奈良県内における富士講および浅間講を調査している。
これまで奈良市柳生町・柳生下町および奈良市都祁上深川に水行、或いは水垢離と呼ぶ作法を拝見してきた。
つい最近は、奈良市阪原の富士講の作法を調査してきたばかりだ。
柳生は富士講と呼ばずに、あくまで十二人衆が行う土用垢離と呼んでいるが、上深川は富士講が行う富士垢離である。
かつては奈良市都祁小倉町にも富士垢離があったようだと聞くが、いつのころか講は廃れて、八柱神社の石段の下に浅間さんの石碑が残っているだけになった。
富士講或いは浅間講の石碑は山添村広瀬・吉田・勝原や天理市長柄など県内各地にその存在を現認してきた。
この年の7月8日に取材した古市町の仙軒講も講のひとつとしてあげられるが、水行は行われていない。富士講碑でなく、浅間神社を奉る地域もある。
末社に浅間神社がある在所は奈良市鹿野園町・八阪神社、三郷町薬隆寺・八幡神社などが知られる。
ひとつ気になっていた地域がある。曽爾村の小長尾である。
平成21年11月に天神社で行われた例祭収穫祭を取材したときである。
小長尾では毎月の25日に月参り御膳を供えられる。
弥勒さん、山の神、辻の神さん、せんげんさんに秋葉さんなど10カ所に月当番組が供えるのだ。
その一つであるセンゲンサンこと浅間神社は青連寺川を渡った対岸の山の頂上に鎮座すると氏子長老のYさんが話していた。
小長尾にはかつて浅間講があった。
40年も前のことだ。
土用の一週間、長蓮寺に籠もっておしょうじ(精進)会式をしていた。
魚や肉は一切口にしない精進である。
曽爾川とも呼ぶ青連寺川に行って水垢離の行をしていた。
現在は日を決めて村役員が向かいの山に登って般若心経を唱えている。
せんげんさんは大日如来を祀るから心経を唱えるのだというYさんは、先代の親父さんから神主役を引き継いで20年間勤める村神主。当時は84歳だった。
今でも元気に山へ登ってセンゲンサンをされているのかどうか気になりだした。
そう思って、4年ぶりに訪れた小長尾である。
この日は土用入り後の丑の日。
鰻喰いたしの買い物客で鮮魚売り場はごった返す。
もしかとすればこの日であろうと思って出かけたのである。
Yさんの家を探してみるが久しぶりの小長尾は思い出せない。
寛文四年(1664)に勧請した棟札が残される天神社すら場所が判らなくなっていた。
坂道を降りたり上ったり彷徨う道すがら人影が目に入ったので訪ねてみたⅠ家にセンゲンサンの件でやってきたことを伝えた。
それなら数日前の24日に行ったと云う。
夕方近い時間帯に宮さん関係者が参ったそうで、Ⅰさんも宮総代の一人だった。
センゲンサンに参った地はここより丁度南側にある山の頂上。
曽爾トンネルが貫通している山の頂だ。
手前にある山で三角のようになっている山だと云う。
ここら辺りの標高は460m。
奈良盆地平坦の気温は32.6度にも達していたが、小長尾は涼しい風が通り抜ける。
汗もかかない小長尾でも数日前は暑かったと云う。
その日は25、26日。
平坦での気温は37度近くにもなっていた。
センゲンサンに参った日は24日。
平坦では34度だった。
Ⅰさんは腰痛だったが、汗をかきながら登ったと云う。
センゲンサンの正式名称は浅間講。
かつては長蓮寺で籠りをしていた。
白装束に着替えて青連寺川(小長尾では曽爾川)で水垢離をしていたそうだ。
それから浅間神社を目指して山を登る。
時間にしてみればおよそ15分だが、急坂道。腰痛の身では堪えたと云う。
浅間神社には桜の木があるそうだ。
大日如来も祀る山の頂き。
そこで般若心経を唱えていたと云う。
今年も4年前に話してくださったYさんが登ったと云う。
90歳になったYさんはいたって元気でほいほいと登ったらしい。
住まいはと聞けば長蓮寺下の家だと云う。
訪ねた家にYさんがおられた。
4年前に拝見したときと同じの黒光りのお顔。
元気な姿をみせてくれる。
今年はネンギョ(年行)と呼ばれる年番さんとともに出かけた。
宮さん関係者の10人が登る一時間前に到着して神社周りを清掃していたそうだ。
ヤカタがある石碑にお神酒や御膳を供えて祭典をしていた。
般若心経は七巻。
いつもYさんが導師となって唱える。
Yさんも話したかつてのセンゲンサン。
長蓮寺に籠って「行」をしていた。
昼ごろになれば白い着物に着替えて川に向かって歩いた。
川に浸かって般若心経を唱えていた。
今では無住寺となった長蓮寺は江戸時代後期の創建で融通念仏宗派。
Yさんの時代だったそうだ。
小長尾には氏神さんを祀る天神社がある。
今年は造営の年になる。
本殿は大工棟梁の作業場に移して宮造りをしているそうだ。
造営には槌打ちの儀式がある。
槌を打つのは法被姿の村の子供たち。
Yさんの孫たちも儀式に出仕され槌を打つという。
9人も孫が参加するというから外孫も入っているのだろう。
槌打ちは男の子だけでなく女の子も参加する。
0歳児は親が抱っこして参加する。
上は15歳までと決まっている子供が槌を打つ造営はこれまで取材した地域には見られない様相である。
スケジュールオンしたのは云うまでもない。
ここら辺りの景観はとても美しい。
ここでも咲いていた黄色い花のルドベキア。
今年は行き先々で拝見する。
向こう側に見えるのが長蓮寺だ。
シカ除けのネットを張っている稲田。
稲穂が膨れるにはもう少しの期間が要るであろう。
手前に咲いていた紫の花。
細い葉だけに軸一本で立っているように見える花の名は知らない。
ノコンギク、いや違う。
カノコソウに似ているが葉付きがまったく違う・・・ヒヨドリソウ・・・それも違う。
背丈からマツムシソウと思ったか花付きが違う。
花図鑑を坊主めくりしても見つからない夏の花。
田んぼ傍にあったので園芸種なのか。
後日に判ったヤナギハナガサ。
盆の時期によく見かける花である。
四角い茎はザラザラ、細葉はギザギザの対性で判るそうだ。
辺りを見渡せばヤマユリが盛んに花を広げていた。
自然に生えていると思われるヤマユリは、大神宮の石塔場にも咲いていた。
「手入れはしてないのに勝手に広がっているんや」と云うヤマユリは花の大きさが日本最大級。
ササユリには見られない点々とした赤い斑点が特徴。
カサブランカは1970年代に日本原産のヤマユリ・カノコユリ・ササユリを原種にオランダで交配・作出されたそうだ。
そこへ軽トラでやってきた住民は83歳のⅠさん。
先祖さんは漢方医で、村の役員を勤めたこともある。
ご主人は乗ってきた軽トラを走らせて南紀まで出かけることもあると云う。
乗り慣れている軽トラであれば腰に負担もかけないと云って、つい先日も遠出をしたそうだ。
Ⅰさんの話によれば8月半ばは長蓮寺で施餓鬼が行われると云う。
同村の塩井の住職が法要されると云う。
長蓮寺は融通念仏宗派。
かつては11月ころに大阪平野大念仏が来村される大和ご回在があった。
今ではそういう行事もなくなったが、弾けるザクロの実が懐かしいと話していた。
長話に盛りあがる小長尾。
訪ねる家は元区長家のOさん。ぐるりと廻って家に辿りついた。
やっとのこさ思い出したのである。
訪ねてみれば作業場で奥さん、息子さんとともに野菜の袋詰めをされていた。
今年の11月23日は20年に一度の造営事業を行う。
この年はネンギョ(年行)にあたる同家。
前日の22日は朝から集落下の作業場でゴクツキをする。
ゴクツキと云っても器械で搗く。
半々の分量にしたコメコにモチコでゴクを搗く。
それをネコモチのような棒モチにこねて伸ばす。
少し堅くなったところでモチを輪切りにする。
モチと云ってもコメコ、モチコであるから、いわゆるダンゴである。
ちなみに隣村の長野はダンゴでなく、カサモチや十円玉を入れたモチを撒くそうだ。
(H26. 7.29 EOS40D撮影)
(H26. 7.29 SB932SH撮影)
これまで奈良市柳生町・柳生下町および奈良市都祁上深川に水行、或いは水垢離と呼ぶ作法を拝見してきた。
つい最近は、奈良市阪原の富士講の作法を調査してきたばかりだ。
柳生は富士講と呼ばずに、あくまで十二人衆が行う土用垢離と呼んでいるが、上深川は富士講が行う富士垢離である。
かつては奈良市都祁小倉町にも富士垢離があったようだと聞くが、いつのころか講は廃れて、八柱神社の石段の下に浅間さんの石碑が残っているだけになった。
富士講或いは浅間講の石碑は山添村広瀬・吉田・勝原や天理市長柄など県内各地にその存在を現認してきた。
この年の7月8日に取材した古市町の仙軒講も講のひとつとしてあげられるが、水行は行われていない。富士講碑でなく、浅間神社を奉る地域もある。
末社に浅間神社がある在所は奈良市鹿野園町・八阪神社、三郷町薬隆寺・八幡神社などが知られる。
ひとつ気になっていた地域がある。曽爾村の小長尾である。
平成21年11月に天神社で行われた例祭収穫祭を取材したときである。
小長尾では毎月の25日に月参り御膳を供えられる。
弥勒さん、山の神、辻の神さん、せんげんさんに秋葉さんなど10カ所に月当番組が供えるのだ。
その一つであるセンゲンサンこと浅間神社は青連寺川を渡った対岸の山の頂上に鎮座すると氏子長老のYさんが話していた。
小長尾にはかつて浅間講があった。
40年も前のことだ。
土用の一週間、長蓮寺に籠もっておしょうじ(精進)会式をしていた。
魚や肉は一切口にしない精進である。
曽爾川とも呼ぶ青連寺川に行って水垢離の行をしていた。
現在は日を決めて村役員が向かいの山に登って般若心経を唱えている。
せんげんさんは大日如来を祀るから心経を唱えるのだというYさんは、先代の親父さんから神主役を引き継いで20年間勤める村神主。当時は84歳だった。
今でも元気に山へ登ってセンゲンサンをされているのかどうか気になりだした。
そう思って、4年ぶりに訪れた小長尾である。
この日は土用入り後の丑の日。
鰻喰いたしの買い物客で鮮魚売り場はごった返す。
もしかとすればこの日であろうと思って出かけたのである。
Yさんの家を探してみるが久しぶりの小長尾は思い出せない。
寛文四年(1664)に勧請した棟札が残される天神社すら場所が判らなくなっていた。
坂道を降りたり上ったり彷徨う道すがら人影が目に入ったので訪ねてみたⅠ家にセンゲンサンの件でやってきたことを伝えた。
それなら数日前の24日に行ったと云う。
夕方近い時間帯に宮さん関係者が参ったそうで、Ⅰさんも宮総代の一人だった。
センゲンサンに参った地はここより丁度南側にある山の頂上。
曽爾トンネルが貫通している山の頂だ。
手前にある山で三角のようになっている山だと云う。
ここら辺りの標高は460m。
奈良盆地平坦の気温は32.6度にも達していたが、小長尾は涼しい風が通り抜ける。
汗もかかない小長尾でも数日前は暑かったと云う。
その日は25、26日。
平坦での気温は37度近くにもなっていた。
センゲンサンに参った日は24日。
平坦では34度だった。
Ⅰさんは腰痛だったが、汗をかきながら登ったと云う。
センゲンサンの正式名称は浅間講。
かつては長蓮寺で籠りをしていた。
白装束に着替えて青連寺川(小長尾では曽爾川)で水垢離をしていたそうだ。
それから浅間神社を目指して山を登る。
時間にしてみればおよそ15分だが、急坂道。腰痛の身では堪えたと云う。
浅間神社には桜の木があるそうだ。
大日如来も祀る山の頂き。
そこで般若心経を唱えていたと云う。
今年も4年前に話してくださったYさんが登ったと云う。
90歳になったYさんはいたって元気でほいほいと登ったらしい。
住まいはと聞けば長蓮寺下の家だと云う。
訪ねた家にYさんがおられた。
4年前に拝見したときと同じの黒光りのお顔。
元気な姿をみせてくれる。
今年はネンギョ(年行)と呼ばれる年番さんとともに出かけた。
宮さん関係者の10人が登る一時間前に到着して神社周りを清掃していたそうだ。
ヤカタがある石碑にお神酒や御膳を供えて祭典をしていた。
般若心経は七巻。
いつもYさんが導師となって唱える。
Yさんも話したかつてのセンゲンサン。
長蓮寺に籠って「行」をしていた。
昼ごろになれば白い着物に着替えて川に向かって歩いた。
川に浸かって般若心経を唱えていた。
今では無住寺となった長蓮寺は江戸時代後期の創建で融通念仏宗派。
Yさんの時代だったそうだ。
小長尾には氏神さんを祀る天神社がある。
今年は造営の年になる。
本殿は大工棟梁の作業場に移して宮造りをしているそうだ。
造営には槌打ちの儀式がある。
槌を打つのは法被姿の村の子供たち。
Yさんの孫たちも儀式に出仕され槌を打つという。
9人も孫が参加するというから外孫も入っているのだろう。
槌打ちは男の子だけでなく女の子も参加する。
0歳児は親が抱っこして参加する。
上は15歳までと決まっている子供が槌を打つ造営はこれまで取材した地域には見られない様相である。
スケジュールオンしたのは云うまでもない。
ここら辺りの景観はとても美しい。
ここでも咲いていた黄色い花のルドベキア。
今年は行き先々で拝見する。
向こう側に見えるのが長蓮寺だ。
シカ除けのネットを張っている稲田。
稲穂が膨れるにはもう少しの期間が要るであろう。
手前に咲いていた紫の花。
細い葉だけに軸一本で立っているように見える花の名は知らない。
ノコンギク、いや違う。
カノコソウに似ているが葉付きがまったく違う・・・ヒヨドリソウ・・・それも違う。
背丈からマツムシソウと思ったか花付きが違う。
花図鑑を坊主めくりしても見つからない夏の花。
田んぼ傍にあったので園芸種なのか。
後日に判ったヤナギハナガサ。
盆の時期によく見かける花である。
四角い茎はザラザラ、細葉はギザギザの対性で判るそうだ。
辺りを見渡せばヤマユリが盛んに花を広げていた。
自然に生えていると思われるヤマユリは、大神宮の石塔場にも咲いていた。
「手入れはしてないのに勝手に広がっているんや」と云うヤマユリは花の大きさが日本最大級。
ササユリには見られない点々とした赤い斑点が特徴。
カサブランカは1970年代に日本原産のヤマユリ・カノコユリ・ササユリを原種にオランダで交配・作出されたそうだ。
そこへ軽トラでやってきた住民は83歳のⅠさん。
先祖さんは漢方医で、村の役員を勤めたこともある。
ご主人は乗ってきた軽トラを走らせて南紀まで出かけることもあると云う。
乗り慣れている軽トラであれば腰に負担もかけないと云って、つい先日も遠出をしたそうだ。
Ⅰさんの話によれば8月半ばは長蓮寺で施餓鬼が行われると云う。
同村の塩井の住職が法要されると云う。
長蓮寺は融通念仏宗派。
かつては11月ころに大阪平野大念仏が来村される大和ご回在があった。
今ではそういう行事もなくなったが、弾けるザクロの実が懐かしいと話していた。
長話に盛りあがる小長尾。
訪ねる家は元区長家のOさん。ぐるりと廻って家に辿りついた。
やっとのこさ思い出したのである。
訪ねてみれば作業場で奥さん、息子さんとともに野菜の袋詰めをされていた。
今年の11月23日は20年に一度の造営事業を行う。
この年はネンギョ(年行)にあたる同家。
前日の22日は朝から集落下の作業場でゴクツキをする。
ゴクツキと云っても器械で搗く。
半々の分量にしたコメコにモチコでゴクを搗く。
それをネコモチのような棒モチにこねて伸ばす。
少し堅くなったところでモチを輪切りにする。
モチと云ってもコメコ、モチコであるから、いわゆるダンゴである。
ちなみに隣村の長野はダンゴでなく、カサモチや十円玉を入れたモチを撒くそうだ。
(H26. 7.29 EOS40D撮影)
(H26. 7.29 SB932SH撮影)