マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

久御山町佐古内屋敷・若宮八幡宮のお千度千燈明の宵宮放生祭

2018年12月02日 07時08分25秒 | もっと遠くへ(京都編)
久御山(くみやま)町は京都府久世郡の久御山町。

旧村を囲むように新町が膨れ上がった。

団地もある佐ここら辺りの神社は2社。

1社は佐山双栗に鎮座する雙栗(さぐり)神社。

1月15日に行われる御神差とも呼ばれる粥占神事や8月31日の八朔祭りをしているようだ。

もう1社は佐古内屋敷に鎮座する若宮八幡宮がある。

この年の6月4日に拝見した御供作り。

野神に供えられる御供調製の一部始終を拝見させていただいた。

その際に宮総代のYさんが話してくれた若宮八幡宮の年中行事である。

その一つであるお千度の名もある千燈明を灯す行事に興味をもった。

行事の正式名称は放生祭である。

宵宮とは本祭の両日に行われる。

都合、14日の宵宮に訪れた若宮八幡宮である。

放生祭の主役は子どもたち。

この日の宵宮は宮総代らに親子連れでやってきた60人もの参詣者で境内の千燈明が美しく光り輝いていた。

子どもたちは30人。

とても賑やかな放生祭になったことを先に触れておく。

本社殿、拝殿、境内など、それぞれに燭台を据えていた。

鳥居を潜った境内が数多い。



1脚の燭台に灯す蝋燭台の数は38もある。

長めの燭台の数は68もある。

やや短い燭台でも28。

境内だけでも134。

鳥居の前にもある燭台も数えてみれば124本立てと16本立て。

合計すれば274本にもなる。

それぞれが長さを測って作った手作りの木製燭台。

予め挿してあった蝋燭の数に圧倒されるが、燭台はまだある。

境内の燭台は高さを子どもに合わせた下段も入れた2段型。

それに対して拝殿の両脇の棚に据えた燭台は上下に3段。

一段が14灯だから42灯。

二つ合わせて84灯。

これらすべて合計しても蝋燭は358灯。

千燈明の呼び名もある蝋燭灯しの放生祭は半分も満たない。

実は、千燈明の呼び名もあるが、千の数の蝋燭を灯すわけではない。

それほど多いということである。

ちなみに数が少ない百灯明の名がある行事もあるが、これもまた百灯に満たない。

千よりは少ないが、まま多く灯す在り方である。

また、百より、千より多い万灯籠もある。

これもまた「万」の数ほどに多いという意をもつ燈籠の火灯しである。



本社殿の燭台の蝋燭に火を灯したら子どもたちの出番である。

社殿階段下に置いた箱がある。

その箱には長年使われてきた竹串がある。



色褪せた竹の色。

風合いから一挙に作られたものではないような気がする。

かなりの年数を経ている風合い。

子どもたちが握った汗が染みているのかもしれないその竹に墨書。

判読できないくらいに色褪せ。

寄進者の名前が書かれてあったのだろう。

数はどれくらいであろうか。



相当な数だと思ったその竹串を手にした子供は駆けていった。

本社殿の周りを反時計廻りに走っていった子どもは一周して社殿前に戻ってきた。

それで終わりかと思えば、そうではない。

そのまま駆け抜けていくわけでもなく、一本の竹を箱に戻したのだ。

そうして再び走り出した子ども。

本社殿を反時計廻りにまた戻ってきた。

一体、何周するのだろうか。

宮総代らの話しによれば、走る子どもの年齢に1歳プラスした数を周回するということだった。

そういうわけで1歳児であれば2周。

3歳児なら4周である。



年齢プラス1周した子どもは本社殿に向かって手を合わせて拝礼。

当たり年の数だけ周回するこの行為がお千度参りであろう。

お千度といっても千回も周回するわけではない。

お百度参りなら百往復する願掛け行為であるが、お千度は、それほど数多く参るということである。

ただ、子どもの年齢で数多くといってもそれほどでもないが、宮総代がいうには本来は百回廻りだったという。

つまりはお百度参りであるが、いつしか年齢の数になったようだ。

男の子が駆けぬけたお千度参り。

次に走り出した女の子も早い。



やがて小さな子どもたちも兄ちゃん、姉ちゃんを見習って駆けていくだろう。

「お千度」の響きでいつも思い出すのが、おばあさんが孫を叱る台詞だ。

小さいころ、よく言われたのが、「まこと、せんどいうてもわからんのか・・・」って。

“せんどいうても・・”というのは、、なんぼいうても(※たくさんの意)聞きよらん、というようなことだ。

つまり“せんど”とは“千度”。

多いということだ。“なんぼ、いわなあかんのや・・”と云われて叱られたことが、私の記憶の片隅に残っている。

それにしても暗がりに駆け抜ける子どもの姿はとらえ難い。

あまりにも早すぎる走り。

ピンはブレブレである。



適正に設定したとしても、駆け抜ける子どもの早さに暗がりが、シャッタースピードと同期してくれようもない。

十数人ぐらい駆けていたので、ままチャンスはあったが、思うような映像が出現してくれない所有カメラの限界。

なにが限界といえばISOである。

所持するカメラはEOS40D。

ISO1600以上の設定はない。

せめてISO6400程度は欲しいものだが・・。

お千度に駆け回る子どももおれば、設えた千燈明に火点けをする子どももいる。

場所が離れているから両方とも一枚の映像に収めるには無理がある。



八幡宮から拝殿通路から境内にかけて繋がる燭台に始めの火を灯すのは宮総代。

続いて子どもたちや、親子連れできた参拝者も点けている。

ところが今宵はやや強い風が吹き抜ける。



本社殿に拝殿通路は風の通り道になっていないからまだしも、境内に設営した燭台はまともにあたる風。

舞う風に点けては消える、点けては消える、の繰り返しはイタチごっこ。

「例年でしたら、ぜーんぶの蝋燭に火が点いて、そりゃもう、壮観になっているんやけどなぁ・・・」とぼやいていても始まらない。

そう、思って一人の宮総代が動き出した。

公民館にあった紙コップに挟みを入れて細工した。

金属製の蝋燭立て芯を紙コップの底面に串挿し。



風に煽られて倒れないように固定したら火を点けた。

手軽に作った風防がお役に立つが、境内の燭台数は274台。

今から作っても到底間に合わない。

次回、というか明日もまた風吹く日なら作ってみようかと・・今夜の作業は諦めた。



いずれにしても大勢の参拝者が詰めかける。

火点けの蝋燭1本を受け取って、予め立てていた蝋燭に点けて廻る。

ほぼ全灯した拝殿通路は煌々として明るくなった。



若いおばあちゃんに連れられた幼子も火点け。

子どもたちも火点け。

親たちも火点けに廻る火の点いた蝋燭はそのまま手で持つわけにはいかない。

蠟でもたれたら火傷する。



それを補助する道具は芯を尖らせたペンシルのような形の補助具である。

宮総代が手作りした補助道具は子どもたちに優しい道具になった。

子どもたちは総勢で30人。



若いご両親に若いおばあさん、お爺さんに宮総代らも入れた60人もの人たちで大にぎわいになった。

ちなみに野神祭りのマコモ造りの取材に来ていた二人の男性は、今夜も地元行事の取材。

積極的に取材したその広報は地元に広げていることだろう。

(H29. 9.14 SB932SH撮影)
(H29. 9.14 EOS40D撮影)
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笠置町切山・二日目の土用垢離

2018年09月17日 09時43分06秒 | もっと遠くへ(京都編)
京都府相楽郡笠置町の切山を初めて訪問した日はこの年の1月15日だった。

場所だけでも把握しておきたいと訪れた。

その日は寒垢離の初日。

翌日も寒垢離を行っている。

伺った時間帯はすでに行事を終えていた。

他の人は場から離れていたが、そろそろ引き上げようとしていた社寺総代と前総代がおられた。

訪問した主旨をお伝えてして、毎年の1月15日、16日に行われている切山の寒垢離について教えてもらった。

切山はその1月の寒垢離だけでなく、8月には土用垢離もしている。

土用垢離は7月31日が初日で翌日の8月1日は二日目の作法がある。

基本的な作法は同じであるが、初日との違いは垢離の回数だけである。

寒垢離も同じく初日は午前中に2垢離。

社務所で昼ご飯を済ませた午後は2垢離の作法をするが、二日目は、午前が2垢離で午後は1垢離で終える。

初日の7月31日は、同じ京都府の京田辺宮津の茅の輪くぐりの取材に、奈良に戻って月ケ瀬嵩ならびに月瀬の他に桜井市の箸中の行事調査もあったから土用垢離は拝見できていない。

集まる時間帯は1月に訪れた際に聞いていた。

朝に集まってきた男たち。

この年は4人の寺社総代に新旧宮守の2人と宮守経験者の7人で構成していた。

初日にあたってはさまざま作業があるがら二日目よりも1時間早めに集まる。

まずは注連縄である。

垢離をする浅間の井戸(あさまのいど)に浅間神社横にある土山に植わる大樹のご神木。

それと籠り堂の名もある社務所床の間に掛ける注連縄である。



井戸用も土山用も長さ1mの注連縄。

床の間は2mの注連縄。

それぞれに1本ずつ掛ける。

床の間に長めに伐った葉付きの篠竹(シノチク)を左右2本立てる。



土山盛りに挿す御幣は7本。

50cm程度に伐った篠竹(シノチク)に挟んで立てる。

その数は7本。

垢離をする人数分の本数である。

ちなみに切山では篠竹(シノチク)を「ジク」と呼んでいた。

これらは垢離を始める前に調整ならびに設営をしておいたという。

この日は二日目。

籠り堂とも呼ばれる社務所の床の間に浅間神社に供える神饌を供えていた。

神饌は洗米、塩にお神酒。



床の間には浅間神社で灯す行灯もある。

床の間に掲げた掛軸は2幅。

関東の富士山本宮浅間大社から賜った掛軸である。

左側に書けたのが富士浅間大神(ふじせんげんおおかみ)。

右は木花咲耶姫(さくやこのひめ)のお姿である。

掛軸の前に立てているのは3本の金の御幣。

切山に鎮座する氏神社の八幡宮に末社の高良神社、御霊神社に相当する。

なお、床の間付近に立てている詞札がある。

これより始める垢離取りの詞章に浅間神社の参拝真言、般若心経である。

他にも籠り堂の参拝に詠みあげる神名帳詠みもある。

時間ともなれば社務所で着替えた7人は白装束姿。

白足袋に白色の鼻緒草履を履いて出発する。

行灯を手にした人を先頭にみなが揃って浅間の井戸に向かう。



大樹に囲まれた鬱蒼とする森林帯。

井戸手前の参道に鎮座する浅間神社に立ち寄る。

水垢離を終えてからすぐさま作法されるご真言の前に供える神饌や行灯である。



その場に浅間神社の参拝真言の詞札も立てていた。

先に奉っておいて、向かった先が水垢離をされる浅間の井戸である。

浅間の井戸と呼ばれているが、場は八幡宮谷川から谷水を引いた水溜め場である。

水溜め場は砂防指定地の傾斜地にある。

かつては山地傾斜地に設えた石囲いの水溜場。

竹樋で谷水を引いていた。

井戸の周りに板を作法していた。覆い屋などもない状態に冬場に行われる寒垢離は辛かったという。

その当時の状況は、富士市立博物館学芸員の志村博氏が調査・報告された調査報告書が詳しい。

現在は東屋型の覆い屋が建築されたから直接の風当たりは受けることはない。

ただ、夏場はともかく、冬場の寒垢離はやはり寒くて、谷水はとても冷たいという。

地すべり対策が主たる事業の砂防工事は平成13年度から始まって平成26年度に終えた。

その事業に相まって建築された東屋(垢離堂とも)である。



建築された東屋の水溜め場はコンクリートで固めている。

これまでは谷そのものの傾斜地であったが、水平に保たれた場になった。

谷水を堰き止めていた口栓を開けると流れてくる。

ある程度の水深になるまでは時間を要する。

しばらく待てば一定量になる。

水垢離をするには立ったままでもできないし、座ったままでもできない。

板を置いてそこにひざまずく。

一同が並んだところで、垢離始めに手水で清める。



この日の導師を務める代表は一人、一人に谷水を掬った柄杓を手元に運ぶ。

導師以外の6人が清めたら、柄杓は他の人に譲って導師も清めた。

手を清めたら口を濯いで身を清めた。

では、始めますと合図があって始まった水垢離に詞章がある。



「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ」と八ツ唱える際に掌で水を掬って飛ばす。

前方でなく右手で掬った場合は左側に。

左手で掬った場合は右側に飛ばす、という感じで八回繰り返し、連続して「ナムセンゲン(南無浅間) ナムダイボーサツ(南無大菩薩)」を唱える間も水垢離をする。



これを33回も繰り返す。

33回目のときの水垢離速度はやや緩めて終える。

33回繰り返して1垢離。

およそ5分間であった。

夏場は汗を流すほどの運動量である。

1垢離したら、10分ほどの一旦休憩。

続けて2垢離目の作法をする。

では、お願いしますと合図がかかって始まった。

「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ ナムセンゲン(南無浅間) ナムダイボーサツ(南無大菩薩)」の唱え詞にチャプチャプの水垢離音が谷間に広がる。

33回の垢離が終わればまた静かな山間地の姿に戻る。

耳を澄まさなくとも野鳥の囀りが聞こえてくる。ホトトギス、イカル、シジュウカラなどの野鳥が鳴く音色に混じって、カナカナカナカナ・・・ヒグラシが鳴らす音も聞こえてくる。

切山に冬場の寒い時季に行われる寒垢離と夏場は土用垢離をしていると教えてくださった人がいる。

平成28年の8月24日に行われた奈良市都祁上深川の富士垢離である。

上深川の富士講の人たちが垢離されると知って来たという大阪在住のF夫妻が、切山の垢離を拝見したことがあるという。

実は、夫妻の話しを聞くまでもなく、切山の寒垢離・土用垢離は先に挙げた『京都府笠置町に伝わる富士垢離について』を事前に読んでいたからある程度のことは把握していた。

「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ ナムセンゲン・・・」に唱える1から8までの数値である。

富士講或いは浅間講とも呼ばれる講中が夏場の暑い時季に、近くの川に入水する水行がある。

これまで拝見してきた奈良県内の事例である。

奈良市都祁の上深川富士講が営む富士垢離、奈良市阪原町の阪原富士講の富士垢離

また、神社祭祀を務める宮座中が所作される奈良市柳生下町および柳生町の土用垢離がある。

平成29年の5月30日に出かけた奈良市教育委員会史料保存館。

「奈良町信仰・講の行事とその史料」展示企画展で学ばせてもらった富士講行事である。

現在は面影すらないが、次の一文を遺した史料があるらしい。

その一文にあった「南都では、富士登拝のかわりに在所の川に入って入水。身を清める垢離を行う富士垢離が行われていた」である。

奈良町では「毎年六月に吉城川に入って富士講中が垢離をしていたという記録がある」とあった。

何十年も前に途絶えた曽爾村小長尾のセンゲンサンも水垢離をしていた。

川水をかける回数は伝わっていないが、水行に身支度した白装束姿を思い出す長老もおられた。

小長尾の水行の場は曽爾川とも呼ぶ正連寺川であった。

当時、小長尾にあった土用垢離を浅間講はその行事を「センゲンサン」で呼んでいた。

富士講でなく浅間講であった。

切山の水垢離の回数は8回。

私が取材してきた奈良県の富士垢離或いは土用垢離の回数もまた同じ8回。

8回に意味があるとわかったのは、私が公開したブログ記事を読んでくださった大谷正幸氏の教えである。

岩田書院から発刊した『富士講中興の祖・食行身禄伝 中雁丸豊宗『冨士山烏帽子岩身禄之由来記』を読む』の著者である。

論文も多く執筆されている氏が云うには「8」は富士山頂の八つの峰(八神峰)にあるという。

八つの峯を「八葉」と呼ぶこともあるそうだ。

神仏習合に由来する「八葉」は仏教でいうなら八葉蓮華である。

富士山頂の八峰を神仏にたとえた富士信仰。

八つの謎は山頂にあり、ということであった。



33回繰り返した水垢離を終えたら栓を抜いて溜めていた水を流すこの日の午後は3度目の垢離をするが、それまで水を溜めたままにするのでなく、すっかり流して綺麗にしておく。

午後になれば、また東屋に来る。

到着したら、また口栓を開けて新しい谷水を引くのである。

水抜きを終えたら参道にある浅間神社に下っていく。

先に塩、米、お神酒を供えていた。

行灯に火を点けて導師が前に。

手を合わせて拝む詞章は、「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」に「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」である。

唱える前にすべきことは神事拝礼。



2礼、2拍手、1礼をしてから唱える。

まずは、「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回唱える。

引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回唱えたら、再び神事拝礼。

2礼、2拍手、1礼をして浅間神社の参拝を2分間で終えた。



ちなみに現浅間神社の建之は平成十年六月吉日と刻印があった。

午後の参拝までは時間がある。

八足台だけ残して籠り堂に戻って切山に関わる神名帳を詠みあげる。



杖の世話になっていた長老は正座ができない身。

膝や腰に持病を抱える人もいるが、正面に掲げた富士浅間大神、木花咲耶姫に向かって、先ほど参った浅間神社のご真言同様に、「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回。引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回、唱和した。

そして、最後に神名帳を詠みあげる。

「天照皇大神宮、八幡大神宮、春日大神宮、御霊(ごりょう)大神宮、高良(こうら)大神宮、弁天大神宮、九頭(くじつかみ)神社、津島神社、水神宮、山の神様、道楽神社 切山区に 鎮座まします神々様・・・切山中の氏子、家内安全、無病息災、五穀豊穣にしてくださるよう願い奉る」と締めて神事拝礼。

2礼、2拍手、1礼で終えた。

こうして午前の部の2垢離を済ませた7人はお茶をいただき一服。

注文していた料理をいただいて、ヒンネ(昼寝)をする。

午後の部の1垢離を始めるまでの時間を籠り堂で過ごす。

こうした在り方は、奈良市都祁の上深川も奈良市の阪原も同市柳生町、柳生下町もみな同じ。

これこそ籠りの在り方である。

その間は一旦切山を離れて取材する私どもも昼食できる場に移動した。

再びやってきた切山。

ヒンネを済ませて身体はすっきりしたという。



白装束に着替えて午前の垢離と同じように作法をする。



先に浅間神社にお供え。

東屋(垢離堂とも)に入って水垢離。



柄杓で掬った水で手を清めて口を濯ぐ。

そうしてから始める1垢離。



「ヒー フー ミー ヨー イツ ムー ナナ ヤツ ナムセンゲン(南無浅間) ナムダイボーサツ(南無大菩薩)」。

これを33回。

途切れることなく繰り返す水垢離である。



導師の手が動いていた。「・・・ナムダイボーサツ」と唱えてすぐに動く掌。

よく見れば、何かを動かしているようだ。

終わってから聞いた掌の動き。

それは33回の数取りである。

左手にもっていたカウンターを動かしていたのだった。

かつては大きな葉と小さな葉の組み合わせて数えていたという。

大きい葉は大の位。

小さな葉は小の位の数取りであったろう。

ちなみに垢離(取り)の目的である。

垢離とはその字のごとくである。

神仏への祈願や祭りなどの際に、冷水を浴びて身を清めるとある。

清浄な水を利用して不浄を取り去る行為。

川に入水するなど、禊ぎでもあるが、回数はなぜに33回なのだろうか。

富士講や浅間講に限らず、33回とする地域は多い。

大宇陀地方の栗野で行われている垢離は33回。

隣村の野依もそうであった。桜井の瀧倉、修理枝もかつてしていた願掛けの在り方。

奈良市都祁相河町では薬師籠りに33回の垢離取りをしていた婦人も居たが、いずれも何故にその回数なのか知る人はいなかった。

かつての水垢離は身体に水を浴びて行をしていた。

頭から水を被る行であったという。

水垢離を終えたら午前の部と同じように浅間神社に参る。



「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回唱えて、引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回。

八足台も行灯もすべて引き上げる。

次は籠り堂で行われるご真言に神名帳の詠みあげ。



「キミョウチョウライ(帰命頂礼) サンゲーサンゲー(※ザンゲーザンゲー) ロッコンショウジョウ(六根清浄) オオ(大)ムネ ハツダイ コンゴンドー(金剛堂) フージ(富士)ハセンゲン(浅間) ダイニチ ニョーライ(大日如来)」を連続して5回。

引き続き、「ナムセンゲン(南無浅間) ダイボーサツ(大菩薩)」を5回。

「天照皇大神宮、八幡大神宮、春日大神宮、御霊(ごりょう)大神宮、高良(こうら)大神宮、弁天大神宮、九頭(くじつかみ)神社、津島神社、水神宮、山の神様、道楽神社 切山区に 鎮座まします神々様・・・切山中の氏子、家内安全、無病息災、五穀豊穣にしてくださるよう願い奉る」と締めて神事拝礼。

2礼、2拍手、1礼をもって二日間に亘って行われた土用垢離を終えた。

この年の1月15日に訪れた際に聞いていた在り方がほぼわかった。

そのときに云った「寒垢離も土用垢離も、作法に詞章唱和はまったく同じ。二日間とも見ても同じやから・・」がよくわかるが、写真は撮りようによって違いがでる。

撮影者の腕がものいう取材であった。



二日間に亘って行われた長丁場の垢離を終えた一同はお神酒をいただいて一段落された。

左方の合間に切山の年中行事を教えていただく。

一つは4月3日に行われる節句である。

ヒシモチを供える節句はこの年に取材させていただいた。

気になるのは正月の1月1日に行われる元日祭である。

この日は切山の初祈祷。乱声(らんじょう)と呼ばれる作法がある。

乱声は仏事。

かつては神宮寺があったという証拠である。

朝早くに集まる寺社総代に宮守さん。

ごーさんと呼ばれる宝印がある。

“午王 八幡宮 宝印“の文字があるというごーさん札にその宝印をもって朱印を押している。

そのごーさん札は柳の枝に挟んで供える。

本社殿に登って般若心経を二百巻唱える。

心経10巻でも長いのに二百巻も所作されると思いきや、「ヤーテ ヤーテ」の繰り返しだという。

単調であるが、百巻目と二百巻目に鈴を鳴らすそうだ。

その間、である。

籠り堂に待機していた人は柳の枝木で縁板を叩く。

その際に揚げる「ランジョー」。

叫ぶように声を揚げるというから、オコナイの作法に違いない。

また、正月三日間は自宅から布団を運んで籠りをしていた。

亥の日である。

初穂にウスヒキをした米は糯米であろう。

亥の子の餅を搗いていたその日は宮司が出士されて神事をしていた。

8月28日は二百十日の願掛け。



数週間後の9月15日は願すましがあるという切山は山間地。

鹿に猿、猪、狐にヌートリアまでがやってきて切山の田畑を荒らしているという。

(H29. 8. 1 EOS40D撮影)
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京田辺市宮津の茅の輪くぐり

2018年09月16日 10時04分04秒 | もっと遠くへ(京都編)
茅の輪の設営具合を拝見した30日

御幣を手にして茅の輪を3回潜っていた婦人が話してくれた。

潜るのは決まった時間でもなく、集落の各家のめいめいが自由な時間にしているという。

集落道際に茅の輪を設営する京都府京田辺市の宮津。

宮津の集落戸数は40戸。

垣内は白山神社が鎮座する白山を中心に屋敷田、北浦、宮ノ前、塚本、鳥羽田などがある。

茅の輪を立てた地区は北浦垣内。

茅の輪に近い地区の人はその存在に気づく機会が多いことから、潜られる人も多い。

逆に北浦垣内以外の人は場から離れているから気づくのが遅れる。

茅の輪潜りは7月31日に決っているが、つい忘れてしまうことがある。

近くであれば気づきで思い出す。

通ることもない離れた垣内の人は気づかずに終わってしまうこともあるようだと話していた。

ちなみに、前日にお会いした婦人は北浦垣内の住民。

買物帰りに茅の輪の存在を知って潜ったという。

朝早くに潜る人もいるらしい宮津の人たち。

その姿を一人でも拝見できればいいと思って再訪したのである。



北浦垣内に到着した時間帯は午前8時半。

サラリーマンの人であれば潜ってから出かけたのであろうか。

見張りをつけているわけでもないから実態は不明である。

昨日に訪れた時間帯は午後4時半。

夕方近い時間帯と朝の時間帯では光の具合が異なる。

夏場の朝はお日さんが燦々である。

夕方よりも光が明るいから、その状況も撮っておこう、とあっちこちの方角から撮っていた。

昨日と大きな違いは御幣である。

昨夕は村神主のYさんの判断で夜露に濡れないようにどころか雨は降るやもしれないので、御幣にビニール袋を被せて保護したと云っていた。

今朝の茅の輪には袋がない。

今朝は天気の良い快晴の日。

これなら大丈夫と判断されたYさんは朝早くに外したそうだ。

本来の姿になっていた茅の輪をカメラに収める。

朝の8時半から9時前までの時間帯はどなたも来られない。

この日の気温は何度であったのか存知しないが汗がどっと落ちる暑い朝だった。

撮っているときにバイクの音が聞こえてきた。

集配達の人であろうとおもったら、そうではなかった。

茅の輪を設営した南側にゴミ捨て場がある。

そこに袋に詰めたゴミを捨てに来た婦人である。

この日はゴミの収集日。

カラスなどに喰われないよう囲ったゴミ捨て場に入れた婦人は再びバイクに乗ってエンジンをかけた。

用を済ませて家に戻るのだろうと思っていたら、茅の輪に向かってバイクを近づけた。

恐る恐る尋ねた茅の輪潜り。

ゴミ捨てのついでに潜るというので慌てて許可取り。

取材の主旨を伝えて承諾される。

「髪の毛は乱れているし、格好もこんなんで恥ずかしいわ」、と云いつつもはじめた茅の輪潜り。



あんばいカメラを構える間もなくシャッターを押し続けた。

婦人は茅の輪に挿してあった御幣を1本抜く。

左手に御幣をもって茅の輪を潜る。

方角的にいえば南から北に向けて跨ぐ。

左に廻って出発点に戻って再び潜る。

反時計廻りに3回繰り返す茅の輪潜りである。

手にしていた御幣を茅の輪に挿した婦人はバイクに跨って自宅に戻っていった。

茅の輪の場は再び静寂状態に戻った。

またしばらくは茅の輪付近に佇んでいた。

たまたま遭遇した婦人に撮らせてもらった貴重な写真。

この場を借りて感謝申し上げる次第である。



そろそろ引き上げようとしたときである。

昨夕にお会いした婦人もやってきたがゴミ捨てに、である。

おかげさんで記録することができたとお礼申し上げた婦人は「・・・みなづきの・・・」を唱えながら潜っていたが、バイクの婦人は心で唱えていたのだろうか、お声は聞こえなかった。

婦人が云う。

ゴミ収集車が来るまでの時間帯に間に合うように捨てにくる。

朝7時前後から大勢の人たちがゴミ捨てのついでに茅の輪潜りをしていたようだと話していた。

(H29. 7.31 EOS40D撮影)
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京田辺市宮津・集落道の茅の輪

2018年09月15日 09時41分44秒 | もっと遠くへ(京都編)
とあるブログが公開していた画像はこれまで見たことのないような光景だった。

その景観に唖然と見ていた。

紹介されていた地域は京都府京田辺市の宮津である。

毎年の伝統行事に茅の輪潜りがある。

これまで私が拝見してきた茅の輪潜りの場はほとんどが神社である。

尤もお寺さんにおいても茅の輪潜りがある。

東大寺は解除会。

法華寺は蓮華会式に茅の輪潜りがある。

かつて大和郡山市井戸野町の常福寺も茅の輪潜りがあった。

お寺さんの茅の輪潜りは数少ないと思うが、宮津の茅の輪潜りはお寺でもなく、神社でもない集落の道端に設営である。

茅の輪を潜るのは宮津の人たち。

茅の輪潜りの際に唱える詞がある。「みな月の 夏越のはらひする人は 千歳(ちとせ)の命 延ぶといふなり」であるが、宮津では唱える作法はないように思える。

その不思議な光景を見たさに訪れた。

茅の輪を作って設営したのは宮さん行事を斎行する朔日講の人たちである。

そのことを知ったのは平成28年の12月30日に訪れた白山神社の砂撒きのときだった。

講中の了解を得て拝見した神社の年中行事・朔日講宮守覚書に茅の輪設営の段取りが書いてあった。

茅の輪を作る日は7月31日より前の日曜日。

朝早くに講中が白山神社に集まって製作する。

設営は30日の夕刻。

設営が終れば、2本の小幣を茅の輪に挿しておき、集落の人たちが、以降いつでも参ることができるように調えておく。

茅の輪を撤去するのは7月31日の夕刻とあった。

拝見したいのは設営状態である。

その設営の場は集落のどこであるのか探索したく夕刻に訪れた。

夕刻であれば設営は終わっているだろうから、と思って出かけた。

まずは白山神社である。

神社、境内にはどなたもおられない。

ある人のブログに公開していた集落の道端はどこになるのか。

探す集落道のだいたいは把握している。

平成28年の12月31日に行われていた籾御供配りに同行したことがある。

時間的な都合もあって集落半分くらいであるが、たぶんにこの道であろうと推定していた。

車を走らせて見つけた設営地にはどなたもおられないが、こんな光景は初めて見る。

円形に整えた美しい姿で立てていた場は今まで見たことのない景観を描く。



とても珍しい景観を目にしたときの感動は忘れることはないだろう。

あり得ない場所に立てていた茅の輪を目の前にしばらくは佇んでいた。

設営された茅の輪をじっと眺めていたら、違いがあることがわかった。

茅の輪の材料は茅でなく笹である。

宮守覚書にも書いてあった材料。

製作日までに調達した材料は笹。

自生する竹を伐って笹の葉を集める。

葉だけでなく枝付きの笹の葉である。

材が笹であっても形は茅の輪である。

数本の笹の葉を束にして崩れないように荒縄で縛る。

製作工程は拝見していないが、一人や二人ではできない作業であったろう。

しばらくその場で佇んでいたら近くに住む婦人がやってきた。

ほんまは明日に参るのであるが、今から潜ろうとしていた。

撮影許可は得ていないからカメラは構えていない。

婦人の話しによれば、つい先ほどに買い物から戻ってきたばかりだという。

出かけるときは立っていることに気がつかなかったそうだ。

出かけるときの時間帯はわからないが、その時点ではまだ設営ができていなかったのだろう。

買物を済ませて戻ってきたら茅の輪があったという。

立ててあるから、「今日のうちにしやなあかん」と思って潜ったという。

潜る際に手にする御幣は茅の輪に挿してある。

一晩中、茅の輪に挿しておく御幣が夜露に濡れてしまっては、不味いのでビニール袋を被せていた。

その袋を外して竹に挿した御幣を手にする。

そして茅の輪を潜る。

潜る回数は3回である。

唱える詞章もなく3回潜って参拝を終える。

3回潜ることによって半年間の穢れを落とす。

そう思うのである。

ちなみに婦人が云うには、茅の輪の設置場所は毎年が同じ。

集落道の中央でなく端寄りに立てる。

潜るのは端寄りでなく集落道の方である。

逆に端寄りを潜れば土手側になる。

斜めの土手側を潜れば土手下に落ちることになるから、道側を潜る。

婦人の話しによれば、茅の輪潜りをしている際に、「・・・みなづきの・・・」と云いながら潜っていたそうだ。

詞章すべてを唱えていたのかどうかわからないが、夏越しの祓え詞だったようだ。

婦人はかれこれ40年間もずっとそうして潜っているという。

「みなづき」と云えば思い出す和菓子の「水無月」。

京都人は皆月といえば、自然と和菓子を思い起こすようだ。

この日の目的はもう一つある。

宮守こと村神主を務めるYさんが住む家を訪ねることである。

訪ねる目的は大晦日に行われた籾御供の印判である。

村神主は一年間のお勤め。

一年ごとに繰り上がっていく。

その宮守交代は2月行事。

御供配りを撮らせてもらったYさんから宮守を引き継いだYさんを訪ねた。

まずは茅の輪の件である。

この年は作業が捗って茅の輪は午前10時ころには出来上がっていた。

夕方にまた一同が集まるのを待たずに、作り終えてすぐに設営したという。

Yさんが云うには、茅の輪を設営した場は、子どものころからずっと同じだという。

材料も茅でなく笹の葉だった。

なぜに集落道にあるのか村の人に聞いたことがないからわからないという。

この年の設営は前日の7月30日に立てた。

潜るのは翌日の31日に決っているというから夏越し祓であろう。

ところで御供配りの紙である。

朱色の判で押した文字は「白山神社 神饌」である。



特にそれ以外の文字はなかった。

気にかけていた紙はこれでなく、正月の1月1日行事に供える紙であった。

五穀豊穣を祈る印がある。

「牛玉」文字にごーさんの宝印を押していた紙であった。

手元にはないが、その紙はお札。割いた竹に巻いているという。

平成23年の1月1日に行われた朔日講行事のことは京都新聞が取材して発刊している。

その誌面に、「伝統の印しは五角形の紙片におし、柳の枝を割って挟む」とあった。

当時は柳の木であったが、現在は竹に移ったようであるが、Yさんがいうにはそのお札は苗代作りの際に立てていたそうだ。

(H29. 7.30 EOS40D撮影)
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久御山町佐古の民俗行事

2018年07月04日 09時28分08秒 | もっと遠くへ(京都編)
深夜に行われる佐古の野神神事を拝見することはできないが、宮総代らに教えてもらった若宮八幡宮の年中行事に寄せてもらおうと思っている。

行事の中で気になったのは、お千度参り。

或いは千燈明の名もある「放生祭」である。

奈良ではお寺行事の「放生会(式)」がある。

放生会は魚や鳥獣の殺生を戒める宗教儀式であるが、佐古では神社行事の「放生祭」である。

「放生祭」は“お千度さん”の呼び名もある。

親しみやすくそういうようになったのだろう。

お千度さんの主役は子どもたち。

たくさんのローソクに火を灯す、いわゆる火灯しであるが、所作はそれが主でなく、若宮八幡宮社殿を4周することにある。

実はかつて百回廻っていたお千度さんであるが、回数はぐんと減らしたようだ。

その廻る回数を数える道具がある。

その道具は竹の串。

夜の行事をとらえるのは難しいが、是非とも伺ってみたい行事である。

ちなみに久御山町教育委員会は昭和62年より町内の伝統行事記録保存事業をしてきたようだ。

その一つが6月5日の深夜零時に行われる佐古の野神の神事である。

記録したのは平成4年。

内容概略に「37本の大粽を作り神前に供える暗夜の奇祭」と紹介していた。

久御山町の行事を記録した保存事業は他にもある。参考に挙げておく。



1月15日に行われる佐山地区・雙栗(さぐり)神社の粥占神事は午前零時に小豆粥を炊いて8本の竹筒にある五穀等の入り具合で農作物の豊凶を占う。

同じく1月15日にとんどがある。

実施される地区は東一口(※町指定無形民俗文化財)・西一口(にしいもあらい)・野村・藤和田・田井である。

3月6日は下津屋の室城神社で行われる矢形餅(やかたもち)の神事である。

矢と弓の形をした餅を供えて悪病退散を祈願する。

同じく3月6日の野村の常盤神社で行われる鉢巻飯の神事である。

細長い握り飯に藁を巻いて供える。

3月17日、18日の両日に行われる東一口の安養寺の双盤念仏(※町指定無形民俗文化財)がある。

本尊十一面観音立像菩薩を信仰する集落の春祭りである。

10月1日から9日は東一口・相島・森・中島・坊之池で行われる玉田神社の宮座祭礼・社参風景等がある。

(H29. 6. 4 EOS40D撮影)
(H29. 6. 4 SB932SH撮影)
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久御山町佐古の野神神事の神饌御供作り

2018年07月03日 09時01分19秒 | もっと遠くへ(京都編)
真夜中の野神神事である。

場は京都府久世郡久御山町佐古内屋敷にある石塔群を祭っていた場で行われる。

すぐ傍に佐古の若宮八幡宮が鎮座するが、野神並びに石塔群の関係性は見えない。

大小さまざまな大きさの石塔群。

五輪塔もあるから元々は寺院であったろう。

その石塔群についてはある人がブログで紹介していた。

その記事によれば、石塔群は寄せられたものと書いてあった。

久御山町史第二巻』に「野神は元々久御山高校の東側に祭っていた。だが、昭和15年に始まった京都飛行場n建設工事に出土したという石塔も集めて、現在地に移した」と、ブロガーさんがコメントを入れていた。

野神神事については久御山町のHPに紹介されているが、神事写真はご法度につき非公開である。

尤も写してはならない神事ごとは記録も否定されている。

朝早くに集まって作業をしている人たちは8人。

4人の宮総代に自治会から役員2人と農家組合から2人である。

ご代表に取材を申し出て承諾される。

奈良からの取材に喜んでくださったのが嬉しい。

代表は宮総代の一人であるYさん。

この日の行事は「野神の神事」。

由緒書があるからと提示された。

久御山町のHP紹介文と重複する部分もあるが、ほぼ全文を写しておく。

「灯りを消した暗闇の中で、音をたてず、声も出してはいけないという神事で、暗闇の奇祭と呼ばれています。野神は佐古の若宮八幡宮の西側、30坪ほどの境内に古い石塔を集めて祀られています。この神事は巨椋(おぐら)池周辺にマラリヤが流行した際に、佐古の人々が野神を祀って無病息災、1年の平穏無事を祈って行われました。神前に供えられる神饌は、真菰で巻いた粽37本(※従来の大きさは3本、残る34本はひとまとめにしたもの)、淡竹(はちく)の筍は3本、ヘクソカズラ、塩、洗い米、赤味噌、干しカマス、枇杷の葉、桑の木の箸です。6月5日の午前0時、宮司を先頭に宮総代たちが供物を捧げて野神に社参します。宮司は声を出さずに、祝詞を奏上します。柏手も音を立ててはいけないので、両手が合うところで止めます。暗闇の中で行われる神事は30分ほどで終わり、参列者の宮総代、自治会役員、農家組合役員は、奉った粽を荷って引き揚げます。この粽は佐古自治会の全戸の数に切って、夜明けまでに各戸の入口に配られます。この場合も、声を出せず、人に出会っても挨拶を交わすこともできない、習わしになっています。この素朴な神事は近年真菰が少なった今も、地元の人々の情熱によって受け継がれています。」とあった。

大川(※地区東に流れる小字八幡講にあるふる川。正式名は名木“なぎ”川)に出かけて刈り取ってきた真菰を軽トラの荷台に載せて運んだ。

かつては太い粽を37本も作っていたから軽トラ3台分にもなったという。

自然に生えている真菰はやがて護岸工事などで生息域が狭められ収穫量は少なくなった。

尤も作り込み作業の負担軽減もあるが、先に挙げたように34本はひとまとめ方法。

真菰の量もぐんと減らしたこれまでとは打って変わった仕方で作っている。

真菰を乾かすには1週間ほどの日にちがかかるから、今年は前月の5月26日に収穫したそうだ。

刈り取った真菰は陰干しで一週間。



公民館の座敷に広げた真菰でわかるように薄緑の色が綺麗に残っている。

由緒書きにあるように、近年は真菰が少なくなっている現状。

今後はどうなるやらと危惧する役員たちである。

自然に生えていた真菰は近年において生息域が狭まれてきた。

奈良県内の事例になるが、数例紹介する。

一つは奈良市芝辻町で行われている野神講の行事である。

ここでは真菰でなく水辺に生える葦であった。

平成16年5月30日に取材した折に聞いた葦である。

かつては葦がたくさん生えていた土地があった。

住宅開発によってその地は消えた。

生息地が消えたから自ずと葦も消えた。

平成7年、御供はやむなく餅に切り替えたという事例である。

もう一つの事例は大和郡山市椎木町で行われている春日大社若宮のおん祭に献上される薦あげ、並びにその薦編み作業である。

薦の量は相当な本数になる。

椎木町の薦あげ献上に関する最古の記録は、室町時代初期である。

応永十四年(1407)の『春日社下遷宮記』に、その記録があるというから、それ以前から行われていると推定される。

現代まで611年も延々と継承されてきた重要な献上ごとに欠かせない真菰である。

大昔は自然に生えている真菰刈りがあったと想定されるが、現在は町内に薦田を設けて、そこで栽培している。

神さんに捧げる献上物を育てる田はいわば神田である。

重要な薦あげは絶やすことなく地元民が守ってきた神田にある。

綺麗な状態にしごいた真菰は何十本も集めて一束にする。

太く作る粽用に束ねる本数はとても多い。

ざっと数えたら50本どころか100本以上にもなる真菰の本数。



一握り以上の太さに束ねた真菰は解けないように市販品のイグサで括る。

一括りの巻き数は決まっていない。

決まっているのはイグサで縛った箇所が7カ所になることだ。



ところで大きな粽に昔はアレを入れていると広げてくれたが・・・見えない。

太い粽は3本作る。



慣れている宮総代らがその役目にあるようだ。

粽の製作中に御供を調えた。



長机に置いていた葉物は蔓性植物のヘクソカズラに枇杷の葉。

奈良県内の事例に枇杷の葉が登場する習俗がある。

小正月に炊いた小豆粥を供える皿代わりに用いる枇杷の葉である。

反り返っている部分の裏面に小豆粥をのせて供える習俗であるが、ここ佐古でも神饌御供の受皿に用いられる。

野神の神事に供える神饌は洗い米や塩は必須。

米に塩は白いカワラケに盛る。

その下に敷くのが枇杷の葉である。

青竹を伐った器はそれらの土台にする。

その土台に4枚の枇杷の葉。

十字の形になるよう重ねてカワラケで抑える。

枇杷の葉は照りのある面を表にして半折り。

右手のカワラケは赤味噌盛り。

市販品の赤味噌はパックに入っている。



汚れないようにスプーンで掬ってカワラケに盛りたいが、なかなか落ちてくれない。

盛りは難しいと云いながらもなんとかできた。

向こう側に見えるのが淡竹の筍。

我が家では煮物に最適な筍料理にワカメも一緒に炊く。

旬の味はとても美味しい。

それはさておきその向こうにある緑色の枝木は桑の枝の箸である。

神さんに食べてもらうに必要な箸である。

桑の枝の箸は長寿の箸。

通販でも売られている長寿に繋がる箸であるが、そのままの形でなく綺麗に加工された商品もあれば素材を活かした作りもある。



もう一つはヘクソカズラである。

つる性植物のヘクソカズラは葉も茎も臭いと云われてきた植物。

ところがよくよく嗅いでみれば、云うほどの臭さはない。

逆にヘクソカズラは香水作りの原料にもなる植物。

臭い名を付けた人はどなたか存知しないが、

可哀そうな名前のヘクソカズラも佐古にとっては神饌の一つである。

ヘクソカズラは巻きがあるような形にして竹筒に収める。

中央に紅白水引で括った3本の淡竹を置いて箸を添える。



こうして出来上がった神饌は深夜の0時に行われる野神の神事に供えられる。

太い粽に神饌を調えたら、小の粽を作る。

コウジブタに詰めた長い餅がある。



20年ほど前までは家で搗いていた餅である。

その餅は「ハンヅキのモチ」。

漢字を充てたら「半搗きの餅」である。

今では手間を省いて餅屋さんの光栄堂で作ってもらっている。

長さは14cmぐらいで径は3cmのハンヅキのモチ。

半分搗いた餅という方がわかりやすい。

つまりは餅になるまでの手前で搗きをやめた半分搗き。

糯米にまだつぶつぶ食感がある餅とか、粳米を半分混ぜて搗いた餅をこう呼んでいる餅搗きは奈良県内でときおり耳にする。

一例に、高取町丹生谷で行なわれたアコウさんの祭りのときの「半殺し」を思い出す。

さて、小の粽作りは新しく作ったコウジブタに作り込む。

まずはイグサを7本並べる。

数本ずつのイグサを7カ所に亘って並べる。

外れてしまわないようにセロファンテープで止めている。



その上に真菰を並べる。

真菰はコウジブタの底に並べるように敷く。

そして竹の皮で包んだハンヅキのモチを置いていく。



一つずつ、一つずつ丁寧に竹の皮で包んだハンヅキのモチである。

このモチは夜中の神事を終えてから各戸に配られる。

丸々一本のハンヅキのモチでなく小分けにする。

佐古は106戸もある大集落。

小分けしたハンヅキのモチは半紙に包んで配っていると話していた。

ハンヅキのモチは本数が多いからコウジブタから毀れそうになるくらいの山盛り状態。

すべてを詰め終わったら綺麗な真菰を被せる。

まるで屋根を葺くような感じに被せたら、予めセットしていたイグサで縛る。



崩れて落ちないようにイグサで括って準備は調ったが、作業はまだあった。

神事を終えた宮司に手渡す大きな御供粽である。



中には餅を入れたというから、大の粽はすべてに餅を入れていたようだ。

こうしてすべての調製ごとが終ればみな引きあげる。

再び集まる時間帯は午後7時。

かつては野神の神事を終えた後の直会であったが、現在は先にしている。

直会を終えたら一旦は自宅に戻って入浴する。

身体を洗って清める行為である。

正装姿で再び集まる公民館。

午後10時半に宮司を迎えて厳かに神事が執り行われると話していた。

(H29. 6. 4 EOS40D撮影)
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南山城村農林産物直売所で買った春蘭鉢

2018年02月28日 08時13分56秒 | もっと遠くへ(京都編)
南山城村付近に行けば必ず立ち寄る直売店。

いろごはんもタコ焼き風に焼いたシイ焼きもある。

食べる直売は私の口にあうかもしれないが、財布の紐は閉じたままだ。

ここへ入店して買いたいものは野菜である。

また買うてきたんかと嫌味を言われようともついつい買ってしまうヤーコン。

この日はたっぷり袋に詰めたヤーコンがあった。

これで200円とはびっくり値段。

入店していたお客さんに伝えたヤーコンの我が家の食べ方。

サラダも良いが天ぷらにしたら一番でっせ、である。

ところで今回は野菜だけでなく、久しぶりの山野草。

これで500円って奇跡に近い価格帯。

でっかい鉢に盛られた春蘭である。

こんなに大きく、しかも蕾が五つもある春蘭に飛びついた。

手間のかからない春蘭は半日陰の中庭に置きたい。

日差しがきつい地にはあわない春蘭。



私が知る範囲の自生春蘭のすべては北の斜面にあった。

日が当たり難い地である。

買った大鉢仕様の春蘭は我が家の南庭を背景に撮っておいた。



撮ってからは中庭に移す。

そこはセッコクもある。

春蘭も住みやすいところと判断して移した。

(H29. 4. 3 SB932SH撮影)
(H29. 4. 7 EOS40D撮影)
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笠置町切山八幡神社・節句のヒシモチ御供

2018年02月27日 09時26分53秒 | もっと遠くへ(京都編)
2月2日、架けた電話に話してくれたのは切山八幡神社の社寺総代のKさんの奥さん。

4月節句のヒシモチは社寺総代の3人が分担して、白桃蓬色の三色餅を準備するようなことを話してくれた。

形を調えるのはどこで、どのようにされるのかは、判然としない回答であったが、いずれも菱型に切断して供えるらしい。

京都府相楽郡笠置町切山を訪れるのはこの日が初めてではない。

訪れたのはこの年の1月15日

切山で行われている富士垢離行事の下見に訪れた日である。

富士垢離は小正月と8月初めの日の年2回と伺った。

尤も小正月の富士垢離はとても寒い時季。

切山では寒垢離と称している。

寒垢離を終えたばかりの社寺総代が話してくれた年中行事の一つに2月3日のヒイラギイワシがある。

いわゆる立春節句の前日の節分にしている習俗である。

メザシ(イワシ)の頭をチンチンガラガラの名で呼ぶこともある枝豆の軸の先に挿して、メヒイラギとともに切山八幡宮の各箇所に供えるという風習。

行事にあげてもいいが風習の方が相応しいような気がする。

もう一つが桃の節句の呼び名もある4月3日の行事。

その日はヒシモチを供えていると聞いたのでこの日に訪れた。

着いた時間は5分前。

寺社総代や数人の氏子が神社にいた。

これまで年中行事を務めていたのは二人の新旧宮守さんに四人の寺社総代。

さらに引退した宮守経験者を入れた七人組で祭祀を務めていた。

務める経験者は高齢の身。

次世代を継ぐ村人も少なくなり、宮守制度を廃止したのは一昨年であった。

人が少なくなった今は、四人の寺社総代が務めることにした。

宮守制度であれば順に繰り上がっていくことになるのだが、いなければ四人で継続するしかない。

その日の事情もあるから四人が揃うことも難しい。

かつての経験者も寄せて祭祀を務める。

代表の寺社総代は昭和11年生まれのKさんは今年で81歳。

本社殿を建替えた宮守経験者の大工棟梁は昭和8年生まれの83歳。こ

の日の節句にヨモギのヒシモチを作ったのは昭和10年生まれのNさんは82歳。

前もって準備した蕾付きの桃の花枝は何本もある。

切山の八幡神社は正面に八幡宮。

末社は右に高良神社。

左に御霊神社がある。



それぞれの社殿の両側にある花立ての器に盛る桃の花。

花立ての器が信楽焼。

切山よりそれほど遠くない地にある陶器作りの里。

信楽焼で名高いのは大きなタヌキである。

榊を立てた隙間に差し込む。

末社はもう一カ所ある。

本社殿より数百メートル離れた場に鎮座する浅間神社である。

浅間神社に参拝するのは先に挙げた富士垢離のときである。

ここも同じように榊を立てている花立てに桃の花を添える。



どこからともなく大きな音が聞こえてくる。

その音源は携帯ラジオだった。

大音響にしているのは鹿威しならぬ、猿威し。

ここら辺りは猿が生息する。

笠置町の切山だけでなく加茂町の銭司もそうだった。

後年にギャーギャーと叫んでいたのを目撃した地は木津川上流にあたる南山城村の北大河原だった。

銭司で目撃した猿は大型。

まるではぐれた親分のような身体つきだった。

のっそりのっそり集落の道を歩く猿。

畑に入っては食べごろになった作物を荒らしまくる。

数メートルしか離れていないところにいた。

堂々と動き回る猿は睨みをつける。

山に獣はつきものであるが、一番怖いのは猿だという。



半折りした奉書を敷いた折敷に載せる2色のヒシモチ。

下がヨモギを混ぜて搗いたヒシモチ。

クチナシを用いて赤い色にしたヒシモチは上段に重ねる。

その上に丸餅を載せて三段。

かつては中層に白い餅があった。

もちろんヒシモチの形である。

ちなみに昭和8年生まれの大工棟梁家では色粉を混ぜて桃色のヒシモチを作ったそうだ。

そして、最上段に蕾のある桃の花を添える。

憧れのヒシモチを拝見させてもらってたいへん嬉しく思う。

ヒシモチを作ってもってこられたのはNさん。

忙しければ作らないが、暇であれば・・と云っていた。

今年の3月に弟家にひ孫が生まれた。

ヒシモチは目出度い。

たくさん食べたいと孫が云うものだから作ったという。

ヨモギモチは粳米と糯米を挽いた米粉で作る。

割合は3対7。

粳米の繋ぎ、また、粘りがでるように割合を多くした。

搗いた餅はヒシ型のコウジブタに詰めて伸ばす。

厚さは2cmのコウジブタの大きさは一辺が40cm。

板は80cmもあると話してくれたが、菱形になるのやら。

ヨモギは茹でてから蒸す。

柔らかくなったヨモギを混ぜて餅を搗く。

それをコウジブタ内に詰め込んで包丁で切る。

搗きたては柔らかいからある程度固まってから切る。

昨年は上手くできたが、今年はできなかったと話す長老もいる。

昔は3月3日の節句にヒシモチを供えていたと伝わるそうだ。

ヨモギの若い葉が芽吹くのは3月3日では早すぎる。

もう少し、日が経たないと芽吹かない。

大阪市内に住んでいた私の子どものころの記憶体験でも4月だった。

都会ならまだしも山間地であれば気候の関係で遅い方になると思う。

先月の3月3日に取材した奈良県宇陀市大宇陀の野依で行われた上巳の節句のヒシモチ御供

ヒシモチ作りをされた小頭家が用意したヨモギはお店で購入した乾燥ヨモギであった。

本来は、生活する土地に生えているヨモギの新芽を摘み取り、冷凍保存したものを使用する。

冷凍庫ができるまではどうしていたか。

小頭家が云うには、土蔵保存である。

旧村に住まいする人たちは必ずといっていいほど土蔵がある。

また、芋を貯蔵する床下倉庫もあった。

一定温度で保つ冷温効果のある貯蔵庫は家近くにある崖に穴を掘っていたという人もいる。

おそらくは切山も同じようにそうしてきたのだろう。

ひ孫話しに出てきたコイノボリの支柱。

生まれたひ孫が初めて迎える端午の節句に揚げるコイノボリ。

その支柱は杉の木である。

初年は杉の葉をつけたままの支柱であるが、翌年は葉を刈ってカザグルマに切り換える。

長男が生まれたときもそうしていたと話してくれたのは社寺総代のKさんだった。



三段重ねのヒシモチ御供を供えるのは本社殿の八幡宮に末社の高良神社と御霊神社。



そして、境内外れに鎮座する浅間神社である。



その場、その場に供えたら一人の長老がやってきて、ローソクに火を灯して拝んでいた。



末社はヒシモチ御供だけであるが、本社殿は中央にヒシモチを据えて周りに神饌を並べていた。



三方に盛った品々はスルメにナスビ、ニンジン、キュウリなどの野菜もん。

お神酒に塩、洗い米も供えた場には金の御幣がある。

供える間にめいめいが先に参拝したら、神事を始める。



社殿を見上げる場に並んだ関係者は5人。

寺社総代が早速始める祓の儀。

頭を下げたら祓ってくださる。



そして、にわか神主役を勤める寺社総代は禊祓の詞を奏上する。

一人一人が捧げる玉串奉奠で終えた。

直会の場は社務所。

ゆったり寛ぐやすらぎの場でもある。

ふと見上げた玄関軒にあったヒイラギイワシ。

2月3日のトシコシ(年越し)行事に挿していたという。



それから何日目かわからないが、イワシの頭が消えていた。

たぶんに猿の仕業だと思うと呟いていた。

その日は飯および炒り豆を供える。

持ってきた豆を食べていたそうだ。

ヒイラギイワシはもとより、チンチンガラガラの名があるエダマメの枝軸も挿す。

また、子供がいる家ではオニワソトー(鬼は外)をしていると話していたが・・。

切山に近い土地に飛鳥路がある。

京都府相楽郡笠置町の大字の一つになる飛鳥路は東部、北笠置、飛鳥路。

有市に切山も重なる旧地飛鳥路区域。

うち飛鳥路の戸数は20戸。

40戸の切山より半数になるという。

切山の八幡神社祭礼は10月の第二日曜日。

元々は10月16日だったという。

稚児になる子どもが主体のマツリであるが、少子化の波は避けられずにオワタリは中断された。

宮守制度もなくして稚児もいない閑村になった切山。

一昨年に改正をしたというが、夏の富士垢離と正月明けの寒垢離は長老七人で今も継承しているという。

水垢離をするのは七人とも。



人数分の幣を立てる場所は、この日もヒシモチを供えた浅間神社右にある注連縄を張った大木の幹回りである。

また、社務所の奥にある籠堂は元々境内の西にあった。

竃もあった籠堂に火をくべていたが、古くなり、朽ちかけていた籠堂は現在地の東側に建て替えたという。

建て替えた大工さんは村の棟梁である。

竃の火焚きは割り木。

40戸の切山を6組に分けて区のデアイに人足が伐採などしてから割り木の作業をしていたそうだ。

帰宅してから旧飛鳥路付近をネット検索したら布目川に跨げてかけたカンジョウナワの場が見つかった。

(H29. 4. 3 EOS6D撮影)
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京田辺市宮津白山神社・朔日講の四月神楽

2018年02月22日 08時08分53秒 | もっと遠くへ(京都編)
『京都の民俗芸能』によれば、神楽に伝承はみられないものの、太鼓の胴に「文化四甲イ年」の文字があると書いてあったが、どうも合点がいかなかった。

文化四年の干支は“丁卯”である。

ところが、『京都の民俗芸能』の干支は“甲イ”。

“甲イ”は発音からおそらく“甲戌”であろう。

“甲戌”であれば文化四年ではなく、文化十一年が正しい。

写し間違いなのか、それとも記載誤りなのか、確かめるには、宮津朔日講に継承されている太鼓の胴を確認するしかないだろう。

そう、思ってはいたが、太鼓の所在を聞くことはなかった。

確認したのは神楽に使われる胴締め鼓だけだった。

この件については、またの機会に、としておく。

時間帯は朝の7時。

それ以前の時間帯に来られた村神主一人が動いていた。

本社殿に供えていた御供はパンにコップ酒。

実は後ほどお神酒はとっくり瓶に入れて御供箱ごと供えられる。

たぶんに参拝された人が氏神さんに飲んでもらおうと思って供えたのだろう。



一人黙々と動かれる村神主は朔日講の最年長者。

宮津の朔日講は8人組。

村神主は朔日講の一老でもある。

一年ずつ繰り上がって引退する村神主。

二老だった人が一老に上って村神主を勤める。

以下、それぞれが繰り上がると同時に末端加入する再年少者。

その人が八老になる。

かつては高齢の年齢層であったが、徐々に下がって今では40歳から50歳代の若手壮年層。

このままいけば30歳代にまで下ることになるだろうと話していた。

御供はパンだけではなく、お米もある。

お米は玄米であっても構わないし洗い米でもいいそうだ。

10杯の小鉢に盛った米御供は実に多い。



これらは昭和25年2月吉日に寄進されたオカモチ型御供箱に並べる。

御供を供える神さんは本殿に末社。

京田辺市、宮津に鎮座する白山神社の末社はとにかく多い。

稲田姫社、祈雨社、佐勢古勢社などに三十番神の石碑もあれば、金毘羅塔、猿田彦塔、石の祠、山の神も。



舞殿遥拝所内には朱智神社、佐勢古勢社、三十番神、祈雨社、高龗命、天照皇太神宮、春日大神宮、八幡大神宮、神武天皇も、である。

朝7時ともなれば八人衆がやってきた。

準備が調った御供は御供箱ごと運ぶ。



お神酒は専用の御供箱ごとそのまま供える。

そして社務所で着替える。

八人衆は普段着であるが、一老でもある村神主は、紺色の素襖に着替える。

その素襖は前年の平成28年12月30日に撮らせてもらっていた。

村神主が着用する素襖に「明治廿七年(1894)十月新調 價(値)金四円二拾銭 施主氏子」の文字がある。

今から124年も前からずっと一年交替する村神主が袖を通してきた素襖である。

神楽舞用いる道具は一老以外の人たちが奏でる道具。

大正三年壱月に新調された胴締め鼓や大小5枚の妙鉢に祓いの鈴である。

鳴り物は二老以下の講中が用いるが、祓いの鈴は神楽を舞う村神主の採り物であった。

京都府京田辺市宮津の宮ノ口に鎮座する白山神社へ初めて訪れた日は平成28年12月10日だった。

訪れた目的は大晦日に行われる神社の砂撒きであった。

その行事は地区在住の方々に教えてもらって取材したことがある。

今回は砂撒きではなく、神社に掲げていた朔日講のことである。

白山神社由緒書にあった「朔日講の神楽 毎月一日(現在は毎月第一日曜日など)」と京田辺市教育委員会ならびに文化財保護委員会が伝えていた。

その日に訪ねた在所住民がこの本の頁に紹介してあると拝見した本は昭和53年3月に発刊された『京都の民俗芸能』だった。

この本の編集・発行者は京都府教育委員会。

先に挙げた朔日講が所有する太鼓の胴の年代記銘の書き主である。

その後の大晦日に神社でお会いした朔日講の人たちがいう朔日講が神楽を舞う日は毎月の朔日。

例月は朔日に近い、いわゆる月初めの日曜日に移っているものの、正月や盆にも神楽を舞っているそうだ。

『京都の民俗芸能』が「朔日講の神楽」として紹介する解説文を若干要約して次のように記しておく。

「神楽は白山神社の宮座の行事で、一般に“宮さん組”と呼ばれる朔日講の組織によって、毎月一日の早朝に行われる」とある。

と、いうことは、昭和50年代は毎月の朔日(一日)日であった。

「神楽は浅黄色の装束を纏った“宮守”が鈴を採り、拝殿の正面に敷いた円座の上に立ち、上衣姿の太鼓・鼓に大小の鐃鈸(みょうはち)(※読みはにょうはちであるが、ここではみょうはちと充てている。また、鐃鈸は曹洞宗であって、真言宗や浄土宗では妙鉢の漢字を充てているようだ)ことからが加わった囃しに合わせて舞われる。舞といっても鈴を振りつつ右へ3回、左に3回、再び右に3回。円座の上で回転するだけだが、たいへん珍しい神楽である」と報告している。

また、「この神楽は4月3日、10月17日の祭りにも同様に挙げられるが、前日の16日のヨミヤでは村の家々を巡って、神楽を舞い、鈴をいただかせる風習がある」と、書いてあった。

「朔日講は宮ノ口の年長男の8人が、この任に当たる決まりで、うち年長者一人が宮守(村神主)を務める。宮守は神楽を舞い、他の7人が年齢順に太鼓、鼓、大きい鐃鈸(にょうはち)2枚。小さい鐃鈸(にょうはち)3枚の役に就く」とある。

さらに「こうして一年間の勤めを終えると、宮守は朔日講を退き、次の者が順に繰り上がり、新任一人が講員に就く。宮守が交替する日は2月1日。新宮守が講員を招いて一同を宴に計らう」とあった。

朔日講を紹介する記事はもう一つある。

平成23年1月17日に発刊された京都新聞の「いのちのほむら」シリーズにあった「白山神社の朔日講」である。

新年の正月元日に行われた朔日講の奉納神楽舞行事の記事は「元日、着物や洋服の男たちが白山神社を見上げ、トントン、トントン・・・神楽を奉納した。太鼓、鼓、妙鉢と呼ぶ小さなシンバルのような楽器などの囃しに合わせて素襖姿の最年長者の神主が、鈴と扇を手にみしろ(筵)と呼ぶ円座の上で右左に3回ずつゆっくり回った。本殿では宮司が村内安全、繁栄、五穀豊穣を願い祝詞奏上。囃子が明るい光と共に家々を包む」と伝える下りは朝日が昇るころの所作が伺える。

記事にある写真に烏帽子をかぶる朔日講の人たちの姿がある。

宮守は素襖を着用していたが、7人は羽織袴のように見える。

また烏帽子の形は一律ではなく、数名は角のない丸みのある烏帽子のようだ。

この日の朔日講に氏子参拝者の姿は見えない。

着替えを終えた講員は拝殿に座る。

元日や秋のマツリでは全員が素襖に烏帽子姿であるが、例月の場合、宮守以外の講員は烏帽子もなく普段着姿で所作をする。



まずは本殿に向かって2礼、2拍手、1礼。

右手に鈴を、左手に窄めた扇を採りもって、さっと立ち上がる。

すると同時に始まったドン、ドン、ドンドンドンの太鼓打ち。

妙鉢もそれに合わせてシャン、シャン、シャンシャンシャン。

鼓も同じ調子でトン、トン、トントントン。



単調な調子にまずは右回り。

採り物は動かさない。

足はすり足のようにして少しずつ動かして回転する。

3回廻って正面になれば、直ちに逆回転。

今度は左廻りに3回。

そして再び正面についたら直ちに逆回転の右廻りを3回。

3回廻って〆に鈴をシャラシャラ鳴らして座る。

鈴を台の上に置いて2礼、2拍手、1礼で終えた。

神楽舞は主神だけでなく朱智神社、佐勢古さんと呼んでいる佐勢古勢社に伊勢神宮遥拝地にも神楽を舞う。

神楽舞はいずれも同じ作法で右回りに左回り。

再び戻る右回り。

いずれも3回である。

主神遥拝の次も舞う場所は拝殿内。



遥拝する方角が少し西よりに移って朱智神社へ向けての神楽舞になる。

主神よりもやや斜めの方角であるが、舞う所作は同じであるから、静止画像ではわかり難い。

神楽舞に身体を右や左に回転する。

その所作の基本はすり足にあると思った。

それもドン、ドンの太鼓を打つ音にシャン、シャンの妙鉢。

足は右足だけのすり足。

その次のドンドンドンの太鼓打ちにシャンシャンシャンの妙鉢の音に合わせて左足をすり足で動かす。

その繰り返しのように思えた足の所作であった。

朱智神社の次は佐勢古勢社に向かって舞う遥拝。

正面本社殿に向かって舞っているように見えたが、宮守がいうには微妙な方向違いがあるらしい。

「させこさん」と呼んでいる佐勢古勢社はどのような神さんなのか。



初めて訪れた村の長老もわからないという神さん。

現在、勤めている8人の朔日講の人たちも存じない神さんは何者であるのかさっぱりわからないのであるが、正月十日に引退される宮守が社の周りに12本の幣を立てると聞いているが、それ以上のことは具体的に拝見していないので、実態は掴めていない。

ただ、この日に拝見した限りでは、瓦製と思われる社内に竹に挟んだ幣も見られるし、周囲に12本の幣も見られた。

拝殿での舞を終えたら場を移動する。

本社殿よりもまだ上。

小高い丘のような場に四方竹ならぬ棒を立てている。

それには縄で結った注連縄を張っている。

一見、祓えの場のように思えたが、この場は伊勢神宮を遥拝する場である。

東の方角にある伊勢神宮に向けて神楽を舞う。

7人の講員は腰を屈めた状態で楽器を奏でる。

講員の座る向きでわかる東向きである。



神楽舞の所作、鳴り物はこれまでと同様に行われる。

いずれもおよそ3分間の神楽舞であった。



この年の1月末に宮守を引き受けたYさんは朔日講年長者の村神主。

初のお披露目の神楽舞は3月の第一日曜日だった。

この月で2回目の神楽を舞った。

「いろんなことを考えたら所作が飛んでしまうから、心を引き締めて舞った」そうだ。

Yさんが朔日講にまだ新入りだったころに京都新聞の取材があった。

そのときのインタビューの受け答えは、初々しく「面白いです。みんなとやるのが楽しい」。

8年目になったこの年は村神主のお勤め。

心構えは神主役を受けたときからリーダーになっていた。



朔日講の神楽舞は月によって異なる。

例月の場合は本社殿の主神と佐勢古勢社に遥拝、奉納するが、4月だけは朱智神社と伊勢神宮遥拝所も行われる。

(H29. 4. 2 EOS40D撮影)
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上狛のヒイラギイワシに現役井戸

2018年02月09日 09時14分11秒 | もっと遠くへ(京都編)
O家を失礼してもう1軒のお家を訪ねる。

そのお家もO家と同様に貴重な大晦日の砂撒き習俗を取材させていただいたM家。

ご主人は不在であったが記録させていただいた写真をお渡しすることができた。

そのM家玄関にあった節分の魔除け。

ヒイラギイワシである。

迫力あるイワシの姿に圧倒する。

同家で行われている年中行事が色濃い。

正月の餅搗きもあれば、三宝飾りまで拝見した。

同家の習俗を収録し厚くて大きな民俗本も拝見していただけに節分は当然にあるだろうと思っていた。



まさに、その通りの同家には今でも現役活躍中の懐かしい井戸もある。

かつて井戸は釣瓶で井戸水を汲んでいた。

その後は汲みあげ式の鉄製手押しポンプが登場する。

今でも製造販売されているようだが、生活文化の発展にともなって改良されていく。

ちなみにネット探しに汲み上げ式手押しポンプが見つかった。

それも「元祖オリジナルトップブランド」の会社があった。

同社のHPによれば大正時代に開発・製造販売された昇進ポンプ。

おふくろが生まれ育った大阪南河内郡・錦織の母屋にもあった井戸揚水手押しポンプ。

懐かしさの思いが蘇って撮らせてもらったが、さらにネット調べにウキペディアにあった結果である。

広島県の津田式ポンプ製作所製もあれば、ガチャポンで呼ばれた名古屋の鋳造会社。

そして、戦後に主流、「元祖オリジナルトップブランド」を称していた東邦工業製がある。

昭和30年代後半に一般水道が普及するころから徐々に・・廃れることもなく電動式ポンプに移っていた記憶がある。

やがて井戸の蛇口も一般水道型に移り変わる。

そのころの私は小学生から中学生のころ。

学校でも蛇口を捻っていた。

その蛇口を「ひねるとジャー」と呼んでいたのは同世代。

山添村の大字大西でチョウジャドンの祝い膳を取材させていただいたお家の婦人も、そう云っていたことを思い出す。

(H29. 3.20 EOS40D撮影)
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