示空間は工夫が凝らされているが、映画のセットの様な空虚な感じがした。
要は施設を錯誤して観てきたことを水戸に戻ってから分かった、という無様な結果。
長崎滞在中に気が付けば再訪の時間は十分にあったのに残念だ。



原爆落下中心地碑(長崎紀行・其の3)

2024年05月29日 19時57分56秒 | 
原爆落下中心地碑(長崎紀行・其の3)



1945年8月9日11時02分。
アメリカのB29爆撃機から投下された原子爆弾は松山町171番地の上空約500mで炸裂し、一瞬のうちに多くの尊い人命を奪った。
原爆落下中心地標柱として(推定に基づく「爆心地」)に黒御影石の碑。
碑の高さ約6.5メートル(1956・昭和31)年設置。
訪問する修学旅行の生徒たち。



爆心地に掲示されてある1945年10月 林重男氏撮影パノラマ。
当時「音が無くなった世界」「色が無くなった世界」「人影が消えた街」と表現されていた灰色のがれきの街が延々と広がっている。







浦上天主堂遺壁
大正3年(1914年)に天主堂、大正14年(1925年)にその双塔を完成させ、東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂は、原爆によりわずかな堂壁を残し崩れ落ちた。
この遺壁は、聖堂の南側の一部を爆心地に移築した。



浦上天主堂遺壁(爆心地から北東約500m)の写真が掲示されてある。



千羽鶴が掲揚されてある。
平和を願い、訪れる方々が持参するのだろう。



被爆当時の地層。
原爆落下中心地のこの辺りは川が流れ、川沿いに住宅が建っていた。
埋め立てられて緑地公園としたので、被爆当時の地層は現在地より5m位下となる。
破壊された家の瓦やレンガ、焼けた土や溶けたガラスなどが大量に埋没しており、被爆当時の悲惨な実相を示す資料として保存され、観ることが出来る。

園内には被爆当時の地層も残されており、約3000度の熱で壊された家の瓦やレンガのほか、焼け溶けたガラスなどが今も大量に埋没しているのを見ることが出来る。
記憶は遠ざかってしまっても、これを目の当たりにすれば原爆の悲惨さを思い起こす。

爆心地周辺のほとんどの樹木は倒れ焼き尽くされ70年は草木も生えないだろうと言われたが、1ヶ月後には植物が次第に芽吹き始めたという。
爆心地も今はすっかり緑に囲まれ、かつての惨状は想像もつかない。
しかし、ウクライナ・パレスチナで核は隣り合わせ。
いつ何時、不測の事態が発生する可能性があるのを肝に命すべし、と改めて思う。


平和公園と平和祈念像(長崎紀行・其の2)

2024年05月27日 19時53分20秒 | 
平和公園と平和祈念像(長崎紀行・其の2)





長崎を訪れる人が必ず訪れる平和公園と平和祈念像。
原爆落下中心地公園北側の小高い丘にある。
悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界恒久平和への願いを込めてつくられた。

平和への願いを象徴する平和祈念像。
高さ:9.7m 重さ:30t 材質:青銅 北村西望作。
像の高く掲げた手は原爆の脅威を、水平に伸ばした手は平和を象徴、閉じた目は戦没者の冥福を祈っている。
毎年8月9日の原爆の日を「ながさき平和の日」と定め、この像の前で平和祈念式典がとり行なわれ、全世界に向けた平和宣言がなされる。



「平和祈念像」に向かう道の両側には多くのモニュメントが建立されて在る。
園内は修学旅行の学生が多い。県内はもとより全国から来ているようだ。
赤いベストを被ったボランテアガイドが各々のグループに説明している。
中学時代にこの地を見聞するのは、とても良いことだと思う。



『長崎の鐘』に因む鐘のモニュメント。
長崎医科大学(現長崎大学医学部)助教授だった永井隆が原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を記録した随筆集。
「戦争を防ぎ、原子力を平和的に利用して頂きたい一念から」と執筆したが出版のめどが立たず、1949年に『長崎の鐘』として出版された。
同書をモチーフとした歌謡曲が同年7月にサトウハチロー作詞・古関裕而作曲で発売されて大ヒットし、翌1950年(昭和25年)には松竹により映画化された。
1こよなく晴れた青空を 悲しと思う切なさよ
うねりの波の人の世に はかなく生きる野の花よ
  ■なぐさめはげまし 長崎の
  ■ああ 長崎の鐘が鳴る
2召されて妻は天国へ 別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの 鎖に白き わが涙
*1番から4番まであるが、2番までを記載。 
私の小学校時代に大流行したので、1番とリフレインの部分は覚えている。
*「長崎の鐘」とは原子爆弾の投下により吹き飛ばされてしまったカトリック浦上教会(旧浦上天主堂)の「アンジェラスの鐘」のこと。





平和公園の敷地は「長崎刑務所浦上刑務支所跡(被爆遺構)」で塀や土台などが残されている。収監者の中には、朝鮮半島等で抗日運動を行い、治安維持法に違反したとして逮捕された活動家も存在した。 また、九州管内の死刑囚は全て当所に集められ、執行を待っていたとされる。


水戸の自宅から長崎駅まで、6時間半の時代となった(長崎紀行・其の1)

2024年05月27日 04時49分16秒 | 
水戸の自宅から長崎駅まで、6時間半の時代となった(長崎紀行・其の1)

2024年5月20日(月)
水戸駅まで自転車で、と思っていたが小雨がぱらついていたので徒歩で水戸駅南口に向かう。水戸駅行きのバスの始発は7時台で、6時は運行していない。
約2キロの距離なので、自宅を05:30に発ち~水戸駅南口に06:00には到着。
茨城空港までのシャトルバス(料金¥1100)の乗客は5人足らずだった。この程度しか乗らないのでは、運航のバス会社は採算に合わないだろう。
(旅行中のバス・飛行機など、ほぼ定刻だったのでその予定時間を記す)



水戸駅06:15発~ 茨城空港 06:55着(東関東高速使用で約32㌔)





茨城(07:35)~神戸(08:50) 





神戸(09:25)~長崎(10:40)



神戸~長崎の空路図。(上りと下りは別ルートなのは考えてみれば当然か)
瀬戸内海に沿って、山陽道の上を飛行している。
晴れならば見える地上の風景、曇り空で鮮明ではないが見飽きることなく眺めていた。(その様な乗客は珍しいだろう)



四国の上空?山地が連なり平野は少ない。
関東平野の風景が当たり前に思っていたが、日本では稀な地形と再認識した。



諫早湾の干拓の潮受け堤防。



長崎空港着。



長崎県営・空港発長崎駅行きリムジンバス(¥1200)。
乗客が多いから、次々と発車する。(駅までの距離は約40㌔)



12:00に長崎駅到着。
我が家を出発して6時間30分だった。
スマホのタイムラインによる計測では1148㌔m。
茨城空港発でなければ、新幹線利用や羽田からの飛行機を利用するにしても8~9時間以上は掛かるだろう。まさに「茨城空港万歳!」と叫びたくなる。
コロナの前は、韓国2泊3日の旅に行ったこともある。
コロナの蔓延が始まり「中国・西安」の旅を申し込みながら、中止になってしまった。
これから多くの海外便が復活し、或いは新規に乗り入れられることを期待する。







長崎駅の「長崎総合観光案内所」で市内地図を頂き、市電1日乗車券(¥1200)を購入。
この乗車券を長崎滞在中の4日間、毎日購入し利用した。
長崎の市電はかなりのエリアをカバーするから誠に便利だ。



2022年9月23日に長崎と佐賀の武雄温泉との間を結ぶ、西九州新幹線が開業した。
部分開業で完全に繋がってはいないので、乗客はすくないらしい。
長崎駅前広場などは整備中で暫く時間がかかりそうに思えた。

「水戸駅南口さくら東公園」のバラが咲き揃っていた。

2024年05月20日 04時37分15秒 | 公園
「水戸駅南口さくら東公園」のバラが咲き揃っていた。

友人が水戸駅南から桜川を散策して「水戸駅南口さくら東公園」という素敵な公園がある。
と教えてくれた。
水戸駅の南口はペデストリアンデッキが出来て以来、水戸駅の表玄関として北口をしのぐようになった。
賑わっているのは改札口からデッキの広場だけで、デッキを降りればバスやタクシー乗り場が広がるが、人通りは少なくなる。
いくらかの飲食街があるが、駅に近い利便性でマンションが続々と建設されている。
オフィスビルや複合ビルだ。











桜川を渡る手前に「水戸駅南口さくら東公園」が在った。
中央に桜の大木が立っている。
公園名の由来の桜だろうが今は葉桜だ。
サツキの植え込みが周囲を巡り、赤い花を咲かせている。











幾つかのベンチが配されているが、その後ろは崖だ。
崖の斜面にバラの植え込みがあり今を盛りと咲いていた。
バラ以外の時期も季節の花が咲くことだろう。
水戸は「公園都市」を標榜するが、このような街の一角の公園があるのは嬉しい。