マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

第23回こおりやま歴史フォーラム-町家礼讃-古民家および歴史的町並みの保存と活用を巡って-inDMGMORIやまと郡山城ホール

2023年01月28日 07時28分08秒 | 民俗を聴く
この日に行われた第23回こおりやま歴史フォーラム。

地元、城下町の郡山の町。

全国至るところに城下町がある。

大和郡山もそのひとつ。

およそ400年前に成立した城下町。

私は、30年間も暮らした大阪市内・住之江から離れ、転居してきた。

半世紀とまではいかないが、ほぼ40年間も身を寄せている城下町の外廓のいち地区。

城下町の外域は、城下町形成以前の時代。

古くから暮らしてこられた旧村の民俗行事を取材していくなかで、歴史過程における民による伝統行事~暮らしの一端も知るようになった。

暮らしの基底は、衣・食・住。

この三つのテーマをもって写真展に参加したことがある。

写真展会場は、市内西の方にある県立民俗博物館内。

「衣」は平成27年10月に、「食」は平成26年10月

「住」は平成28年10月に、参加された写真家たちが、それぞれが思う民俗文化を写真に収めた作品を展示した。

建物の構造、あり方も、また暮らしの民俗。

旧家茅葺民家、旧家の町家など動態保存する民俗博物館の併設施設の県立大和民俗公園。

平坦部の建物や吉野建てと称される構造をもつ建物などが保存されている。

地域文化に、山、川、或いは高低差などなど・・・

物理的に異なる、その地に応じた建物構造。

その地に住んでいた暮らしの民俗。

構造的な視点から古民家解説、また茅葺職人が語る生の声を聴かせてもらい、学んだこともある。

第23回こおりやま歴史フォーラムも、また学び。

参加した今回のテーマは「町家礼讃~古民家および歴史的町並みの保存と活用を巡って~」。

「町家礼讃」を冠にはじまった歴史フォーラムプログラムは、講演者が思いを語る“古民家および歴史的町並みの保存と活用を巡って”。



講演者は三人三様。

それぞれが体験、活動されてきた立ち位置から事例を発表される。

事例1、「郡山城下町(大和郡山市)」を発表する奈良県建築士会郡山支部前支部長の徳本雅代氏

事例2、「今井寺内町(橿 原 市)」を発表する今井町町並み保存会会長の若林稔氏

事例3、「松山城下町(宇 陀 市)」を発表する宇陀市観光課課長補佐の柳澤一宏氏

町家の所在地に住み、内部から保存活動に励んだ、という若林稔氏。

内部の人だけに悩み、困難さをつらつら語られたが、私の耳にはグダグダウダウダにしか聞こえてこない。

地域を盛り上げに様々なイベントを実行してきたが、町家の保存に繋がったのか、どうかわからない。

本来、今後も将来長きに渉る暮らしに、現存する町家建物をどう継続していくか、具体策は何を、とか期待していたが・・・

内部に住む者だけに葛藤ばかりの語りに、得るものはただただ心配だけが残った。

徳本雅代氏の取り組みは現存する町家の城下町の測量・調査が出発点。

空き家になった町家の修復・保全形成から、新しい息吹を産もうとしている。

が、数件の物件を城下町に馴染むような建物。

リニューアルした建物は食事処を兼ねた観光拠点に、という方向建て。

観光客の目線からのいわばシンボルタワー的要素のように思えた。

ニュース報道などで紹介されるが、いっときだけの盛り上がり。

城下町全域に住民意識も拡げていかないと、結局は観光客に来てもらった、という嬉しさだけ。

ここに住みたい、という意識効果に繋がればいいのだが・・・

城下町・郡山も宇陀松山も、イベント止まり。

終われば、来られた町に戻るだけ。

その日限りの観光客集めで終わっているのが現状。

フォーラムテーマの「古民家および歴史的町並みの保存と活用」までは、ほど遠い現状。

知らず、知らずのうちに城下町は歯抜けのようになっていく。

潰した民家の跡地は更地のままもあれば、建て替え住宅に移った城下町らしくないお家も、最近よく見かける。

郡山に住んで40年。

昔懐かしの写真を見て気づくことは、その変容ぶりである。

昔はあーだった、こうだった、と回顧にため息がでる。

若林稔氏の講話は、イベントは失敗だった、と嘆きの講話になっていた。

会場は、DMGMORIやまと郡山城ホール。

元々は先着300名の入場者数だった。

コロナ禍対応に、直前になって入場制限を150人に落としたが、実際は100名余りの入場者数。



参加者に、大勢の知り合いの人たち。

みなさん、どう思われたのか存知しないが・・

(R3. 2.20 SB805SH撮影)

奈良を知ろう!学ぼう!第3回郷土学習講座「大和郡山の祭りと行事」in大和郡山市三の丸会館

2020年11月12日 09時15分37秒 | 民俗を聴く
「大和郡山の祭りと行事」を解説されると知って応募要領を見る。

主催は奈良県庁。

申し込みは葉書投函もあるが、ネット申請をした。

申し込みは「第3回郷土学習講座~奈良を知ろう!学ぼう!~「大和郡山の祭りと行事」受講参加申し込みフォーム」に沿って入力する。

入力はしてみたもののちゃんと行っているのかどうか疑わしいからもう1回入力投稿したが、反応は却ってこなかった。

諦めた申し込みであったが、間近になって入力したメールアドレスに返答された番号が19番で受付された参加券が届いていた。

参加券メールを送ってくれた所管課は奈良県教育委員会事務局/人権・地域教育課だった。

印刷した参加券付きメールを持参、会場受付のある大和郡山市三の丸会館小ホールに出かけた。

ほぼ満席になった会場に写真家Sさんが座っていたからともに聴講した。

会場に顔見知りの人たちに出会う。

一人は同市豊浦町に住むNさん。

もう一人は市観光VGCの前会長。

他にも知人が会場におられそうだが・・。

司会が紹介する本日のテーマを話す講師は奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さん。

数年前まで奈良県立民俗博物館に在籍されていた。

本日の講演テーマは「大和郡山の祭りと行事」。

そのタイトルで企画展が行われたのはずいぶん前の平成22年度事業だった。

図録は350円で今も立民俗博物館で販売している。

企画展当時までに取材した市内行事の数々を網羅している。

大和郡山の年中行事は実に多彩であり多様な形式、形態で継承されてきた。

鹿谷さんが博物館に異動されて間もないころに伺った。

そこで言われた大和郡山の行事を調べてほしい、だ。

手掛かりはほとんどない。

市内観光協会が発行するパンフに少し。

それだけで調べるには無理がある。

鹿谷さんが手元に渡してくれた市内に鎮座する神社系の資料。

それに書いてあるのは場所と神官名に電話番号ぐらいなもの。

行事の一切が書かれていない。

神社に出向いて神官に教えを乞う。

乞う、といっても何を尋ねるのかさっぱりわいてこない。

とにかく一歩、一歩を進めるしかないと思って休みの日に駆けずり回った。

企画展の開催は平成22年12月11日から翌年の平成23年2月6日までだった。

行事をとらえた写真だけでなく展示物品もとお願いされて協力をお願いした取材先。

心温かくも、さまざまな展示物品の出展協力してくださった。

忘れもしない奮闘ぶりに加えて解説までも。

これらは現ブログに残している。

あれから8年、今も続けている大和郡山の年中行事調査

神社、寺行事に地域、或いは講行事から家の習俗までも。

実際に取材した数は3月現在で323行事。

下見段階の未調査行事数は136行事もある。

とてもじゃないが無理。

匙を投げたわけではないが、時間がない。

取材してから中断になった行事は3件。

再調査もできていない行事は多々あるから、中断はさらに増えているものと思われる。

さて、始まった講演である。

聴講のすべてをメモるのは困難。

断片的なメモ録であるが、下記に列挙しておく。

聞き間違いがあるかもしれない。

その点、ご容赦願いたい。

「大和郡山市が・・8年、9年・・」。

現在活動中の奈良民俗文化研究所の紹介。

「小泉神社などの行事を拝見して奈良盆地にある大和郡山の行事は大阪の影響を受けたダンジリが多い」という。

庶民の生活文化の“民俗”に対して、東南アジアを勉強するのは“民族”。

自分のことを調べる場合が“民俗”。

庶民の暮らし、有形文化財問わず、価値が高いとはいえない生活の移り変わりがわかるものが、“民俗”であるという。

太鼓踊りの踊りは無形文化財。

太鼓や笛は有形文化財。

今回は指定されていないものも含めてお話します、と本題に移った。

東山中に対して西山中と呼んだ時代もあったが現在は死語。

村の人は“ヒロミ”に行ってくる、といえばそこは奈良盆地部。

“ヒロミヤッコ”の呼び名もあったらしいが・・。

宇陀に最東が“奥”。

奈良坂辺りは大和の北になる。

口吉野に奥吉野を南山と呼んで区分けしていた。

「大和へ行く」とはどこになるのか。

大和は国中(※くんなか)だと高齢者はいう。

伊豆七条町に子どもが集落を巡って“フクマル“呼びをする火の習俗がある。

お盆も火を焚く。

1月の迎え火にとんども火。

神仏送り迎えに火が要る。

外川町に砂撒きがある。

正月さんの道。

神迎えは山の暁。

川の砂。

盆地の西側に残っている砂の道、或いは砂撒きは家々を砂で繋ぐ。

大阪・四條畷依りにある上田原の地。

そこではお日さんマークの他、不思議な形を砂で描く庭絵がある。

“ゾウガイ”、“ドウガイ”などの名がある注連縄。

他に呼び名があれば教えてほしいと・・いわれるが。

自宅に戻ればメモしているから・・と心の中で呟いた。

奈良市・西ノ京の奥柳の地。

ここに“ソウガイ”系統があった。

矢口の座の注連縄、繋がりなのか、東明寺・八阪神社の行事の綱組みの際の掛け声が“チョーサじゃ チョーサじゃ”。

境内に描いた枠組みは「早生」、中生」、「晩稲」の三種。

綱組みの輪の中に入ったら蛙になるといった長老。

昔はそう言った、と・・。

ツナカケは村の入り口にかける。

粥占(かゆうら)からの作付け。

神名帳(じんみょうちょう)を詠みあげるオコナイがある。

現在はオコナイと呼ばずに法会と呼ぶ。

これらはこうなってほしいという予祝(よしゅく)。

野迫川村・北今西のオコナイにカズラ組みがある。

正月早々に行われるそれに“ハナ”を飾る。

大和郡山の小林町のオコナイは内陣を叩く。

湯立ての湯。

昭和60年の春日おん祭りに復活した湯立て。

“ソネッタン”というのは里の巫女。

加奥さん、坂本さんが祓ってくれる“シャンコシャンコ”。

大昔の絵に大宿所の御湯(みゆ)がある。

子どもが囃し立てる踊りがある。

その絵図に平鉦も打ち鳴らす情景も描いている。

昔、“オンダ”行事があった富雄の添御縣坐(そうのみあがたにいます)神社

田んぼに松苗とごーさん札が苗代に立てていた。

椿の花を添えて水口に祭っていた。

金丸講の本山は城下町内にある薬園寺。

井戸野町の行者講行事に子どもが町内を巡って御触れをする。

常福寺に鉦があった。念仏講が残した鉦は9枚。

文化十三年(1816)に“天下一”称号の刻印がある慶安五年(1652)製作の鉦。

額田部村へ寄進した“樋口久太夫”の鉦。

寄進者は48の念仏講に寄進したそうだ。

白土町に子どもの“チャチャンコ”がある。

8月7日からの毎日。

14日まで続ける、他では見られない極めて珍しい子どもの涅槃講。

打つ鉦の音から“チャチャンコ”の名がついたと思われる。

山田町の秋祭り。

“デンデラコ”の名称は太鼓の音から・・。

小林町・杵築神社に奉納した絵馬が珍しい。

絵馬に書いてある文字が“堂頭”。

町の子どもたちが集落を巡って金もらい。

絵馬に名前を書いてもらって奉納する。

これらの事例から、大和郡山市の祭りのキーワードはコドモ“では、と締めくくられた。

(H31. 3.10 記)

企画展安堵のいま・むかし~辻本忠夫氏スケッチ画より~学芸員ギャラリートークin安堵町歴史民俗資料館

2019年10月25日 09時34分46秒 | 民俗を聴く
先月の4月13日に訪れた安堵町歴史民俗資料館。

私にとって第一に関心があるのは企画展の「安堵のいま・むかし~辻本忠夫氏スケッチ画より~」作品展示である。

一か月も経っていたら展示されていた作品がどんなものを描いていたのか、すっかり抜けてしまった。

映像は見るだけでは記憶に残り難い。

例えば画を見てどなたかとワイガヤしていれば記憶に残ることがある。

印象は喋り、聞くことによって頭の中に残像となりやすい。

そう、思うのであるが、残念ながら展示物の一切が撮影禁ズである。

記憶をより残すには、画を見て、そのときの印象を文字で残すしかない。

そう思っていたが、前月のメモ録はほぼ皆無に近い。

館内で配布されていた資料に関連行事として「展示ギャラリー・トーク」スケジュールがあった。

1回目の4月22日はすでに終わっている。

次回は、この日訪れた5月19日。



この日は奈良県立民俗博物館でも同時間帯に国際博物館の日の記念講演会がある。

残念ながら1本に絞らざるを得ない。

菖蒲は咲いていたが、時季は遅かった。

今年の花の咲き具合は例年よりも一週間くらい早い。

そんな情景を見ていたところに三重ナンバーの黄色い軽自動車が資料館の玄関前に停めて一人の女性を降ろした。

軽自動車はバックした。

ガシャンと勢いのある音がした。

チェーンで連鎖していた駐車場留めのチャーンがぶっ飛んでいた。

金属支柱と支柱の間にすっぽり軽自動車の後ろが嵌ってチェーンがぶっ飛んだ。

前を行こうとする車。

おっかな運転で向かいの家の塀に当たりそう。

大声で怒鳴ったが、耳が遠いのかハンドルが逆向き・・。

パニック状態になっているように思える動作。

何度も指南して前方を来た道にむけた途端に走り出した。

おーい、と声をかけても走り去る黄色い軽自動車。

壊したことさえ認知せずに逃げた。

ぶつかった衝撃はあったろう。

ならば、運転席から降りて後方の当たったところを見るのがフツー。

降りもせずに三重に行ったのかどうか、知らないが、同乗してきて降りた女性もただおろおろするだけでなんの詫びもない。

耳が遠いというから説明してあげても、私が何をと思うような顔できょとんとする高齢者。

その場にやってきたその婦人の連れ合いと思われる女性は・・・もうえーかげんにせー、である。

施設は損害を被った。

修繕は直ちにできるものではないが、一応の応急措置的なことは伝えておく。

そんなトラブルがギャラリートーク前にあったことを付記しておく。

そのトラブルに関係する高齢女性もトークの場にいた。

ここへ来た目的はそれにあるらしい。

他にも何人かが来られて合計8人が聴講するギャラリートークはU学芸員の解説。

そつなく綺麗にまとめられて持ち時間の30分間をこなす。

さすがだと思った。

解説は展示順にそった1章から8章まで。

同村の富本憲吉氏(※人間国宝の第一号)と懇意にしていた辻本忠夫氏が描いた展示スケッチ画などを示しながら解説される。

辻本忠夫氏は西安堵が出身地。

生業は農家。

農業作業の合間に住まいする安堵町の情景などを写生・デッサンしていたそうだ。

その枚数はそうとうな量になるらしい。

氏が残したスケッチ画は家族が大切に保管していたから、こうして私たちも拝見できるのは実にありがたいものでご家族に感謝せねばならないと思った。

画帳は大きなものでなくポケットに入るようなB6版ぐらいであろうか。

さっと取り出して濃い鉛筆でデッサンする。

色付けは自宅に戻ってからしていたと考えられる。

安堵町は環濠集落。

富本憲吉家もそうだが、家を外からの攻撃から守る構造。

役目はどうなのかわからなかったが、「からたち」の木があったとスケッチ画に描かれている。

2章は昔の娯楽。

蓄音機、テンチャン遊び、ばいがち合ひ、べったの勝負を描く情景は、子どもたちの服装からおそらく大正時代から昭和初期のころのように思える。

さて、テンチャン遊び・・とは。

いわゆるお手玉のようだが、不思議な呼び名である。

ばいがち合ひ・・とは。

“ばい”遊びをしている情景から、私の年代でも体験のある一般的呼び名のベイゴマ遊び。

私の住む地域ではべいと呼ばずにバイである。

バイするで、と言っていたことを思い出す。

バイはバイガイ(貝)の形とそっくりに作られた鉄製のコマである。

だから、バイと呼ぶ。

順当な呼び名であるが、世間ではべいごまのようなが・・。

べったの勝負とは・・。

大阪生まれの大阪育ちの私らはべったでなくべったんであった。

東京人がメンコと呼んでいたようだが、それは形も違う。

ぺったんでもなくべったんである。

3章は安堵町の一大産地であった梨果実の生産である。

明治時代初年に京都・山城の国から持ち帰った梨の木を植栽して育てたら、地区土壌に合ったのか、豊作、豊年。

当時のマニュアルであろうと思われる「大和梨栽培大要」を展示していた。

梨は甘い。

蜜が濃いから年中に亘る防虫策が難しかった。

そこで辻本忠夫氏が考案した防虫の機械。

大型鉄製の噴霧器である。

原薬の硫酸を撒くときにはレインコートが必要不可欠だった。

かぶっていないと身体が毒されるから危険を伴った防虫だった。

また、新聞紙も防虫に役立ったという。

何故に新聞紙であるのか。

その答えは印刷インキである。

インキ自身が防虫になるということは、どこかの場でも聞いたような気がする。

ただ、インク材は昔と今とでは違っているので、昔は効果があったが、現在は期待できないと思う。

梨の市場は飽波神社の前がそうだった。

個人蔵の出荷帳も展示されているが、そのなかに書いてあるらしい。

梨栽培は戦争激化に伴って、食糧増産の稲作に移った。

栽培していた梨の木は燃料。

木炭自動車が走る時代だったから、その燃料にしたのであろう。

最後の1本を伐採し終わったときに終戦を迎えた。

原木の1本でも残っておれば、復活も可能と思われるが、元の梨栽培畑にはなりようがないほど地域の変容ぶりに無理がある。



映像は資料館内で栽培していた苺の露地もの。

えー実、えー色具合だ。

スケッチ画キャプションに「カブロ取り」がある。

「カブ口取り」の可能性もあるが、一体何であろうか。

当日聴講していた女性が質問されてもわからない詞である。

4章は懐かしの風景。

富雄川ドンドンキャプション。

これもまた何がドンドン。

スケッチ画から流れる川に段差をつけて流れを緩やかにする工夫であろうか。

かつて大和川が蛇行していたと思えるスケッチ画がある。

この章では過去と現在を対比できるように、スケッチ画された場所を最近映像の写真で紹介していた。

蛇行はしばし洪水を引き起こして周辺は地区が水ツキになった。

河川工事した結果は一直線の川。

逆に一挙に流れて王寺の方では、そこらじゅうの川から流れて集中するからときおり冠水することもある。

昨年の秋に発生した冠水は大阪に流れる出口の一極集中型災害であろう。

ちなみにゼンリン地図でも広げてほしい。

川は一直線になったが、地区の境界線は昔と同じ。

川西町吐田の一部住民は現在の大和川北に住むことから大和川に架かる橋を渡って南にある学校に通っていたと、当日聴講されていた地区の校長先生が話していた。

このあたりは水ツキがあったことは大和郡山市の額田部町に住む高齢者が話していたことを思い出した。

護岸工事される前の大和川の土手に萱が自生していたという。

採取した萱は編んで人が滑るお尻に敷いて土手を滑走していたそうだ。

上流の川西町・下永付近でも護岸工事をされた。

コンクリート護岸の隙間から生えてきた萱。

もしかとすれば真菰草かもしれない。

萱と真菰の大きな違いは葉の幅もあるが、見分けがわかりやすいのは根に近い部分の軸。

赤みがあるはず。菰草であれば、6月に行われる地区の伝統行事の「キョウ」に登場するジャジャウマ作りに用いられるはずだが・・。

どうなんだろうか。

地理的には東安堵よりそう遠くない地に大和郡山市の椎木町がある。

ここでは年に一度。

春日大社の若宮おん祭に寄進奉納される菰編みを作っている。

下永と同様に菰は畑で栽培する。

つまり、生息地は川でなく畑であった。

余談なことだが、ふと思い出した。

スケッチ画のキャプションに川堀りがある。

下永ではこれを“ツユハリ”と呼んでいたと解説される。

“ツユハリ”はどちらかといえば集落にある水路の清掃。

田圃に水を入れる水路も含めて地域が管轄する水路であるから清掃をする。

大和川は国交省の管轄。

その場合も“ツユハリ”と呼ぶのだろうか。

ふと、疑問をもった。

ちなみにツユハリは田植え前に行われる村人総出の作業。

旧村のほとんどは5月末の日曜にしているようだ。

小字橋本に建つ「すてんしゃう」道標。

道路改修の折にやや埋没。

見えなくもない「すてんしゃう」の刻印。

思わず“天王寺ステンション“を思い出した。

今では「すてんしょん」なる詞を発したら笑われるかもしれないが、れっきとした明治時代、まだ和訳が広まっていない時代にステーションが訛った表現である。

そのすてんしょん表現は近畿一円。

ところが関東では「すてーしょん」。

東北、北海道に九州になれば「ていしゃば」あるいは「てんしゃば」。

近畿でも伊勢辺りでは「てんしょば」になるからおもしろいものだ。

5章の天理軽便鉄道。

風景画の描き方に密度がでるようになった。

精細で色彩も鮮やかな画もある。

単なるスケッチ画ではなく、じっくり腰を据えて描いたと思われる写生画もある。

法隆寺自動車学校開校や西安堵側・架構橋工事中の名阪国道は時代の変革を切りとったスケッチ画。

状況が刻々と変化する安堵町を記録している。

6章の行事と祭礼。

中でも特筆すべき画がある。

2枚、連続のパノラマ状態で拝見できる野辺送り。

キャプションに丁蝋燭、丁鉦、長播、燈籠、生花、如来様、仝供、伴僧、導師、仝供、長柄、家族がある行列する葬送のスケッチ画。

今ではまったく見ることのない貴重な民俗画。

しかも、野辺送りに箱に収めた融通念仏・如来さんまで送ってくれるというありがたい葬送。

東安堵は融通念仏宗檀家。

これまで六斎念仏講がお盆に忙しく檀家参りに鉦打ちする姿を撮らせていただいたこともある。

ただ、スケッチ画の如来さんについては大阪・平野の本山大念仏寺ではなく、地区お寺にある分仏のようである。

節分の歳越(としこし)晩の父親は枡に盛った大豆を撒きながら「福はうちー 鬼はそとー」と払っていた家の習俗画もある。

そのトシコシを家で体験していたという男性が話してくれた。

学芸員も校長先生も地区で観光案内をしている人も驚きのその男性は辻本忠夫氏の次男さんだった。

今は大阪・八尾の山本に住んでいるが、近鉄山本駅にたまたま目に入ったポスターに、えっと思ったそうだ。

何の画か説明はなかった画風でわかった父親のスケッチ画がポスターにあったから、駅員に頼んでもらったという。

スケッチ画に父親のサインもあったから判明の根拠もあるが、生家で描いていたそうとうな枚数を見ているものだから画風でわかったという。

この日のギャラリートークがあるとはまったく知らずにいたという。

実はこの日に集まりがあった。

その場に兄さんがおられて展示のことを聞いて、兄嫁とともに足を運んだそうだ。

子供のころの生活体験を生々しく話してくださる辻本忠夫氏の次男さんの出会いに感謝である。

ところでそのポスター。

なんでも奈良県立民俗博物館に寄贈しているようだ。

父親は梨栽培もしていた。

生産、出荷に忙しい毎日。

出荷に運んだ先は大阪・堺。

木の車の大八車に載せて運んだ。

夜中に安堵町を出発して堺で下ろしたら、一目散に戻って安堂町でまた荷出しをする。

王寺町にある低い峠を越えて再び堺へ。

片道だけでも30kmもある安堵町-堺間。

自動車で運搬してもそうとうな時間がかかる。

昔の人は偉かったと思う。

次男さんは昭和14年生まれ。

現役バリバリにさまざまな活動をしてはるそうだ。

ちなみに天理軽便鉄道安堵駅のスケッチ画である。

背景の山々の状況から法隆寺向こうにある山であろうとか教えてくださる校長先生。

駅舎は時代によって建物に変化があったそうだ。

話題を展示作品の6章に戻そう。

今では見られない飽波神社の秋祭りの情景がある。

馬が何頭かいる画のタイトルは競馬(くらべうま)である。



いつころに廃れたのか存知しないが、奈良県内で今でも競馬の行事をしている地域はない。

あれば、貴重な行事になるのだが・・・。

ちなみに8章にお米ができるまでの一枚に刈りぬけがある。

キャプションに稲の収穫に赤飯を炊いた。

その赤飯を椀に盛って箕にのせる。

そこに稲刈りに用いた鎌を供えている画である。

今では見ることのない安堵町農家の習俗は、鎌に感謝する鎌納めのカリヌケ儀式であるが、大和郡山市の田中町で取材したことがある。

神社行事の際にたまたま話題になったカリヌケは今でもしていると話してくださって取材させてもらった貴重な一枚である。

もう一枚もお米の生産。

節目に行っていた一つにさなぶりがあった。

田植え終わりの農日の祝日。

植えた苗に餅を供えて一日休みとキャプションがあった。

学芸員トークは予定の30分間で終えたが、次男さんの体験談とか地域の歴史風土に詳しい校長先生や観光案内の女性の話題提供もあって盛り上がった。

実に有意義な時間を過ごせたことに感謝申しあげる。

回顧話題に思い出した写真集がある。

東京・樹林社発刊の『なつかしきあの日、あの時 大和高田市・御所市・香芝市・葛城市・上牧町・王寺町・広陵町・河合町編』。

本日トークのU学芸員も執筆者の一人に名前を連ねていた。

実は、私も樹林社のお世話になったことがある。

ひょんな出会いからコラム執筆をすることになった『大和郡山・天理今昔写真集』。

掲載写真の鑑定もお願いされた写真集であるが、私自身が撮った写真はない。

(H30. 5.19 SB932SH影)

北大阪の正月行事の聴講in吹田市立博物館

2019年03月01日 09時41分41秒 | 民俗を聴く
明日香村大根田の聞取りを終えてまっしぐらに車を走らせる。

橿原の坊城からは高速道。南阪奈道路を利用して近畿自動車道を北上する。

と、そこに現われた大阪モノレール。

正式名称は大阪高速鉄道大阪モノレール線

大阪・豊中市の大阪空港駅から大阪・門真市駅を結ぶ路線。

開業は平成2年の6月だ。

今年の1月、取材させていただいた能勢町天王区・キツネガエリ行事の主催者(能勢天王子供会会長)から展示案内を、10月28日に連絡してくださった。

実物大のキツネを展示していると聞いていたが、すっかり失念していた。

会場は大阪の吹田市立博物館。

開館25周年記念して開催された秋季特別展。

テーマは「北大阪のまつり―まもりつたえる心―」である。

気がつけば企画展は今月末の11月30日まで。

大慌てで出かけた。

カーナビゲーションシステムにセッテイングした吹田市立博物館の所在地。

システムが指示する通りに車を走らせたら駐車場に着いた。

この場に停めていいのかわからない雰囲気。

警備の人に聞いてみればここだという。



降りてからも指示の通りに向かって歩いた。

その先はトンネル。



そのトンネルを越えると・・・博物館があった。

この日は大阪府教育庁文化財保護課専門員の森成元氏の講演日。

秋季特別展に展示されている北大阪のさまざまな行事を解説してくださった。

「祭りや行事を見学するのだが、近ごろは行事日程が動いていることもあり、訪れる前には事前に確認をしておくほうが無難だ」と話す。

「日程が替わった事例はままあるが、地元の事情で行事を急に中断したケースもある」という。

大阪だけではなく、主に取材している奈良県においても同じような状況である。

期間中に発刊された開館25周年記念の秋季特別展図録『北大阪のまつり―まもりつたえる心―』に沿って解説される森成元氏。

「大阪北部、北の端に能勢町・天王区がある。その天王区に毎年行われている“キツネガエリ”行事がある。その行事によく似た類事例が、周辺地域にも見られる。京都や兵庫県の県境に集中している“キツネガエリ”。年頭の行事に勧請掛けもある。主に滋賀県、三重県で見られる勧請縄であるが、大阪府内は少ない。河内長野市などの3件が知られている。勧請縄は川に架ける。神さんに来てほしい。悪霊を拒む結界とする勧請縄。一年の月数は12カ月。その12の数をもってシキビで作った房を垂らす。一年は12カ月であるが、旧暦閏年の場合の房飾りは13である」と解説される。

勧請縄掛けは奈良県内に多く見られる年頭行事。

悪霊は川を遡上してくると考えられていた。

村落は縄掛けの上流にある。

村に疫病が侵入してこないように、川を跨るように架けた。

いわゆる川切りであるが、時代の変遷にともなって集落道を拡張。

今では道切りの位置に替わったという事例もまた多い。

大阪の北部。能勢町のまだ最奥にある天王区。

そこで行われているキツネガエリ行事

森成元氏はさらに北部からやってきた行事であるという。

なぜにキツネなのか。福徳の象徴にフクノカミ(福の神)がある。

授かったフクノカミは神棚に祭って1月14日のトンドで燃やす。

天王区のキツネガエリ行事は、この年の平成29年1月7日に取材してきたので参照いただきたい。

豊中市上新田にトンド行事がある。

かつてトンド場は田んぼであった。

その田んぼは消えた。

おそらく宅地化であろう。

消えてはなるまいと天神社境内に場を移して継続している上新田のトンド。

火点けは櫓の内部に入って点けるらしい。

なお、上新田のトンドは一番の大規模を誇るという。

具体的な事例は映像になかったが、お正月とお盆は対照に対比しているという。

つまりトンド火は小正月。

正月を迎えた歳神さんを送る火。

お盆は先祖さんを迎える、或いは送る松明火になるという。

宝くじの原型は箕面市箕面公園・瀧安寺の富籤

かつてはごおう(牛玉)の宝印があった寺。

一夜どおしかけて持ち帰った富籤。

江戸時代にあった宝くじの源流になると話される。

島本町の諏訪神社で行われるオトウ。

格式の高い行事だそうだ。

大阪の3カ所に蛇のような姿の勧請縄がある。

的の横に置いて弓を打つ。

弓打ちの後に、蛇の綱引きをする。

勝ち負けを競う綱引きは占い。

最後に山を打つらしい。

その様相は高槻市原・八阪神社の春祭りの歩射神事のようだ。

同島本町の大沢もあったらしいが、1129年が最後になったと私のメモにあったが、それが何だったのか・・記憶にない。

北大阪のまつりの特徴に餅米を蒸したシラムシ(白蒸し)がある。

代表的な神饌であるという。

茨木市生保(しょうげ)・諏訪神社。

ダム湖建設によって神社ごと移転した。

かつての位置とは違った移転地に遷座したそうだ。

春祭りに供えるモッソがある。

手で三角形に象るモッソ作り。

その形は宝珠であるという。

人参、大根を切って箸を添える。

モッソはそれぞれの大きさによって名前を付けている。

オタイショウ、ケンゾク、カラスである。

オタイショウは大大将、ケンゾクは眷属であろうが、烏とは・・。

また、本殿の貫の下にカラスがあるとか、榧(カヤ)の実もあるとか・・・。

映し出される映像に沿って坦々と話される行事の御供。

お湯まつりに三角形のシラムシ。

蒸し米でなく現在は和菓子屋にお願いして作ってもらう饅頭になったとかいう茨木市車作・皇大神宮の神饌。

モッソはあちらこちらに見られるが、その意味は判りませんと断言されたので、思わず心の中でえぇっと洩れた。

同茨木市大岩・大歳神宮の神饌もまた白蒸しモッソウ。

ビワの葉にのせてから紅白の水引で括って供える。

そのモッソは6カイチ(※当地では垣内をカイチと呼ぶようだ)それぞれが供えるらしい。

また洗米を潰してつくる“しとみ”があるという。

“しとみ”はおそらく“シトギ(※充てる漢字は粢)”であろう。

たぶんに“しとみ”が訛ったものと考えられるが、そこまでの解説はされなかった。

また、カイチ(垣内)の長は首からユウダスキを掛けているという。

木綿襷のこれは“木綿を結う”というようだ。

土地の名前は「サイノトウ」。

道祖神社のサイノトウという行事は茨木市豊川道祖本で行われる。

シラムシが作るニチリン、ガチリンなどバラエティなご馳走である。

吹田市立博物館学芸員でもある副館長の藤井裕之さん、モッソウというのは型に嵌めて成形している、つまり象るもので、牢屋のメシもモッソウというと解説していた。

吹田市岸部・吉志部神社のどんじまつり。

ここもまた神饌御供にシラムシがある。

白蒸し以外にコバンモチもあれば茄子などを串に挿す菓子もの。

和菓子のお菓子ではなく、栗や柿の甘もの。

宮中ではそれを菓子と称していたそうだ。

また、“ちご”と呼ばれる女児が頭の上に盛りもののサンダとも称されるサンドラを運んでいただが、今は・・。

島本町尺代・諏訪神社のオトウのシンセンイタダキも頭上運び。

高槻市安満・磐手社神社の馬祭りに献上する振袖女児によるゾウニモチ御供の頭上運び。

北大阪のまつりの特徴である乙女による神饌運びの頭上運びを人身御供という人もいるらしいが・・。

違和感があるようなことを話された。

その磐手社神社の馬祭りは正月まつりではなく、現在は5月の節句日に移った。

ノリコ(乗り子)役になる当屋家のオダンツキ。

その場が実にユニークだと話されるが、今は中断しているようだ。

能勢町長谷・八坂神社におんだがある。

山里で行われるお田植え行事オツキヨウカのテントバナ調査に来ていた平成24年5月8日に取材させてもらったので、そちらを参照されたし。

「北大阪のまつり。昔は子供やったという人たちが地元で継いできた。スーパーが悪いのか、デパートがあかんのか、年中無休もあってか、家の正月行事が消えていった。夜中に神さんを祭って、夜中にウロウロする感覚がまだある。バレンタインに継いでハロウィンも目玉になってしまった近年の動向。盆踊りは仮装行列が当たり前。だからハロウィン」と締めくくり。

嘆きの締めくくりで講話を終えられた。

ちなみに本日の講話に紹介してくださった数々の行事は、副館長の藤井裕之氏の協力を得て、シテイライフ創刊30年記念企画のシテイライフアーカイブス【北摂の歴史記録】第28回北大阪のまつりに纏められているので参照されたい。

講話を終えた講師に名刺交換をお願いした。

手渡してはっとして気がつかれた私の名前。

「家内が云っていた・・奈良の田中さんがすごい・・」とひと言。

「貴方のブログをよく拝見していたので存じています」という。

帰宅してから届いたFBメッセージの「“ダイガク”で知り合った」には、びっくり仰天、である。

お伺いすれば奥さまとはなんとFBで交流させてもらっているお方だった。

不思議なご縁を感じたこの日。

副館長の藤井氏も驚いていたようだ。

(H29.11.23 SB932SH撮影)

鹿谷勲氏が語る山添村の祭りと民俗in山添村スポーツセンター大研修室

2017年12月25日 09時29分22秒 | 民俗を聴く
奈良民俗文化研究所を立ち上げて代表を務めている鹿谷勲氏が「山添村の祭りと民俗」を題して講演されると知ってやってきた。

講演会場は大字大西にある山添村スポーツセンター大研修室である。

会場控室におられる鹿谷氏にご挨拶をさせてもらおうと思って入室したら、山添村教育委員会委員長のFさんが応対されていた。

Fさんは大字の毛原。

昨年の平成28年は6月25日

長らく途絶えていた毛原の田の虫送りでお会いした。

直前に行われた神社行事の端午の節句

はじめてFさんにお会いしたのはずいぶん前の平成22年の2月21日ことだった。

毛原で行われている行事を尋ね歩いた日だった。

村人に出会うこともなく、村を歩いていた。

こうなれば呼び鈴を押すしかないと判断して、あるお家の呼び鈴を押した。

そのお家がF家であった。

大字毛原には子供の涅槃や西と東の山の神さん。

その日の女性は室生川の向こう岸にある弁天さん参りもあれば長久寺の「ダンジョウ」とか。

長久寺には大師講が存在する。

八坂神社では月初めに再拝(さへいもしくはさいはい)と呼ぶ行事に植付け籠りもあると教えてくださった。

当時の役職は平たん三宅町の教育委員会勤務だった。

それから6年経った今は、在住する山添村の教育委員長務め。

なかなか休ませてくれないと云っていたのが昨年だった。

鹿谷勲氏が語る山添村の祭りと民俗はまさに教育委員会の範疇である。

たぶんに応対されていると判断して入室させてもらったら、やはりである。

なにかとお世話になってきたこともあって、鹿谷氏ともども共通の民俗話題が拡がる。

その部屋にやってきたのはこれまた存じ上げている大字春日のUMさん。

同じく大字菅生大垣内のUKさんだ。

UMさんは平成19年の10月20日に取材したキョウワウチ宵宮参りに翌日21日のオトナ祭り(※若宮祭とも)も当屋家を支援する手伝い六人衆を務めていたお方だった。

また、UMさんは大字春日の申祭りに能狂言を演技、伝承している古金春流春楽社(※結成は明治25年)の一員でもある。

UMさんと村外でであうこともあった。

平成28年の11月11日

天理市の福住公民館で行われていた民俗画帳展示会に居たときに、たまたまお越しになられたUMさんが、「げんげ」の意味を教えてくださった。

もう一人のUKさんも古金春流春楽社の一員であるし、大字菅生のおかげ踊り保存会でもある。

踊りの練習は平成23年の7月22日

盆踊り披露の前に慣らし踊りをする際の太鼓打ちを務めていた。

平成23年の11月11日は、2週間前に迫った近畿芸能大会に出演するおかげ踊りの予行演習もしていた。

UKさんとは平成27年の1月7日に訪れた山の神の日にカギヒキの作法をしてくださった。

さまざまな出会いがあった山添村の民俗探訪。

これまで訪れた山添村の大字は、毛原、春日、菅生の他、岩屋、鵜山、大塩、大西、遅瀬、勝原、北野、切幡、桐山、中峯山(ちゅうむざん)、西波多、広瀬、広代(ひろだい)、松尾、的野、三ケ谷、峰寺、室津に吉田の22カ大字。

山の神を祭っている情景をとらえただけの地区も含めてのことであるが・。

未だに訪問できていない大字は、片平、葛尾、助命(ぜみょう)、堂前、中之庄、伏拝(ふしおがみ)、箕輪の7カ大字。

とにかく山添村は広いと感じている。

鹿谷勲氏が奈良民俗文化研究所を立ち上げる前の職は奈良県立民俗博物館の学芸課長だった。

平成23年8月のころだった。

鹿谷氏が私にお願いしたことが一つ。

山添村の民俗行事を紹介する写真はお持ちでないか、である。

なければ特定地区でも、といわれた。

その一つが大字菅生であった。

6年前のころはまだ多くの行事を取材できるところまで至ってなかった。

いつかは実現するであろうと思って、当時、取材していた範囲内で蔵写真より引っぱりだした写真を整理していた。

大字菅生で59枚。

菅生以外は72枚もあったが、鹿谷氏が得意とする奈良県の無形民俗文化財に指定されている菅生のおかげ踊りは、盆踊りに出演している写真しかなかった。

もう一つの無形民俗文化財は大字北野、峰寺、松尾、的野、桐山、室津で継承されてきた「東山の神事芸能」である。

当時、未だ私が取材できていない「東山の神事芸能」地区は的野だけであった。

その代わりになったわけではないが、その年より始まった「私がとらえた大和の民俗」写真展である。

大和の民俗を撮っていた写真家の人たちに声をかけてお願いした写真展。

地域限定でもなく幅広い民俗要素から写真家自身が描く映像で紹介することになったのだ。

そのような経緯を思い出しながら講演会場に向かった。

会場には神職も来られていた。

奈良市丹生町にお住まいの新谷忠宮司夫妻である。

宮司が出仕される地域は広い。

山添村では桐山に北野、峰寺。

在地の丹生町により近い地域が持ち場。

以外に奈良市の旧五カ谷村の9カ村も。

その一つに興隆寺町がある。

その興隆寺町・八阪神社の月例祭にシラムシ御供があると教えてくださる。

出仕されている旧五カ谷村では唯一の珍しい御供。

シラムシは粳米、餅米のそれぞれの米粉を塩水で練って作ったとても珍しい御供であるから、是非とも訪問してあげたら、と云われる。

実は、先日に伺った際に氏子さんからシラムシのことを聞いたので、3月1日の行事は是非出かけてみたい、と伝えたら、当日は奥様が出仕されるという。

当日は興隆寺町で出会うことになる。

ありがたいこの日の出合いに感謝する。

会場には顔見知りの山添村観光協会局長のMさんや、大字勝原在住のSさんも。

村外からは山添村と明日香村をフイールドに風景写真を撮り続けている写真家のYさんもおられた。

教育委員長の挨拶で始まった「鹿谷勲が語る山添村の祭りと民俗」講演会。

会場はぎっしり埋まって立見も多い。

席に溢れた人も数えてみたら、およそ100人にもおよぶ大盛況。

予想以上の反響は、来場していた顔ぶれでわかる。

鹿谷氏と面識のある村の人は行事を継承してきた人たち。

記録、聞き取りなどで長年に亘ってお付き合いをしてきた村の人が、是非とも聞いておきたい山添村の祭りと民俗の講話である。

はじめに紹介されたのは山添村の伝統芸能奉納の上映会だ。

収録は春日大社の式年造替記念に奉納した大字北野、峰寺、松尾、的野、桐山、室津の人たちが演じた「東山の神事芸能」である。

鹿谷氏から出演依頼があったのはずいぶん前のこと。

大字ごとに出演依頼の行脚をすると聞いていた。

奉納日は平成28年11月20日の日曜日。

その日に行われる造営奉祝行事の大和高原神事芸能の撮影に協力できないか、奉納のすべてを記録に撮ってほしいと願われたのはその年の8月23日だった。

電話で受けて承諾したものの、自宅に戻ってよくよく日程を確認したら、奈良県立民俗博物館のイベントがある日だった。

第6回目を迎えた「私がとらえた大和の民俗」写真展のイベントで出展写真家が併設する大和民俗公園にある古民家を利用して語らうテーマ「住」をめぐる大和の民俗―古民家座談会だった。

実は鹿谷氏も出展写真家の一人。

イベントの語らいも出るはずだったが、春日大社の奉納日と重なってしまった。

鹿谷氏は奉納に関わる重要な人物。語りイベントは私たち写真家で対応すると伝えた。

その年の民俗行事取材に出かけた山添村。

10月15日は室津に居た。

宵宮のお渡り取材に伺ったトウヤ家で聞いた出演の話し。

トウヤ家のOさんや東山地区神事芸能保存会会長のⅠさん。

出演を承諾して誰に出てもらうか、これから相談すると話していたが、おそらくはこの日と翌日の本祭に出仕される渡り衆になるであろう、ということだった。

それより以前の8月27日に立ち寄った大字北野・津越の大矢商店店主もたいへお世話になっている。

11月20日は北野も春日大社の林檎の庭で披露する。

時期はまだ早かったから誰が出演するかは決まっていない。

というのも、北野の場合は各垣内から選ばれる渡り衆。

順番が決まっている垣内は明確であるが、籤を引いて決める垣内はまだ、である。

すべての垣内が決まった段階で、この記念の奉納をしてもらうことになるから、口外できない。

もちろん、私もその一人、である。

上映された映像は北野、室津の「東山の神事芸能」に菅生のおかげ踊りであった。

こうして始まった講話は、鹿谷氏が初めて入った山添村に関する村の調査である。

内容が濃い講話を聴講するままノートにメモった。

一部は聞き取れない部分もあり、私が誤記していることもある聴講メモ。

できるだけ綴っておきたく、不明な点もそのまま列挙させていただき、また、私が知る範囲内で補足すること、ご容赦願いたい。

★最初の出会いは30云年前。

布目ダム建設に伴って、水没する村もあることから、その民俗調査である。

調査報告書は北野の津越。

当時の人たちにUさんが云った「マツリのホーデンガク」の言葉である。

その言葉に気づいて、山添村に「奉田楽」があるのか、調べることになった。

奈良晒(ならざらし)の紡織(ぼうしょく)や十九夜講が桐山にあった。

いろんなことがあることがわかった山添村に来ることが多くなった。

★特色は正月迎えをするフクマル呼びがある。

鹿谷氏が当時撮ったと思われる山添村の写真を会場正面に設置したスクーリンに映し出す。

正月神さん、正月どこまですとってた。

便所も関係ある正月っつあん。

新しいものが生まれる場が便所である。

びっちんくさ・・・はうちでもあったといったのは、隣で聞いていた風景写真家のYさんだ。

広陵町に住むYさんにとって、便所は「びっちんくさ」である。

私は大阪が生まれ育った地。

田舎は富田林の錦織。

母親の実家であるが、「びっちんくさ」の言葉は聞いたことがない。

「びっちんくさ」の「びっちん」は大便のことであろう。

大便は誰でも臭いというから「くさ」である。

「びっちんくさ」はそのまま大阪弁で云えば「うんこくさ」であろう。

★山の神も・・。

谷出などの菅生集落入口は七ツある。

平坦の地蔵さんと同じように、集落にやってくる悪の侵入を防ぐ地に、7カ所それぞれに山の神がある。

クラタテに“まぐわい”もある山の神。

祭具は男と女を想起する雑木がある。

★“はしおと“。

橘流の橘紋の上着がある。

明治2年の大和万歳の映像を披露されて、山添村には尾山万歳に伏拝の万歳がある。

貴重なものが伝承されている。

ちなみに伏拝(ふしおがみ)は山添村が行政区域。

一方、尾山は奈良市の旧月ケ瀬村に属している。

それほど遠くでもない距離にある両村。

万歳文化の交流があった、と思われる。

★無形民俗文化際に指定した「東山の神事芸能」で所作される田楽は平安時代に始まった風流(ふりゅう)である。

・・楽器する、目出度い古典的詞がある。

生活の安定を願う。

御幣を振る。

なかでも注目すべき点は、扇ぐ、である。

楽器を床に置いて外へ・・・。

次の場面は内側に向けて煽ぐ。

煽ぐ道具は扇である。

音をたてる楽器は、扇に煽がれる。

奈良市丹生町では楽器を蹴る、とかする所作がある。

大風を表現する煽ぎは農耕に擬えた所作をする。

こうした各大字で行われてきた田楽は一覧表に整理したが、今ではだいぶ変わっているようだ。

名前も当時取材したときと違ってきているし・・。

オドリコミの唄を謡いながらトーヤ家に上がり込む。

その際には小豆とお米を撒いて、福をトーヤ家に呼び込む。

それは呪術的な・・、来てもらう場所に便所もある。

おかげ踊りもオドリコミに用いられている。

安芸乃島のミチビキの唄は奈良市上深川で行われている題目立(だいもくたて)のミチビキの安芸乃島・・・が唄われる。

「イリハ」は入ることの入室。

「デハ」は逆の退室を表現する言葉である。

楽器は苗に見立てたササラなど。

煽いで、煽いで育てる。

いわば仕事としての所作が考えられる。

映し出されたシーンは奈良市北野山町の田楽。

同町は山添村の桐山、室津が分かれになった三カ村。

田楽文化は元々が桐山を中心に据えて、室津、北野山町の三カ村がそれぞれ一年おきに田楽を奉納していた記録がある。

長い年月を経て所作も詞章も変化したことで知られる。

私的にはいっそのこと「東山の神事芸能」に加えてもいいのでは、と思っている。

田楽はさらに奈良市の柳生町も紹介される。

柳生の舞はヨーガの舞のヨーゴーの松。

漢字で現わせば影向の松である。

目出度い松を呼び込む所作がある。

少し離れた下狭川町にも田楽がある。

所作の楽器の音色からと考えられるバタラン・バタラン。

大保町の横跳びもある。

田楽を継承してきた地区分布を地図上で見ていただければ理解しやすいと思える。

そうそう、山添村峯寺の六所神社で所作される場は本社殿下の拝殿もあるが、もう一カ所ある。

宮総代渡り衆を迎える場は「堂」。

窓のない開放感ある長屋建ての建物である「堂」内部で披露される。

奈良市大柳生も田楽がある。

昨年に県の無形民俗文化財に指定されたが、被る「ハナガイ」が乱れている。

奈良市阪原にも田楽がある。

昭和54年、大和の文化披露に寄せてもらうようになった山添村を基点に、関連する所作を、地域特有の類事例として紹介される。

★上深川の題目立のヨロコビの唄を謡い始めた鹿谷氏。

詞章、謡いに囃子詞は、いつもふっと口ずさむ。

頭の中にいつも仕舞ってしるわけでなく、公開講座でも度々口にされる。

その度にすごい人だな、と思うのだ。

曽爾村に獅子舞がある。

肩の上に乗って所作をする特徴的な接ぎ獅子がある。

大和の祭りは道化の面を被る。

元々は能面を塗りたくって使っていた。

獅子舞も一つの万歳があった。

活芸があった。

オッペケペー節が万歳の中にあった。

皿回しのない曲芸もあった。

おかげ踊りは、連綿とずっと続けてきたのは、菅生だけだと思う。

オドリコミは七つの講があった。

それぞれの講中のヤド家でヨバレたお酒を飲み歩いて、4軒、5軒目でノックアウトダウンしたこともあった。

踊りを踊ると・・褒め言葉がある。

お返しに出しづくし、花づくしを織り交ぜて褒め返しをした。

★北野の伊勢講に入れ物の箱があった。

そのお箱は天正二年(1574)の銘記があった。

古金春流春楽社の記録など、絵馬もある。

菅生の「じんやく踊り」の写真が、平成5年に山添村が発刊した『やまぞえ双書1 年中行事』に残された。

大正8年が最後であった踊りは写真と本になって残ったのである。

★桐山の十九夜講は女性だけが集まる講。

松尾のオボケ。

麻糸作りの緒は誕生と葬送にも登場する。

芸能も生活も、どのようにして残すのか。

十津川村で撮った写真がある。

日除けの葉っぱは背中に付けていたのを目撃した。

葉っぱを付けていた婦人の姿を撮っていた。

今では見ることのない、山村暮らしの姿が写真に残った。

スクリーンに映し出された姿見て、これとまったく同様と思える行事がある。

奈良市小山戸町・山口神社で行われる「おせんどう」を思い起こす。

また、伏拝の福蔵寺の本尊は子安地蔵尊。

庭に十九夜さんの石仏が三体もある。

広瀬にコンピラ祭りがあったことなど、多彩な祭りと民俗の講話はこうして終えた。

その後は、山添村観光協会局長と風景写真家のYさんともども山添村観光協会でお茶会。

すっかり寛がせてもらった。

(H29. 2.18 SB932SH撮影)

関西大学森隆男文学部教授ガイドツアーによる古民家解説in奈良県立大和民俗公園

2017年07月23日 09時37分45秒 | 民俗を聴く
午後は県立民俗博物館の催しがある。

今回で6回目を迎えた「私がとらえた大和の民俗」写真展。テーマは「住」である。

11人の写真家がとらえた「住」を3枚組で紹介している。

うち7人の写真家が揃って座談会が行われる。

これまではカメラマントークと称して博物館の講堂で喋っていた。

今回のテーマは「住」だけに、民俗公園に移築された古民家に場を移すのもテーマ性からいってもぴったしカンカン。

移築した民家であるが当時住まいしていた雰囲気を味わいながら座談会をしようということになった。

さて、である。

午前中はこれらの古民家について解説されるツアーが組まれた。

古民家は建築物。

構造論が中心に解説されるのであるなら、また一般参加者の迷惑になっては、と思って参加は見送っていた。

ところがともに出展している森川さんがツアーに参加するからと誘われて仲間に加えてもらった。

駐車場に車を停めたら今度は志岐さんも登場する。

同じ考えで私も、というわけだ。

ツアーの出発地になる移築民家は高取町上土佐にあった旧臼井家の建物。

昭和49年に指定された国の重要文化財である。

そこにもまたもや出展者。

野口さんも、である。

暇かどうかは聞かなかったが関心をもった四人が集まった。

参加者は写真家だけでなく一般参加の男性もおられる。

学芸員に案内されて会場に来られた解説者は関西大学文学部教授の森隆男氏。

民俗が出発点である先生は建物構造にあるのは人が住まいする点を強調される。



臼井家には五つ並んだ竃がある。

そこを指さして云われたのは「奈良のニワカマド」である。

なんとなく聞いたことがある「ニワカマド」。

手元にデジタル映像で複写させていただいた中田太造氏著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。

書かれていた記事に目が大きく開いたことは多々あった。

複写した時期は平成19年。

勤務していた大和郡山市の施設。

市民交流館時代のときにお世話になった係長がいた。

係長はこんな本を持っているが、勉強になるならと見せてくださる。

頁をめくるなり「宮座一覧」に飛びついた。

それが記載されていた大和の宮座の他にも御杖村の年中行事や曽爾村の一年、平野の一年、大神神社と芸能、大和八王子とモリサンなどなど。

「奈良のニワカマド」のキーワードで思い出したのが「奈良の庭竃と大歳の客」の章である。

書によれば「元禄五年(1692)、正月刊行の井原西鶴の『世間胸算用』五巻五冊は、西鶴最晩年(51歳)の作品群。

その巻一第一章に中・下層町人がせっぱつまって演ずる世態・人情の悲喜劇が描かれており・・・。

この中の巻四の二に「奈良の庭竃」という歳末風景が書かれている」とある。

詳しくは割愛するが、森先生が云うには、一年が新しくなるときに竃を塗り替えたということだ。

西鶴の書は江戸時代のはじめ。

大晦日から正月にかける「和歌山の火継ぎ」儀礼があると云う。

奈良では新しく点けた火を・・・次の年次に移る、つまりは時間の境界跨ぎである。

土間で暮らしていた奈良の町屋。

寝室の敷居は一段高い処にある。

それを「帳台構え」と呼ぶ。

岐阜では藁を積んでいた寝室だった。

藁敷きは温かいということである。

「帳台構え」の寝室に寝ていたのは当主夫妻に子供たち。

代替わりに隠居した祖父母は「帳台構え」から外れて奥の客間に移る。

土間には張り出しの腰かけがある。

ちょこんと座るような感じの張り出し腰かけの板の間。

実は家人が食事をする場であった。

上部を見上げてみよう。

私は茅葺家を拝見したらついつい見上げてしまう屋根裏構造。

先日に訪れた京都府の南山城にある神社の舞殿の屋根は銅板葺きになってはいるものの、内部の屋根裏は茅葺だった。

木材で組み立てた屋根は茅であったのだ。

何度か訪れた桜井市小夫の秀円寺は茅葺。

屋根裏構造に使われていたのはススンボの竹だった。

屋根裏の材が何であるのか、ついつい知りたくなるのである。

旧臼井家の屋根裏は竹の簀の子に土を混ぜて組んでいた。



火事を避けて、なおかつ防寒にもなる屋根裏構造である。

ところで玄関を入ったところの右上に開き戸がある一室がある。

いわば中二階にある構造の部屋は使用人が寝泊まりする場である。

玄関を出て外に出て外観を見る。

茅葺民家の臼井家を移築したのは昭和51年。

すでに40年も経過している。

屋根の茅葺は移築したままなのか、それとも間にカヤサシをしていたのか存じていないが、やや朽ちかけている部分がある。

屋根のてっぺんにのせてある木材である。

棟押さえの別名に「ウマ」とか「カラス」の名で呼ばれることもある。

この棟押さえの本数は奇数が基本。

神社建築も同じように偶数はあり得ないそうだ。

ちなみに旧臼井家の本数は17本。

一般的な庄屋家であっても7本。

あまりにも多い本数に森先生は驚かれる。

ちなみに旧臼井家は二万五千石の旧高取藩城下町。

主に油・酒・醤油の販売をしていた名家であった。

場を移動する。

次は大和高田市永和町にあった旧鹿沼家。

昭和55年に指定された奈良県指定文化財。

昭和54年に移築された。

次は昭和52年に同じく指定された県指定文化財の橿原市中町の旧吉川家。

奈良県平たん盆地部にある農家建築。

農家と云っても庄屋宅である。

ここで教わったのが雨だれを避ける雨どいである。

参加していた一般男性が質問された雨どい(雨樋)は昔からあったのでしょうか、である。

雨樋が一般的に広まったのは江戸時代。

大火に悩んだ奉行は類焼を防ぐために瓦葺の町屋を奨励した。

つまりは都市化である。

町屋は普及したものの雨水の落下による柱根元や土台が傷む。

傷めば腐る。

腐れば民家は崩れる。

こうした事象を防止するための構造が雨樋である。

今では金属製からプラスチック製になったが、江戸時代は木製か竹製。

古代の水路もそうだが同じく木製か竹製。

場によって材は違うが、江戸時代の雨樋は木製か竹製である。

参加者が気づかれた雨どいはすべてにあるわけではなかった。

ここが不思議。

一般的な家屋であれば雨だれを避ける雨樋は雨が流れ落ちるすべてのところにあるはずだ。

旧吉川家は何度も見ているが、今の今まで、なんで気がつかなかったのだろうか。

家屋にある玄関口辺りにしか構築されていないのである。

つまり昔は雨どいなんてものはなかったのである。

森先生が云うには玄関はここを越えるかどうか、別世界に出たり入ったりする結界にあるという。

雨どいを構築していない奥にある部屋がある。

そこには縁側がない。

縁側は江戸時代後期に造られた。

特別な場合になる縁側から直接出入りする場合がある。

家人が亡くなったときはその人が使っていた茶碗は縁(この場合は縁側でなく縁である)から捨てて割る。

藁火を焚いて葬儀の旅立ちをするのも縁である。

つまりはこの家から縁を切るということだ。

その縁のところに直線状の石畳がある。

足元をとらえた写真がある。



その端の部分は「雨だれ落ち」。

つまり雨どいもなく、茅葺屋根から流れ落ちる雨が石畳の縁沿いに当たる。

砂地であれば打たれた雨で穴ぼこになる、石畳であればそうならないのである。

昔はこうした構造であったということだ。

なるほど、である。

話は戻すが、縁切りには抜歯した歯もあった。

下顎の歯が抜けた場合は屋根に放り投げる。

上顎の歯であれば地面に捨てる。

捨てて縁を切るのである。

生まれ育った住之江の大阪市営木造住宅時代ではトイレの屋根・地面であったような気がする。

先生は続けて云った。

徳島県の事例ではこの雨だれ落ちにヒイラギの木を植えたいたそうだ。

鬼の目突きに立春のヒイラギイワシがある。

それと同じようなことなのであろう。



学芸員の許可をもらって屋内に上がらせてもらって解説をされる。

日本は座る文化。

日本間にあるのは畳部屋だ。

その昔は畳部屋なんぞなかった。

あったのは板の間に敷く畳で編んだ円座である。

それに座っていたのは室町時代からだ。

韓国や中国は椅子に座る立つ文化。

座るのは日本独自の文化である。

ちなみに正座はいつから始まったのか、である。

実は昔の女性は膝を立てて座っていた。

これを片膝とよぶ座り方。

それが正座であった。

遊女は今も昔も片膝で座るそうだ。

そういえば、映画やテレビで放映される戦国時代の様相。

戦いの戦術を意見交換する会議に武将が座っていたのは胡坐である。

稀には片膝姿の場面も記憶にある。

そんなことも教えてくださる森先生の話題提供はぐいぐいと引き込まれる。

ところで先生が座った位置に意味がある。

当主は家の状況を常に把握しておくということだ。

この位置荷に座っておれば玄関辺りが見える。

侵入者の動きがここで判る。

逆に私が座った位置は背中。

扉もあるから余計にわからない。

そこに当主が座ることはない。

室町時代より始まった家の神棚。

仏壇は江戸時代である。

神棚を背にしておけば玄関正面が見える構造である。

その座る位置を「ヨコ座」と呼ぶそうだ。

この部屋の奥は寝室。

もっと暗かったはずだ。

寝室は外に向けて閉じた世界を形成している。

寝室は真っ暗なのが本来の在り方。

ここに帳台構えがあれば、時代的にも古いのである。

また寝室は「なんど」とも呼ばれる部屋。

「なんど」に神さんがいる。

その神さんは女性であるという。

「ぬりごめ(塗籠)」という表現がある。

平安時代の読み物に竹取物語がある。

「ぬりごめ」は土壁。

竹取物語の最後に出てくる籠る場所が「ぬりごめ」。

パソコンでキーボードを打てば「塗籠」が出る。

土を塗った壁がある部屋で籠るということだ。

多彩な民俗話に益々のめり込んでいく。

竃柱は神の依り代。

敷居は屋内と屋外の境界を示す結界。

旧鹿沼家の玄関でそう話される。

玄関に建つ柱をみられた先生は、これを乞食柱と昔の人が云っていたそうだと云う。

乞食は施しでなく、家の中に居た災いを持ち去ってもらう役にあると韓国の研究者が論をたてたそうだ。

その乞食柱はホイト柱とも呼ばれるらしい。

「ホイト」とは何ぞえ、である。

調べてみれば岡山県地域言語の一つ。

『岡山民俗事典』によれば、「ホイトー、ホイト、フェートゥ、ヘートーは寿ぎ人から転じて乞食のこと」とあるそうだ。

同事典に乞食柱がホイトー柱とあり、岡山県の備中南部や倉敷市児島地区、真庭市蒜山地区を中心に認められるとあった。

桜井市下にあった旧萩原家を経て奥に向かう。



森先生が是非とも見て欲しいと云われた十津川村旭・迫の旧木村家である。

この建物も昭和50年に指定された県の文化財である。

同家は十津川村特有の建物。

ウチオロシの構造も独特である。

十津川村は谷を挟んだ急峻な地形に建つ。

向こうの岸に見える隣家に行くには一旦は谷に下りてまた登る。

片道歩いて40分もかかると森先生が云う。



敷地は僅かで奥行きがないから横に並んだ棟続きの家屋である。

幕末維新の際に活躍した十津川郷士の名とともに知られる大字旭の旧木村家も郷士であった。

たぶんにここ玄関に郷士を示す「士族」の札があったのでは、と云われる。

ちなみに玄関は室町時代から登場する。

それまでの時代は縁が出入りする処だったそうだ。



この家の土間にカラウスがある。

土間であれば地面が見えるが、ここは後年に板の間に換えたようだ。

丸い穴から大きな石の頭が突き出している。

その石は刈った稲の藁打ちの台である。

山間の民家は土間が狭いのが当たり前。

土間が広いほど稲作をしていたことになるのである。

十津川の一部にしか見られないハザカケ構造を建物の外に建てていた。



20云年間に亘って自然観察していた古民家周辺。

建物を写し込んで撮っていたが。

それが今頃になって気がついた。

今年の9月初めに初めて拝見した多段の棚がある。

棚は支柱で支えられた木造の建造物。

大字の内原滝川にあった多段の棚は稲を架ける構造物である。

十津川村の滝川や内原は「ハダ」と呼ぶ。

同じ滝川でも下地垣内は「ハデ」である。

吊り橋で有名な谷瀬は「ハデ場」。

旧西吉野村の永谷では「ハゼ」という人もおれば「ハゼ」もある。

地域によっても人によっても呼び名が異なる多段架けの稲架けが大和民俗公園にあったことをあらためて知ったのである。

森先生はここに建っていた構造物を「ハデ」場と呼んでいた。

十津川村の民家に竃がない。

囲炉裏に頼って生活してきた十津川村。

通常は板の間で生活する。

旧木村家の奥には畳部屋がある。

畳を敷き詰めるようになったのは近年である。

村は明治の神仏分離令によって、一部に残ってはいるもののすべてのお寺がなくなった神道の村。

であるが、奥の部屋にある神棚に仏壇がある。

仏壇の名だけが残った証しだそうだ。

戒名もなく、位牌は「ゆはい」と呼ぶ。

仏壇は「ぶちだん」と訛るそうだ。

興味深い話しにどっぷり浸かって2時間。

短く感じたのはとても面白かったからだ。話題の提供もあるが、先生の話し方が心地よくて・・・。

穏やかに丁寧に語ってくれた森先生に感謝する。

この日に話してくださった古民家解説は午後に開催された座談会にも活かされた。



解説を聞けなかった写真展拝観者のみなさん

是非とも館内で販売されている200円の図録を買って、見て、読んでくださればありがたい。

(H28.11.20 SB932SH撮影)

農とつながる伝統祭事フォーラムinかしはら万葉ホール

2017年07月22日 09時47分58秒 | 民俗を聴く
機会を設定してくださった高取町住民N。

参加申し込み手配をされた催しは奈良県庁農村振興課の主催事業である「農村文化フォーラム」。

会場は橿原市立かしはら万葉ホールの4階研修室。

受け受けを済ませて席につく。

当フォーラムで基調講演をされるのは和歌山大学紀州経済史文化研究所の吉村旭輝氏。

3年間に亘って奈良県文化財課の緊急伝統芸能調査したときにお世話になった氏である。

何カ所かで同じ現場に出くわしたことがある。

県発行の『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の「第五章 奈良県の神楽―巫女神楽と湯立神楽―」を執筆している。

個別に調査・報告されたのが「興ケ原・天満神社の翁舞」だ。

そのときの宵宮取材が一緒であった。

また、他に個別調査・報告したものに「十津川村 平谷の盆踊りと餅つき踊り」や「橿原市 十市のだんじり」がある。

司会・進行役は県内事例調査に度々出合ったことがある吉野町教育委員会・吉野歴史資料館館長の池田淳氏。

前述した『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』に個別調査・報告した「吉野町 国栖の太鼓踊り」がある。

お二人が専門の民俗に関しては造詣が深く、教わることは多々あった。

壇上に上がればチャンスを失ってしまうが、その前にと狙っていたときを待つ。

職員らの動きでわかった楽屋入り。

締めたドアをノックして入室。

お二人と合うのは久しぶり。

お元気な姿もそうだが、本日の講話が楽しみですと告げたら笑っていた。

さて、ここからは会場で吉村旭輝氏が講話される基調講演だ。

テーマタイトルは「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」だ。

氏が作成された資料は分厚い。

21頁からなる資料のタイトルは「農村に息づく行事と祭礼」。

日本の年中行事は農事暦に深く関係している。

自然サイクル、リズムが支配する農事暦にそって年中行事が行われてきた。

農業、漁業、林業における年中行事は太陰暦に配列されている。

お盆や彼岸・・先祖を祭る。

海外に移住した人々は神社をそこへ遷しても仕方がない。

移住した家人が亡くなれば祭りごとをもって継承する。

そういうことで移住先には寺を建てた。

なるほど、である。

農耕儀礼と密接に絡み合っているのが年中行事。

日本の場合は宮中行事から始まる。

それは中国古来の行事の伝来に基づいている。

話される話題は配られた資料に沿って進められた。

御所市のとんどは土台に松の木を据えている。

市内50カ所でそれぞれの地域ごとにとんど焼きがある。

植生環境の変化によって松の木が減少している。

それが一因でもある材の窮乏。

そのことがあって行事が衰退する。

やむなくというわけだ。

松の木は正月迎えの門松立てにも影響している。

その事実は私がでかけるあらゆる地域で聞かれる。

門松は雄と雌が揃ってのこと。

植生していた地域からそれが消えていく。

仕方がないから雄・雌の区別ができなくなった。

またまた、仕方なく植木屋さんに発注することになった。

いつかは氏神さんに飾る正月迎えの在り方も変容していく地域が増えていくことであろう。

春祭りの称する大祭は奈良県や滋賀県に多く見られる。

滋賀県の愛荘町に三つの垣内がある。

オーコで担いできたお供えは唐櫃ごと神社拝殿横に並べる。

映像を写しながら解説される唐櫃の脚の長さがある。

三つの唐櫃の脚の長さはそれぞれ。

よく見ないとわかり難いが脚が長いものから短いものも。

差はそれほどではないが、その長さは水利権を示す。

水上は脚高であるが、水下は脚が低いのである。

中世の郷の祭りは水利の力強さを意味する。

尤も中世以前は荘園時代。

そのころであるのか言説はなかったが、水利権力はそのころから・・・か。

夏にかけて行われてきた雨乞いは水の行事。

夏祭りはそのうちの一つ。

稲に虫がつかんように松明へと・・。

虫送りは和歌山にはない行事。

奈良県や滋賀県に多く見られる。

秋の祭礼はお月見から始まる。

二百十日、二百二十日は三大厄日。

農村はそのころに休む。

休んで祭礼をする。

断片的に紹介される絵解き行事。

次々と映し出される年中行事に詳しい説明をすれば絶対的な時間がないから端折られる。

行事をよく知る人であればついていけるが・・身近でない人はたぶん流されているのでは、と思った。

能は猿楽と云われて調査された「興ケ原・天満神社の翁舞」を解説する。

12月14日の伊勢の祭礼から全国に散らばった伊勢の大神楽。

さまざまな地に伝播する。

三つの型があるだんじり。

一つは船型、二つ目に住吉型。

三つ目が堺型である。

船型だんじり「は大阪市内にある。

後方に幕がある。

それ以前は彫り物人形の山であった。

そのすべては夏祭りにある。

大阪の天神祭りである。

京都で云えば祇園祭り。

疫病祓いに御幣をだんじりに取り付ける。

尤も祇園さんのだいじりはだんじりと呼ぶことはない。

山鉾である。

その鉾に御幣がある。

各地域に神輿があるだろう。

それに御幣を立てていることに気づく人も実は少ない。

御輿は神輿であるなら神の依り代が御幣なのだ。

大阪岸和田のやりまわしは秋祭り。

大阪泉州は五社の祭礼。

放生会として供養するだんじりとが組み合わさった。

堺型は4本の支え。

住吉型は3本の支柱であるという。

そこでだ。

何故に大阪住吉、堺のだんじりが奈良県にあるのか、である。

明治時代、奈良県の豪商の絡みと堺の大喧嘩が関係するという。

堺の人が売却しただんじりは豪商が購入して奈良にやってきた。

さらに区分けしただんじりは南河内型と石川型がある。

中世の南河内は和歌山の根来文化圏。

泉州の貝塚や泉佐野文化と交流した。

和歌山の粉河に傘鉾がある。

それはだんじり以前の形であることなどお話くださるが、文章化し難い。

さて、奈良にだんじりがやってくるまでの形は何か。

本来の神輿である。

明治29年、大阪堺の中之町大道で地車(だんじり)のすれ違いで大喧嘩になった。

それがあってだんじりの曳行が禁止された。

住吉大社周辺地域も曳行禁止が増え続けて曳行しなくなっただんじりは各市域に売却された。

明治末期から大正年間において泉州の和泉や泉大津、河内長野に売却された。

そういうことがあってだんじり文化が廃れていくのである。

尤もすべての地域ではないが、元々だんじり文化がなかった奈良に伝播していく過程があったことを知る。

尤も橿原市の十市のだんじりは江戸時代末期から明治時代にかけて製作された船形だんじり。

吉村氏が報告された「橿原市 十市のだんじり」によれば、だんじり舞台の内部に「住吉さん」が祭られているそうだ。

小屋根の唐破風の形態から文久二年(1862)に泉州岸和田市の大工町で新調されただんじりに見られる特徴があるという。

農とつながる伝統祭事フォーラム第二場は「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」をテーマにしたパネルディスカッション。

先に紹介したお二人の他、奈良佐保短期大学講師の寺田孝重氏に御所市鴨都波神社鴨の会若衆会会長の三井秀樹氏がディスカッションする。

地域の歴史はかけがいのないもの。

歴史を形作るのが伝統的な行事。

日常の「食」は特別な日の「食」にかけがいのない「食」であるという池田氏。

農村は大きな転換期を迎えている。

人、それぞれが暮らす。

暮らしの中で、どう子孫を残していくか、これまでどうしてきたのか、今を生きる私たちはどう未来に伝え、何をすべきかをディスカッションしていきたいと冒頭に話した。

過去のものを掘り返して歴史、輝きを知ることが未来へと繋げられる。

その際、何を指針にすべきか・・・。

「復興の年、2年は学生たちが復興、マスコミも報道してきたが・・・。学生は水もの。6年も経てばマスコミは取材に来ない。マツリを継承は、いかにどれだけのエネルギーがいるのか、である。和歌祭の、32曲からなる御船歌を復興してきた。生まれ育った泉州の和泉大津池田町でだんじりにのめり込んでいた。来年にやる、やらないの、の打合せばかりだった。五穀豊穣に新興住宅は盛り上がらない」と話すのは吉村氏だ。

「ケの世界に茶があるかもと云われて引っ張り出された。茶粥は消えているのか・・。天平茶の復元を平城遷都1300年祭にかりだされた。奈良から消費が始まった茶・・」と自己紹介される寺田氏。

「上社の鴨神社は御所市の高鴨神社。中社も同じく御所市の葛木御歳神社。下社も御所市の鴨都波神社。その神社に属する鴨の会若衆会。鴨都波神社の春の祭りの御田植祭はトーヤの家から出発する。ススキ提灯は江戸期から明治時代にかけて始まった。だんじりはそれ以前からあったと古文書に書いてある。ススキ提灯は秋の収穫後に刈り取った稲藁を積む“穂積み”に似ていることからその名がついた。昔は静かに参拝する提灯だった。いつのころか、たしか、ある自治会が提灯をグルグル回し始めた。それから我も我もと繰り出すようになった。宮司はその行為を停めなかった。若衆会はやりたいようにやらせてもらっている。行事の一環にある“ロクロキリ”がある。お祭りの火をロクロで回して火を起こす。厳かな作法に涙がでる。平成5年に発足した若衆会。何よりも楽しく祭りをしている」と話す三井氏。

四者四様の祭りに思いを伝える語り口である。

「那智の田楽は僧侶がしていた。動きを見て担い手が村の人に替わった意味合いがわかった。伝統はどうカスタマイズされていくのか。吉野山で行われているおんだ祭も僧侶がしていたが、廃仏毀釈の折に村人が演じることになった。すくすく育つ木やからススキ。形は稲と同じ。来年も同じように、ススキのように育ってほしい」とフォローする池田氏。

「茶粥を食べている人は4人。過去も食べていた人も手を挙げて欲しい」と云えば増えた。

「食べる茶から飲む茶になった。ひきちゃ(挽茶)やぶくぶく茶と呼ばれる茶は橿原市ある。中曽司町(なかぞしちょう)に共同墓地の池堤がある。茶を挽いて・・泡が立つからぶくぶく茶。その泡で食べるのがぶくぶく茶。豊かな稔があるから生活の中で使われる」と話す寺田氏。

「若人は村から出る。提灯も消える。若衆が立ち上がる。提灯回してパーフォ―マンス。ここ4、5年は高齢者の祭り離れが生じている。若いもんについていかれん。祭りはもうえーわ、という。宮司がひとこと言った。昔は伊勢音頭があった。棟上げのときに伊勢音頭を唄っていた。それを鼻唄で唄っていた。高齢者に歌を・・ということで平成28年4月、正式に高齢者組織を立ち上げた。皆が唄いやすい伊勢音頭バージョンができあがった。集合する公園に並んで唄った。そこに合いの手を打つ人もいた。皆が楽しめる祭りになった」と話す三井氏。

「御所市の南郷地区を調査したら伊勢音頭があったものの、生歌ではなくテープが唄っていた。30代、40代は働き盛り。その人たちが村から出ていって仕事がある都会に・・・。原因は研究者が紹介していること・・。カメラマンが行くと村は注目する。人気があるからである。逆に人気がないところは見にくる人が少ないから寂れる」といったのは吉村氏。

「茶とかが一番広がったのは明治時代。奈良県全域に亘って茶生産をしていた。茶はどこにもあったが、生産が減少したのは大正時代。地ビールに対抗して地紅茶も・・」と語る寺田氏。

それぞれが思いを会場に伝えるパネルディスカッション。

今あるものは、形を替えて継承すべきか。

形だけなのか。精神面はどうなのか。

村から離れる理由は何なのか。

気持ちが離れるのは何故か。

信仰はなぜに消えていくのか。

祭りは集合でないといけないのか。

ハデさがないと祭りではないのか。

そんなことを思いつつディスカッションの幕が下りていく。

テーマはたしか「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」ではなかったのか。

これでは“祭り”と“茶”だけで終わってしまう。

農村栽培の中心をなすのは稲作に畑作。

農作を営む人たちが継承してきた伝統祭事の事例紹介が違うように思えた。

振り返って開場の壁に貼ってあった6枚の行事ポスターをあらためて拝見する。

そこには“農村”の目線がないことに気づく。

写真的にも動きがあるハデ姿。

晴れ姿でなくハデな状態を表現するポスター。

すべてがすべてではないが、もっと“農”寄りに集約して欲しかったと思うのは私だけであろうか。

(H28.11.16 SB932SH撮影)

日本の民俗をきく3・第3回高田十郎の大和-採集の鬼-in奈良県立大和民俗公園旧岩本家

2017年01月11日 10時48分26秒 | 民俗を聴く
朗読および解説は元県立民俗博物館の学芸課長だった鹿谷勲さん。

「日本の民俗をきく3」の第3回は「高田十郎の大和-採集の鬼-」と題して解説されるから聞きに行こうとお誘いの電話があった。

電話の主は写真家のKさん。

「高田十郎という人は知っていますか」の問いに「平城京跡を発掘調査していた人」と答えたら・・・。

Kさんがいうには「民俗の大御所」らしい。

まことにもって不知なことで・・・。

私は奈良県内の行事の写真撮りから「民俗」に入り込んだ。

専門的な学習をしたこともない単なる情報処理を仕事にしていたサラリーマンだった。

大御所なる人はまったく知らない。

そうであれば勉強してみようと云われて出かけることにした。

会場は奈良県立民俗博物館内ではなく、奈良県立大和民俗公園内にある移設民家の旧岩本家。

古民家の利用促進の意味もある場は自然観察会でたびたび訪れる。

観察会の場は園内の自然であるが、移設展示している古民家は建物の「民俗」を紹介する建造物。

奈良県立民俗博物館の併設会場にある。

たまたま訪れるときで出くわすのが竃の火くべ。

公園職員が雑木をくべて竃に置いた釜の湯を沸かす。

燃えた煙が上昇して室内に充満する。

充満という言い方は相応しくないが、室内をいぶす。

特に天井が煙でいぶされる。

こうすることで動態保存ができる。

この日はくべることのない講演会。



会場となった旧岩本家の座敷は聴講者でいっぱいになった。

鹿谷勲さんが主宰する「奈良民俗文化研究所」の公開講座。

代表の鹿谷勲さん自らが解説・朗読する。

講演参加費は無料だが、資料代として200円がいる。

座敷にあがって聴講するのであるが、正面の部屋であれば鹿谷さんの声が聞きとれたと思う。

私が座った場は隣の部屋。

襖に遮られるのか、聞きとり難い。

それはともかく鹿谷さんが話すテーマはいろいろある。

タイトルだけでも列挙しておこう。

「住」をテーマに「ワラビ縄」(昭和十八年刊行『奈良井上町年代記抄』所蔵の貞享二年(1685)「会所やね茸入用ノ覚え」の註)。

「食」のテーマは「茶粥」(大正九年八月「大和習俗雑話(其一)」『なら』第一号)。

「信仰」は「山の神」(昭和十一年十一月二十二日調査『随筆山村記』三 のせがわ雑記)。

「人の一生」は「婚礼」(大正十三年「奥宇陀の見聞」『なら』第二十六号)。

「俗信」は「ツチヒキ」(大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号)。

「世間話」に「夫婦ともにツハリ(悪阻)をやむ家」(昭和十二 内話『随筆民話』)。

「十五堂」の名をもつ「水木要太郎」(「大福帳の水木翁」『野火』三の十)に「方言」(大正九年「大和の方言(其一)」『なら』第一号)もある。

私の今後の勉学のために、高田十郎が執筆した出典物を( )書きしておく。

他にも高田十郎の活動日誌などもあったが、一度に読み込むにはちょっと時間がかかる。

また、庶民の生活文化への感心として「村井古道」や「吉川覚兵衛」など県内における個人レベルの民俗探訪の話題提供や近代の探訪についてなどはどうやら時間がなくて話せなかったようだ。

近代といえば何人かの名前を存じている。

県史編纂は未だみられない奈良県であるが、一部の市町村史には民俗編があり調査された報告者が執筆されている。

鹿谷さんが執筆された著書の『やまとまつり旅』は私が調査するキッカケにもなった源流だと思って書庫に収めている。

それはともかく襖の向こうから聞こえてくる話者の声。

聴講されていた知人の名前を挙げる。

田原の里に住むOさんだ。

鹿谷さんが話したワラビ縄に応えたOさん。

「今井町にある家に竹で編んだものがあった。おばあさんの家は大工だった。ワラビで編んだら落ちんど、と云われた。そのときに初めて知ったワラビナワ」である。

ワラビナワとは何ぞえ、である。

ワラビは春の山野草。

天ぷらで食べるのが一番美味しいと思っている。

そのワラビが建築に用いられる。

初めて知った構造物は干したワラビの茎。

それを編んで縄にする。

そういうモノであるが、見たことも聞いたこともなかっただけに感動する。

峠を越えるときの儀礼にある「ハナオレ」はテーマ「山の神」で紹介する。

「花を折る」とは任意にそこらにある草木の枝を折って神仏に供えることのようだ。

私は聞いたことがない「ハナオレ」を充てる漢字は「花折」。

それで思いだすのが京都の朽木村。

たしか、「花折峠」があったと思う。

思うどころか、そこら辺りの渓流で魚釣りに行った覚えがある。

思いだすのは渓流の魚釣りより以前の話し。

乗ってきたワゴン車を川原に寄せた。

そのときだ。砂場に捕まって車輪が空転する。

どうしようもない状況に車道を通る四輪駆動車に応援を求めた。

ロープでラクラク引き上げた四輪駆動車の実力に感謝した。

事故ではないが、私の事件でもあるそこら辺りが「花折峠」。

有名な活断層がある地帯であった。

祝いのモノモノを運ぶ道具に「ホッカイ」がある。

「ホッカイ」を充てる漢字は「行器」。

漢字のほうが判りやすい「ホッカイ」は「人の一生」の「婚礼」の事例で挙げられた。

「ホッカイ」そのものの道具は神社の年中行事にも登場するが事例は極端に少ない。

吉野町山口の吉野山口神社の秋祭りに並べられる餅御供を詰めた「ボッカイ」の呼び名がある道具は円筒形。

まさに祝いの形である。

田原本町八田の伊勢降神社の御田植祭のお渡りに松苗を運ぶ「ホッカイ」があるが、その形から唐櫃ではないだろうか。

天理市大和神社のちゃんちゃん祭に登場する「ホッカイ」は大字成願寺の人たちが奉納する牛の舌御供を詰めた御供箱である。

呼び名の「ホッカイ」はさまざまな形があるようだ。

近江先生の話しによれば、父親が亡くなったときに「何かせんぞというて、ツチを引っ張った」そうだ。

近江先生とは、天理丹波市の中之町伊勢講行事が納め最後になったに平成25年7月16日にお会いしたことがある。

先生が住まいする地域の行事(公納堂町阿弥陀さんの夏祭り)を取材させてもらったこともある。

続けて鹿谷さんが伝えるツチノコを奉納している地蔵さん。

場所はすぐに思いだす懐かしい奈良市の南庄町。

大晦日の日に特殊な形の注連縄を架けることを知って取材した。

その帰り道に大変な目にあった。

たいへんとは大雪である。

取材中に降りだした雪はあっという間に真っ白な景観に変化した。

道路も当然ながらの真っ白け。

しかもアイスバーン状態。

少しは溶けてからと思って夕方近くまで滞在したかな。

頃合いを見計らって行事をされていた南庄町を離れた。

道路は滑る、滑る。

ノーマルタイヤだったので滑るのは当然。

カーブ連続の坂道ドライブウエイに冷や汗・・ではなく熱い汗をかきながら必死でハンドルを握った。

スピードは出せないが停止したら動かすことは不可能。

とにかくアクセルを踏み続けて。

道路の端っこには立ち往生した車が何台も放置されていた。

市内に入ったときはほっとした。

自宅になんとか帰ってぐったり。

そのときの反省から12月になればスタッドレスタイヤに履き替えることにした。

そんな話しはともかく南庄町には腰痛地蔵と呼ばれている地蔵尊がある。

ここでは腰痛にならないように願掛けされたツチノコがいっぱいある。

掛けた願が叶って苦しんでいた腰痛が治った。

お礼に奉納したのがツチノコである。

ツチノコと呼ばれているツチの形はヨコヅチだったように思える。

とにかく多いツチノコに圧倒された話ではなく鹿谷さんが語るツチは、大正九年「大和習俗百話」『なら』第一号に収録された死人が出たときの「ツチヒキ」である。

町内の人たちは今でも「ガンゴジ」と呼んでいる元興寺町。

目出度い正月に黙ってツチを引っ張っていたそうだ。

付近の町内では伊勢音頭を唄っていたというのだから、祝いもあれば喪にもあった「ツチヒキ」っていったいなんだろう。

提供される民俗話しは満載であった。

ふっと我に返って旧岩本家で聴講されていた人たちの顔をみる。

隣に座って聞いていたのは誘ってくれた写真家のKさん。

その横はサンハライ念仏を取材させてもらった奈良市鳴川町の徳融寺住職の阿波谷さん。

八島の六斎念仏取材以来お世話になっているが、何故か私の名前はKさんと思いこんでいるようだ。

Kさんに届いた賀状の文でそのことがわかった。

3人の顔が揃ったところで思い込みを解消したく、説明させてもらったら笑っていた住職は7月23日に境内地蔵堂内で地蔵盆の数珠繰りをすると話してくれた。

ありがたいことであるが、スケジュールブッキングになるから翌年持越しとしたい。

会場で声をかけていたのは田原の里のOさん。

その隣におられたのが、奈良市矢田原町でお会いしたMさん。

先月の6月1日に、である。

なんでも今月の7月1日に斎主された月次祭で平成22年3月24日に掲載した産経新聞の切り抜き記事を長老六人衆に見せて紹介していたという。

ありがたいことである。早いうちに6月1日に撮らせてもらった写真を届けたい。

この場で「おう」と手を振った男性も顔馴染み。

地元大和郡山市で源九郎稲荷神社代表を務めているNさん。

すぐ横にはFBトモダチのAさんも同席していた。

Nさんとは大和郡山市の一大行事のお城祭りの白狐渡御出発時にお会いした。

その前は「水木十五堂授賞記念講演」の式典があったやまと郡山城ホールで、だ。

1月、3月のときの私の身体を心配してくれている。

今ではすっかり・・とはいえないが、可も不可もない健康状態。

口だけは元気ですと伝えたら笑っていた。

「水木十五堂授賞式」は記録を重視していた人々を称える表彰である。

これまでお世話になっていた人たちと顔を合わせば元気になる。

そう、思った会場で紹介された二人組。

名前を伺えば「桃俣獅子舞保存会」の団体だった。

写真家Kとともに目を輝かす桃俣の獅子舞。

奈良県内には曽爾村、御杖村、旧室生村などで獅子舞を披露演舞する集団がある。

そのうちの一つであるが、大字桃俣の行事はなぜか足を運んでいない。

いずれは、と思いつつも実現はしていなかった桃俣に藁人形で作った「ワッカ」と呼ぶモノがあるそうだ。

藁に串で挿したコンニャクやエダマメなど。

それは「ヒトミゴク」の呼び名もあるらしいからほっとけない。

今年のヨミヤは10月8日。

トウヤ家の行事があるように聞こえた。

翌日の9日はマツリ。

上や下垣内の一軒ずつのトウヤ家に出かけて竃祓いを舞うそうだ。

取材してみたいが第二日曜日。

県内でもっとも行事が多い日。

さて、どうするか、である。

(H28. 7.17 SB932SH撮影)

大柳生・吐山・篠原「大和の太鼓踊り」の講演と体験ワークショップin奈良県立図書情報館

2016年09月27日 10時08分25秒 | 民俗を聴く
忘れないように書き込んでおこうと思った講演会と体験ワークショップがある。

奈良県立図書情報館で行われた一日限りのイベント。

奈良県内の大柳生・吐山・篠原で行われている「大和の太鼓踊り」をテーマに開催された。

このイベントを知ったのはたまたま登場したFBのイベント紹介である。

どういう関係からこれが登場したかは判らないが、主催に「奈良の文化遺産を活かした総合地域活性化事業実行委員会」がある。

この実行委員会の存在は存じていない。

いつできあがったものかも判らないし、何をしているのかも判らない団体である。

ここに並列表記した(事務局)に「奈良県教育委員会事務局文化財保存課」の課名がある。

記されていた電話番号も課の番号である。

イベントタイトルからでも判る大和の伝統的な民俗行事の太鼓踊り。

大柳生は奈良市東部山間にある大柳生。

吐山は旧都祁村にあった現奈良市都祁吐山町。

篠原は旧大塔村の篠原。

現在は吸収合併した五條市内の大塔町篠原である。

イベントチラシに「県内では45もの祭りや行事が、国や県の無形民俗文化財に指定されています。今回は、“太鼓踊り“をテーマに3地域を取り上げました。”頭“と”体“を使って地域と文化財を知る、感じる、つなぐ、きっかけになればと思います」と書いてあった。

第一部は“広く知る“に「大和の太鼓踊り~風流踊りという芸能~」をテーマに元京都学園大学准教授の青盛透氏が語る基調講演がある。

第一部のもう一つに”それぞれを知る“がある。

前述したキーワードに挙げている大柳生・吐山・篠原、各地域の太鼓踊り映像で観て地域の人から話しを聞く、である。

第二部は各地域の太鼓踊りを教わって一緒に体感してもらおうというプログラムだ。

協力に大柳生町自治会、吐山太鼓踊り保存会、篠原おどり保存会のみなさんが登場する。

共催は奈良県立図書情報館。

今回のイベント資料に太鼓踊りや奈良県の指定無形民俗文化財に関連する図書館所蔵リストが配布された。

研究者にとっては調べる手がかりになりそうなリストであるが、ここでは省く。

到着したときはすでに講演会が始まっていた。

後方にビデオ収録していた二人は顔馴染み。

頭を下げて静かに席につく。

そこで気がついた筆記用具。

メモを残すに必須アイテムが要る。

ボールペンを忘れたことに気がついたが、遅し、である。

頭の中に映像や語りを残そうと思っていたが、帰宅して数か月も経過すれば真っ白。

残ったのはケータイ電話で撮った体験ワークショップの様相である。

篠原おどりは講演会会場。

持ち込まれた太鼓とバチがある。

そこには艶やかに舞う女性陣が使う扇だ。

太鼓は10張。



その中に古くから使われてきた太鼓がある。

じっくり拝見する余裕はない。

太鼓を打つ人は床に座る。

後方には扇を手にして舞う。

篠原踊りの艶やかさはここにあるが、太鼓を打つまでの体験だけに太鼓役は座って打つ。

足の振り付けはないが、長老が唄う篠原踊りの唄が哀愁を帯びていた。



その場に居た人物はどこかでお見かけしたことがある。

名前が思い出せない。

もしかとすればと思って声をかけたら川上村東川在住のMさんだった。

実に9年ぶり。

平成18年9月18日に訪れた烏川神社の豊穣祭の千本杵以来である。

千本杵で餅を搗く際に唄われていたご仁である。

「めでた めでたの 豊穣の祭り ソリャー豊穣の祭り イョー みなの幸せ ソリャー祈りましょ おもしろや」とおめでたい言葉が連なる伊勢音頭の囃し歌だった。

この場に来られていたのはたぶんにご招待。

東川には大きな祝いごとにしか登場しない太鼓踊りがある。

私が取材した日は平成17年11月13日

東川では古典太鼓踊りと称していた。

太鼓踊りのつながり関係で来館していたのであった。

9年ぶりにお会いしたMさんとは年賀状でやり取りをしていた。

その賀状に書いてあった川上村のビッグイベント。

話しを聞いて納得した土蔵生誕百年祭である。

体験ワークショップは篠原だけでなく大柳生もある。



踊り演舞は場所をとる。

他地域に影響を与えることなく一室離れた場で行われた。

自治会長自らが演じる足腰。

イチ、ニー、サーン、シーと数えながら跳びながら移動する。

太鼓を胸に付けての踊りはそれが慣れてからだ。

もう一つの団体は館の外庭だ。

チャンチャチャチャンの鉦の音にドン、ドンと打つ太鼓。

足さばきは身体ごと左右に動く。

シデ振りと太鼓打ちは中央で行われる。



民俗行事を丹念に追いかけて写真を撮っているTさんも体験していた。

ところで青盛透氏の講演語りである。

メモがないからまったく思いだせない。

配布された資料を紐解く。

と云っても書き写している間に思いだせると思って書きだした。

資料のタイトルはコラム②の「“風流”と“風流踊り”」である。

前年の平成27年11月3日に取材した行事がある。

それは奈良県ではなく京都府南山城村で長く伝承されてきた田山の花踊りである。

現地で拝見した踊りは奈良県内の太鼓踊りとは異なるものだと確信した。

主に三重県に伝わる太鼓踊りは服装も所作も異なる。

敢えていうなら奈良市月ヶ瀬の石打で行われている太鼓踊りが近いと思っていた。

石打は三重県寄りに近い地域。影響を受けたことは当然であろう。

田山の花踊りを調べるに、一般公開されているネットを駆使して探した。

見つかったのは「三重県インターネット放送局」が公開している三重県内の伝統行事である。

そのすべてではないが、一部にカンコ踊りとかを解説していた断片的な報告書が添付されていた。

執筆者にこの日語りをする青盛透氏や植木行宣氏、鬼頭秀明氏、長谷川嘉和氏らの名がある。

取材地によっては㈱CNインターボイス社がまとめた報告書もある。

これらは「平成22年度ふるさと文化再興事業地域伝統文化伝承事業」の報告書の一編である。

地域的な伝承はコラム②にも書かれているから読んで欲しいし、県内で民俗行事を写真でとらえている写真家は特に拝読して欲しいと思うのだ。

質問した内容はメモも捕っていないのでまったく思いだせないが、青盛透氏の回答は「女装は間違いなく風流である」と云ったことだけが記憶にある。

“風流”は“ふうりゅう”でなく、“ふりゅう”と呼ぶ。

コラム②によれば「貴人に下賜(かし)された装束や道具の豪奢な飾りの意味があり、そこから趣向を凝らした造り物、仮装行列、また、それに伴う歌や踊りの意味として用いられた。

大治四年(1129)六月十四日条にある『長秋記』。

美麗な飾りの意味であり、芸能そのものではなかった」。

「鎌倉期、平等院で催された延年風流に大がかりな造り物があった。院政期からか鎌倉期の祭礼に、山鳥の毛をつけた笠を被り、装束を着たきょうの町民や郊外村民が領主や貴人宅を訪れて歌舞を演じていた」。

寛喜二年(1203)七月七日条の『名月記』である。

このころの風流は「歌や舞が伴う囃子物。芸能風流はプロの集団ではなく素人の手による芸能であった」。

室町期、さらに広がる風流は正月の松囃子、盆の念仏風流、雨乞い風流、・・・季節の行事、信仰とは関係なくあらゆるものに付随するもになった。

戦国期には歌謡小唄を組み合わせた踊り唄も。

唐織物の小袖で衣装を統一した踊りが登場したことを書いているのは大栄元年(1521)七月十四日条にある『春日社司祐維記』だそうだ。

風流踊りに特化したものが女装。

京都、奈良、大坂などの都市部に流行。

これがいわゆる“風流踊り”であると氏が伝える。

こうして講演や体験ワークショップを書き残していたら、ふと思いだした。

青盛氏に質問した内容が頭の中に湧いてきた。

京都府南山城村の「田山の花踊り」に登場する「唄付」である。

唄付は「フクメン」の女装化であった。

(H28. 3.26 SB932SH撮影)

国際博物館記念日講演会―福神と招福―in県立民俗博物館

2016年04月02日 08時34分39秒 | 民俗を聴く
奈良県立民俗博物館で行われた国際博物館記念日講演会を聴講した。

お題は「福神と招福」だ。

お話しは手塚山大学教授の源城政好氏。

福とは何かをお話しされる。

昭和52年5月18日に国際博物館会議が制定した国際博物館記念日。

5月18日前後の日は全国各地の博物館でさまざまな記念事業が催される。

今年で14回目を迎えた奈良県立民俗博物館記念事業である。

講師は1946年生まれの文学博士。

先人が研究された多くの史料を咀嚼して話しましょうと初めの詞を述べられた。

「福徳神」と「長寿神」。

エビス天・ダイコク天は室町時代に表舞台に出た。

奈良時代の『日本霊異記』。仏教説話を集めた中巻第四条に、奈良にいた貧しい女性が穂積寺<奈良市東九条町>に詣でて千手観音にお願いして、百貫、大いなる宝を得る話し。

一貫は千文。一文を現在のお金の価値でいえばだいたい10円(五円の考えもある)。

一貫は現在価値の一万円。百貫であれば百万円になる。

百貫、大いなる宝を得る話しはあくまで説話。

事実を反映したかどうかは疑問であるが、「富」が人々の意義に定着していたことが判る。

ただ、庶民の願いが記録に残るのは11、12世紀の平安時代。

応徳二年(1085)七月の『百錬抄』によれば「朔日より東西二京の諸条(街路)、辻毎に宝倉(ほこら)を造立し、鳥居に額を打つ、その銘を福徳神或は長寿神、或は白朱社と云々・・洛中上下群衆し・・破却すべく由、検非違使に仰せらる、淫祀(いんし)として格制(法令)有る・・」。

『百錬抄』は編年体で書かれた歴史書。

七福神がまだ整っていない時代に突然に出現した福徳神であるが、神さんを祀ることによってだまし取る人が現われた。

如何わしい神さんを祀ってはならぬと鎌倉時代に発令された。

人々が集まってくる辻に祀った「辻神」。

京中は商人の町。「辻神」は「市神」である。

「市」が立つ処に現れて人々に幸運をもたらす。

祀られた「辻神」は「財(たから)」であった。

人々が求めるのは「財」。

「健康」を求める「福の神」とは別次元の「財」の神であった。

11~12世紀の平安時代は阿弥陀信仰や観音信仰が根付く時代。

永長二年(1097)閏正月『中右記』によれば京中の観音さんは原生利益。

病気回復を願った時代で、「富貴」が目的。財力を保っていた。

狂言に「福の神を授かる」一節があるようだ。

室町時代ともなれば長寿も福も宝だった。

長寿は究極の「福」であった。

祇園社の祭礼費用。馬上役と呼ぶ。

この費用を誰に負担させるのか。

京中の「富家」である。

経済的な貯えをもつ富家である。

銭と富をめぐって議論があった。

「徳」は「得」に通じる。

裕福な人は「徳人」。

「有徳の者」は金持ちなのだ。

この考えが定着した時代は室町時代以降である。

1491年代に「福徳」年号が出現する。

ときの朝廷が定める正式な年号は「延徳」であるが、「福徳」年号は「私年号」。

東北地方で盛んにつかわれた「私年号」。

「弥勒」から考えられたと思われる「命禄」もあるそうだ。

エビス神や弁天さん。

福禄寿など七福神が不動のものとして定着する時代は江戸時代の半ば。応永二十七年(1420)正月『看聞日記』に「・・・又布袋・大黒・夷・毘沙門等、又番匠棟上之躰種種之を作る・・鶴亀舞、種々風流例年ニ超過す、其興極めなし」がある。

書いた人は貞成親王。天皇になりたかったが、なれなかった親王。

このころの「富貴」はエビス(夷)、と大黒天。

「夷」は「異人」。異界からの来訪者である。

室町時代から顕著になった来訪者は荒ぶる神。

負の存在としてみていた。

現代ではエビスを充てる漢字は「恵比寿」。美しい表現になっている。

福の神に転じるのは兵庫県西宮社家町に鎮座するえびす宮総本社の西宮神社があってのこと。

それより信仰が早かったのは大黒天。

荒ぶる神の大黒天は軍神。

台所の神さんに祀られた大国主を合い重なって広まった。

蓑や笠は民俗学の分野。

大黒天がもつ打ち出の小槌がある。

小槌は本来存在しないが全能の道具。

一寸法師など各地の民話に残る。

武人の神さんとして崇められる毘沙門天は多聞天とも。

信貴山絵巻によれば毘沙門天は「富」に結びついた。

今日の「福」には「健康」が含まれるが、もともとは「財」から始まった。

今日的には長寿までも含む「福」。

豊富な史料から「福」とはどのように日本人がとらえていたのか。

福をもたらす神。エビス神、大黒天、毘沙門天から七福神に移りゆくお話しであった。

終わってから取材に来ていた毎日新聞奈良支局の記者から突然のインタビューを受けた。

『あなたにとって福は「財」ですか、それとも「健康」でしょうか』である。

「財」や「富」を求めるのは昔も今も変わらない。

あったらあるだけなにかしら使ってしまうもの。

なくとも・・とはいいたくないがフツーの生活ができればいい。

むしろ穏やかに健康でありたい。

無病息災を求める人は一年の始まりに神社へ参る。

宝くじが当たってほしいという人もいるがごく少数だと思っている。

「民」が求めるのは健康であることが願い。

いわば心の願い。

正月に歳神を迎える願いは昔も今も変わらない「招福」だと思っている。

その後の24日に新聞掲載された講演会記事がある。

副題は<中世日本人の「福」考察>とある。

「大和郡山市矢田町の県立民俗博物館で17日、国際博物館会議が定める「国際博物館の日」(5月18日)に合わせた記念講演会があった。日本の中世史を専門とする源城(げんじょう)政好・帝塚山大文学部教授が「福(ふく)神(がみ)と招福(しょうふく)」と題して講演し=写真、参加した約30人は中世の人々の「福」に対する意識の考察に耳を傾けていた。源城教授は「平安後期から室町時代にかけては、財宝を持つことが福とされていた」と述べ、健康や家族を「福」とする人が多い現代との違いを指摘した。また、福神を代表する恵比須や大黒天への信仰がどのように広まったかなどを紹介した。参加した同市城町の民俗写真家、田中真人さん(64)は「お金など現実的なものより、心の部分とか『見えないもの』に福を感じるようになったのだろう」と話していた。【塩路佳子】」。<全文借用>

突然のインタビューに話したぐだぐだ話を簡潔に纏めてくださった。

この場を借りて記者の塩路佳子さんに感謝申し上げる。

(H27. 5.17 SB932SH撮影)