マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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古市のセンゲンサン

2015年01月19日 07時19分09秒 | 奈良市へ
知恵の神さん・ひきつけの神さんと崇敬されている仙軒大菩薩を祀るお堂がある奈良市古市町。

八島町~高畑町を通る山麓線の古市信号すぐに奈良交通バスの古市バス停留所がある処よりすぐ近く。

国道沿いに建っているお堂の普段は扉が閉まっている。

格子窓から覗くとお厨子が拝見できる。

お堂に掲げられた扁額に「知恵の神・ひきつけの神 仙軒大菩薩」と書かれてあった。

「娘が婚入りした奈良市古市の東市小学校前のバス停付近にセンゲンサンがあって、そこでマツリをしているようだ」と話す送迎患者のY婦人。

どのような形態で行事が行われているのだろうか。

それを知りたくて訪れた古市の仙軒大菩薩堂。

下見に訪れたのは平成24年7月22日だった。

お堂の扉が閉まっていた。

どなたが管理されているのか、山麓線付近には建ち並ぶ民家もなく途方に暮れた。

もしかとすればお堂下にある民家ではないだろうかと思って坂道を下った。

ある民家を尋ねたところ、数軒の人たちが7月8日に集まっていると云う。

で、あるが、お堂には電気が通っていないことから、7月8日には尋ねた家から電源を供給していると話すのだ。

7月8日に行われていることを知った「センゲンサン」は地蔵盆でもなく、仙軒大菩薩の営みであったのだ。

昨今の行事は固定日でなく集まりやすい休日に行われる場合が増えている。

もしかとすれば、日曜日に移っていることも考えられる。

そう思って6日に訪れたお堂は周囲の草を奇麗に刈り取っていた。

あらためて拝見するお堂の内部。

格子窓から覗けばお厨子が拝見できる。

左に五三桐の御紋、右は16枚の菊の御紋であった。

こうした下見を経て8日の朝10時ころに訪れた仙軒大菩薩堂には数名の人たちが集まって、お供えをされていた。

「大和郡山市の額田部から嫁入りされた方は・・」と伝えれば、「私です」と答える婦人。

聞き間違いではなかったのだ。



お堂を守っているのは仙軒講と呼ぶ6軒の講中であった。

ほとんどが北垣内の住民のようである。

お堂は昭和47年7月に建てなおしたそうで、講中の他、古市の人たちの名を記した寄付者の名が書かれてあった。

講中の名である。

板書には「浅間堂 浅間講」と書いてあった。

仙軒大菩薩堂は「浅間堂」と呼んでいたようだ。

「浅間」と書いて「センゲン」と呼ぶのであるが、本来は「仙軒」の漢字を充てていると長老は話す。

事例数はごく僅かであるが、奈良県内においても富士山を信仰される富士講がある。

これまで取材した富士講行事に奈良市柳生町柳生下町の土用垢離がある。

富士講ではなく、宮座衆によって水行作法をされる。

旧都祁村の奈良市上深川でも柳生町と同じように水行作法をされる富士講の富士垢離がある。

古市の浅間講は富士山信仰する富士講でもあるのだが、水行の作法は行われない。

「浅間堂」は東向きに建てられている。

おそらく、富士山がある方角に向けて建てられたと思うのである。



浅間堂は一年に一度、お厨子の扉を開けてご本尊を開帳される。

黒ずんだお厨子を開ければ、真新しい桐製の箱があった。

箱には古い巻きものを納めているそうだ。

それは広げられないほどに傷んでいると話す長老は続けて云った。

実はご本尊の仙軒大菩薩は安置していないと云うのだ。

仙軒大菩薩もまた傷んでいて講中の家で保管していると話す。

大菩薩の姿を拝見することは不可であるが、長老が云うには「鎌倉時代の建立で修善した痕があるので国宝にはならんかった」である。

仙軒大菩薩を祀るお堂は「カッパの神さん」とも呼ばれていたそうだ。



奉納された扁額を掲げていたが、落ちそうな状況になったことから下に降ろしたと話す。

拝見した「カッパ」はどう見ても天狗さんの面である。



もしかとすれば、浅間講(富士講)につきものの修験のカラス天狗では、と思ったのである。

お厨子の右横には木造の立像仏があった。



弘法大師でもなく、菩薩さんでない。

調べてみれば木造立像は理源大師であった。

いつの時代に誰がどのような経緯で安置されたのか伝わっていない。

さまざまなことを話してくれた長老は、予めお札を版木で刷っていたと云う。

お札は上に富士山を描き、「仙軒大菩薩」の文字に朱色のスタンプで宝印を押していた。

参られる人に一枚ずつ授与すると云うお札。

キーキーと泣く赤ちゃんの額にお札を当てればピタリと泣きやむというありがたいお札だと話す。

そういうわけで「ひきつけの神さん」とも呼ばれているのだ。



古市仙軒講のお供えはナスビ・キュウリ・トマトでいずれも八つと決まっている。

講中が家で作ったダンゴも供える。



このダンゴは「センゲンダンゴ」と呼んでおり、個数も同じく八つにすると云う。

八数の値数になにが所縁なのか判っていない。

古市の集落のほとんどの家が屋号をもっていると云う。

ウシヤ・ウスヤ(石臼目立て)・トウシヤ(トーシ作り)・カミヤ(鼻紙屋)・カミスキヤ(ちり紙)・ワタヤ・ゲタヤ・カジヤ(農具・八寸釘)・カシヤ(菓子屋)があったと云い、今でもその呼称で云うことがあるそうだ。

古市はかつて古市城を中心とする城下町だ。

古市城は浅間堂より国道向こうの高台に二ノ丸屋敷、南の東市小学校が本丸だったと云う。

国道ができるまでは細い里道だった。

竹藪のススンボで遊んでいたと講中は話す。

さらに南に下った高台は字高山(高山城跡)・字城山(藤原城跡)もあると云う。

浅間堂下は勘定場、その向こうは奉行屋敷にカネグラと呼んでいる米蔵があり、南に街道を下れば手代、宮本家の大庄屋があると云う。

2月11日にオンダ祭が行われる御前原石立命神社がある。

かつて祭祀を勤めていたのは宮座の頭であった、現在は氏子の村行事となっている様相は平成17年2月11日に取材させていただいた。



午後ともなれば「センゲンダンゴ」を供える長老。

それ以前にもどなたかの講中が供えた「センゲンダンゴ」がある。

石臼がなくなった現代では米屋さんでウルチ米を挽いてもらうと話していた。

それから数時間後の夕方ともなれば知恵が授かりますようにと願う子供たちが参られる。

長老が仙軒大菩薩云々と唱えて幣を頭に翳す。

「神主役を勤めますんや」と云うのだ。

この時間帯までに何人かの人たちが参られたようだ。

願主のお名前を書かれた「祈祷 無病息災 学業成就 願主」と書いたお札が置いてあった。



ぞろぞろとやってくる親子連れ。

小さな子供さんは浴衣姿で、赤ちゃんはベビーカーに乗っていた。

お堂に上がった親子連れ。

参拝者は一挙に来られたので待ち行列になった。

上がった講中に名を聞いて願主名を書く長老。

子供と親の連名だ。



「あんた、名前何やったっけ」と云う婦人。

「おばあちゃんが孫の名前を忘れたらあかんがな」って母親が伝える。

多くの子どもたちは講中の孫さんだったのだ。

一組ずつお堂にあがって無病息災を祈願する。

取り出した幣を持つ長老。



「南無仙軒大菩薩」を三唱する。

「願くは願主の 無病息災 学業成就のご加護を垂れ賜わりますよう願い上げ奉る 南無仙軒大菩薩」も三唱する。

唱えたあとは幣を頭に翳して学業成就。



菩薩さんから知恵を授かるということだ。

赤ちゃんを抱いてお参りする母親に連れられてあがった幼児は「わぁーん」と何故か泣きだした。

「昨年は泣かんかったのに・・・」ということは、一年経って知恵がついた証拠ではないだろうか。

さらに成長した女児は笑顔で受けていた。



これだけの子どもたちが一斉に揃うことはこの日の「センゲンサン」しかないと云って記念撮影が始まった。

参拝者のすべてが祈祷をしてもらって一段落した。

長老が差し出したホラ貝を手にした子供たち。



「吹いてみるか」と云われて挑戦する子供はいとも簡単に吹いた。

ホラ貝は山上さん(講)の先達が吹いていたもの。

「吹けたら健康になるんやで」と教えていた。

安置していた理源大師木造立像は山上講が寄進したものであったのだ。

「センゲンサン」は仙軒講の行事であるが、村人も参拝ができると云う。

一組の親子連れがその後になって参拝され祈祷を受けていた。

前日の7日は村の行事弁天さんのマツリ。

主催は水利組合で、宮座の当屋が御供をすると云っていた弁天社は平尾池の傍にあるそうだ。

(H26. 7. 6 EOS40D撮影)
(H26. 7. 8 EOS40D撮影)


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
実に貴重なご報告です。 (大谷正幸)
2015-01-20 21:19:26
大谷正幸です。

非常に貴重なご報告をありがとうございました。今まで、奈良県下の富士信仰の実態はほとんど知られておらず、行事の記録も奈良県立民俗博物館の「上深川の富士垢離」(ビデオ)しか知られていませんでした。これほどまでに文章で詳しく述べられ、そして現代にも行われているという例を、私は見たことがありません。

水垢離をしない、「仙軒大菩薩」と転訛している、「本尊」が存在する、などなど、非常に興味深い、衝撃的なお話が多く盛り込まれています。

理源大師聖宝の像を祀る例も初めて見ましたが、奈良県下地域、というより中部・近畿地方の富士信仰は、多く聖護院配下の本山派修験によって行われていました。富士修験も聖護院の配下です。よって、山上講と兼ねられている場合も多く、大峰と富士を交互に行く講もあったと言います。なので、聖宝は醍醐寺の当山派の祖ですが、富士信仰の文脈で祀られていても不思議はないと思います。

「本尊」または開けられなかったという巻物にも興味がわきますが、また続報などありましたら是非ともまた読ませていただければ幸いです。
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興味深い内容でした (田中眞人)
2015-01-22 18:39:58
大谷正幸さま
古市の在り方は実に興味深い内容でした。
講中に文書などがあればもっと深いものが見えてくるのですが、本尊の調査も含めてお許しがでればと思っています。
2週間後ぐらいには阪原の富士講を公開する予定です。
何度かに分けて執筆しますのでよろしくお願いします。
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